強者の論理(1)-ポロチク地方のこと 

ポロチクのサトウキビの話の続きです。


プラサ・プーブリカに掲載されていたチャビル・ウツァフ側の主張を・・・と思って
しばらく前から準備していたのですが、
これに思いがけず時間を取られてしまいました。


インタビュー記事なのですが、話している人が悪いのか、
記事をまとめた人がわるいのか、
とにかくまだるっこしく、奥歯に物がはさまりすぎているような歯切れの悪い文章で、
こんなに読み込むことができない文章は久しぶりだ・・・・・・。
おまけに、インタビューの合間に記者のコメントが入っていたりするし。


というわけで、そのまだるっこしい言い回しをすっぱりカットして
できるだけ平易な文章にしてしまったのですが、
途中読み違いや誤りも多々あると思います。
そういうのを発見されたらご指摘頂けるとありがたき幸せ。


さて、本題に入りますと、このインタビュー記事は
前回のフォントの記事の後、2011年4月5日に出たものです。
チャビル・ウツァフの代表であるウォルテル・ウィドマンにインタビューした記事ですが、
途中ウォルテルの父のカルロス・ウィドマンも一緒にいた時間もあったようで、
計5時間以上にわたる長い長いインタビューに加え、その後のメールのやり取りまであったという長尺会見だったようですが、
まあこの記事も5時間分とはいかないまでも長い長い。


このインタビュー記事、2回に分けて掲載してみようと思います。





アントニオ・ベブ・アクには何が起こったのでしょう?


他の農場もそうでしたが、ミラルバイエ農場でも不法に占拠していた農民らは出て行くことを受け入れました。彼らは立ち退き命令が執行されることを知っていたので、既にほとんど全ての物を持ち出していたので、残ったわずかの物を整理するために1時間の猶予が与えられました。女性も子供ももういませんでした。1時間を過ぎてももう少し時間が必要だった人がいたので、更に待ちました。彼らの多くは住んでいた場所を通る公道にいました。
トリエーヨ財団のメンバーであるアベリーノ・チュブ・カアルという人物が担当検事に、自分は米州人権裁判所(CIDH)の判事の電話番号を知っている、CIDHは立ち退きに関して決定を下していると言いました。チュブ・カアルの言った電話番号は判事のものではなく、財団の弁護士と名乗る人物のものでした。彼はその後、外国人女性を伴って農民に向かうと、裁判所の命令に従うことなく抵抗するようにとけしかけました。検事は、それは法の執行妨害に当たるから止めるようにと警告しました。


農場が明け渡され、私どもの従業員や重機が入って住居跡を撤去することが認められました。作業は北から南に向かって進められました。占拠農民らの住居跡があったところまで来ると、道路から脅迫や侮辱、更には投石がありました。争いを避けるために従業員には北の方に至急撤退するようにと命じましたが、後を追いかけていく者もいました。警察(PNC)の機動隊が従業員と占拠していた人たちを隔てるために両者の間に列を作りました。
ですが、チュブ・カアルや他の指導者がけしかけたので、多くの占拠民が機動隊にも石を投げたり暴力を振るったりしました。機動隊の列はこの敵対行為のために後退しました。盾の下からマチェテで脛あてで保護されていた足を切り付けたりしていたからです。そこで手榴弾タイプの催涙弾が発射されました。向かい風だったので、占拠民よりも警官の方が被害を受ける形になりましたが。


占拠民は機動隊の列から離れることにしたのですが、走って逃げる最中、何人もがサトウキビのプランテーションの中の穴につまずいていました。つまずいて倒れた中の一人は、機動隊からかなりの距離のところに座っていましたが、頭に手をやっていました。仲間達が近づいて彼を取り囲んでいました。私には何とか見ることができるくらいの距離だったのですが、彼らはその男性を地面に横たえ、彼はそこで死んでしまうだろう、その場に埋葬しなければならない、と叫びました。軍や警察の救急隊が手当てをしようとしましたが、仲間らがそれを拒みました。


更にはその場にいた警察の救急車で運ぶのをも拒否しました。トリエーヨ財団のグレーのピックアップに乗っていた人物に、負傷者をラ・ティンタの病院まで運んでくれるよう説得したのですが、占拠民らはこれも拒否しました。そして公道に一旦戻ってくると、負傷者は「頭に銃傷を負っていた」と言い出しました。テレマンの保健所の救急車も来ましたが、占拠民のリーダーらが近づくことを許しませんでした。


最終的にアントニオ・ベブ・アクは死亡しました。検視報告書を見たわけではありませんが、頭部の傷は「刃物または鈍器」、おそらくはマチェテによるものと判断されたと理解しています。実際のところは、アントニオ・ベブ・アクは占拠民のリーダーらが適切な医療を拒否したために亡くなったのです。


急進的な活動家らは銃で撃たれて死亡したと言いつのっていましたが、これが誤った糾弾であったことは既に明らかです。私は機動隊の発砲を聞きませんでしたし、活動家らが主張しているように、当社の警備員が発砲したわけでもありません。警察から私達が武器を農場に持ち込まないようにとの要請があったからです。用心のためでした。


死者が出た責任を立ち退きを執行した当局に押し付けようとしていますが、彼らは、国が保護すべき権利を侵害することを計画し、扇動し、実行している人物に対して出された執行命令であることを忘れているのではないでしょうか。暴力を伴った違法行為により権利を侵害された者に対しては、それを保護し取り戻すのが国の義務であって、自由裁量によるものではないのです。


私達はアントニオ・ベブ・アクは転倒した時に自分のマチェテで傷ついたのだと考えたいです。そうでなければ、転倒した時に仲間の誰かが持っていたマチェテで怪我をしたのでしょう-インタビューの数日後にそう書いてきた-。私達には、それが一番ありそうなことのように思えます。ですが、たとえ不都合があったとしても、ベブ・アクの死の真相は解明されるべきものです。事実関係については詳細に調査して欲しい。そして、殺人であったのであれば、それが誰の責任によるものであったとしても、しかるべき懲罰が課されるべきです。


5人の孤児を抱えた未亡人が残されました。どうして彼が占拠民のところに戻ったのかはわかりません。最初の立ち退き執行で悲劇的なことに死者を出してしまいました。農民の保護者だと名乗る者が法律に従い、法に抵触するような行為をしなければ起こらなかったことです。


彼の葬儀には、占拠を扇動していた反体制組織のリーダーらは不在でした。その一方であっという間にこの出来事を国内的・国際的な旗印としてしまったのです。


あなた方は社会の上の階層で活動しており、国内の主だった人物と関係を持っています。大統領夫人や内務省長官との会見はどうやって実現させたのですか?


実際のところは、あなたが考えているようなこととは全く異なっています。それどころか、私の家族はあまり社交的じゃないんです。グアテマラ社会の上層部で活動しているわけではありませんし、国内の主だった人物と特別な関係を持っているわけでもありません。


大統領夫人や内相との会合に出席したのは私の父だけです。というより大統領夫人からの要請に従っただけです(インタビュー時には、父のカルロス・ウィドマンはサンドラ・トーレスに近い人物に面会を求めたと言っていた。その時点では彼らの方から面会を求めたと言っていた)。


会見に内相が立ち会うということは事前には了解していませんでした。私はどちらにも会ったことはありません。占拠に係わっている反体制組織の方が、この国の重要人物やマスコミとより密接な関係を持っているのは疑いの余地がありません。もしかしたら国際社会から多額の援助を受けているのかもしれません。彼らはそういう類の関係を築いていくために必要な体制を持っています。


サンドラ・トーレス(訳注:当時の大統領夫人)やカルロス・メノカル(訳注:当時の内務省長官)と会合を持った理由はなんでしょう?


占拠を扇動していたグループの中に、インヘニオの土地を農民に分配することで政府と合意に達したと明言していた人物がいたからです。より正確に言えば、サンドラ・トーレス・デ・コロンとの間で合意に至ったと言っていたのです。率直に言いまして、私達は政界にコネがほとんどありませんので、事実かどうかを直接確認する必要があったのです。


会見に入ると共に、サンドラ夫人は違法行為と関係していると指摘されたことに不満を述べました。ですので、私達がそう言っているわけではなく、占拠を扇動している人物が言っているのだと説明しました。サンドラ夫人は、大統領も彼女自身も、会社の土地については何らかの合意に至ったことはなく、違法占拠を認めたこともないと確認しました。


それから、プロジェクトについてや、プロジェクトがその地域に及ぼすと私達が予想している影響について関心を示しました。またそこで起こっていることについて、私達の見解をも尋ねてきました。


ポロチクの状況は深刻であったということをご理解下さい。一方では、反体制組織の活動に問題が集中しているように見えます。他方では、占拠民の犯した違法行為について、多くの住民が腹を立てていました。当局の裁定の結果次第では、武装していた占拠民らと住民らの間に暴力的対立が発生する可能性があることは予見できました(インタビューの席上、ウォルテルは「私はいつも武装して歩いていますよ、他にどうしようもないですからね。可能なら向こうのリーダーが持っているような9ミリの銃が欲しいものです」と言っていた)。


どんな約束を交わされたのでしょうか?


約束というものは交わしていません。大統領夫人と内相は、その件に関しては法律に従うと強調していました。そして、農場から違法に占拠している人々を立ち退かせるためには、司法命令が必要であると言いました。


その後、大統領ともお話をされてますね?


農業会議所の会頭は度々大統領と会って話をしており、政府は法に則って行動するという確証を得ていました。


以前、あなた方は何度も告発を行ったにも係わらず、警察もその他の当局も何の行動も起こさなかったとおっしゃっていました。今回政府が行動を起こした理由は何なのでしょう?


ポロチクの状況が深刻になったということでしょう。この地域の統治能力が危うくなっていました(インタビューの席上では「ここは社会的火薬があるんです」と言っていた)。状況は劇的になっており、地元の農民の中には私達のところにやって来て、占拠民から身を守ることができるよう「パルケ(弾薬)」を貰えないか、と言ってくる者もありました。もちろんそれは断りました。農民の間での暴力的な対立を避けるためでもありましたが、私達にはそれだけの資力がありませんでした。弾薬を買うためには各人について武器の許可を取らなければなりませんが、非常に高額になることがわかったからです。


警察や検察に届け出てはどうかと勧めてみたのですが、逆恨みして殺されるのではないかと怖がっていました。当局を信頼しなければならない、自分達の手で法を行うなどとしてはいけないと言いましたが、彼らは「ですが旦那様、あなたにはそんなこと言えませんよ。旦那様が届け出をしたら、その後はもっとひどいことになってるじゃありませんか」。


テレマンの人たちは、ミラルバイエの占拠民は農場を通る公道で強盗を働いていると認識していました。ピストルを突きつけられて所持品や金や携帯電話を奪われた通行人がいました。カルダモンを買付けにきた人が、持っていた銃や金を奪われたという話も聞きました。「戦争税」を徴収していたという話も聞いたことがあります。セサル・モンテス(元URNG司令官の一人)自身が電話をかけてきて、ポロチクでは他人の物はあまり尊重されない、と言ってきました。一番多い犯罪は近親相姦で、その次が重大な横領なのです。


政府当局の行動はどのようなものだったのでしょうか?


正しいものでした。非常に正式で、法の最低限の要求にも細部まで配慮したものでした。率直に申し上げて、そこにいた人達は、恐れといくらかの予感で良心をぎゅっとわしづかみにされたように見えました。マスコミや人権保護機関、国際社会の監視下にあるということで、不要な衝突を避けるために最大限の注意が払われていました。


その同じ率直さで、第一列にいるべきではなかった多数の人達に対してはあまりにも寛容に過ぎたのではないかと、思い切って言ってしまいましょう。出来事を撮影しようとカメラやビデオカメラを持った人達がやって来て、その場にいた私達に嫌がらせをしました。新聞記者やリポーターのことではありません、報道関係者はリスペクトしてくれましたし、慎重でした。占拠民の中には顔を覆い、身元がわからないようにしている人も何人かいました。


立ち退き執行の過程に対して批判がありますが、どのようなご意見でしょうか?


多くの場合、実際に起こったことを知らないから批判するのだと思います。事実関係が伝わっていないことはよくあることです。占拠の背景にいる反体制組織は、自分達の目的のために出来事をゆがめて伝えたり、報道を操作するための資金も影響力も経験も持っています。コラムニストの中にも、事実が伝わっていないことが明らかだったり、プロとして真実とバランスに基づき実際に起こったことをより深く理解するとか表現するとかいう職業的関心よりもイデオロギーを優先させている場合があることがあります。


作物を根こそぎにしたのは何故ですか?


ミラルバイエの後、従業員の中には仕返しを恐れて占拠民が住んでいたところに入るのを嫌がる者がいました。立ち退き執行が終了し当局が引き上げる時に、占拠民が戻ってきてまた住み着くのを防ぐつもりだということを示す必要があったのです。農場が引き渡されてから治安当局が引き上げるまでにはそれほど時間があったわけではありません。一番簡単な解決方法が住居跡を焼き払うことでした。両者間の対立や脅迫といった小さなリスクはあると思っていましたので、割り当てた人数は最小限でした。


焼き払ったチャンパ(粗末な小屋など)はいわゆる「住居」でも「家」でも何でもなかったことをはっきりさせておくのは大切なことでしょう。全員ではないかもしれませんが、大部分は村や集落に家を持っていました。彼らはチャンパを日陰で休憩したり、作物を守る夜警が自分の番を待つために使っていただけです。チャンパが彼らの家だったと信じさせようとしている悪意が存在しています。


立ち退き執行の中でそれを行うのはどうしてですか?


もし警察がいなくなるまで待っていたら、立ち退き命令は失敗に終わっていたでしょう。ポロチクのICTA(訳注:国立農業技術科学研究所)の農場の立ち退き命令のケースがそうでした。金曜日の早朝に最後の警官隊が引き上げると、土曜日の明け方には再び占拠民がもといた農場の居住地に住みついていました。


立ち退かされた農民はどうなるのでしょう?眠るところも食べるものもないまま、道路脇で生活している一家がいるという報告があります。


ティナーハスという農場の話ですが、確かにそこには道路が川と交差する付近に5,6人の大人がいます。出身地の共同体に家を持っていますが、占拠した農場から遠くてトウモロコシの世話をするのが大変なので(会社は収穫までの猶予期間を与えた)、そこにいることに決めたのです。


立ち退いた農民の大半は、パンソス、テレマン、カンルン、アグア・カリエンテ、チビッチ、シュクブ、サクシュハーといった町や村に家を持っていたり、別のところに土地を持っていたりします。道路脇に眠るところも食べるものもない一家がいるのは事実ですが、誤解もあります。


立ち退きが執行された農場の大半では、収穫を行えるために十分な期間を与えています。もちろん、会社には自分達の栽培計画に応じて、ある程度の土地で仕事に取り掛かる必要がありました。といいますのも、既に深刻な損失を被っていたからです。どの土地から始めるかは、厳密に農業的見地から判断しましたが、同時にどれほど暴力的な占拠が行われていたかということも勘案しました。正義という意味で、占拠があまり暴力的でなかったところ、占拠していた農民らが何らかの後悔を示しているようなところでは、収穫を持ち出すことができるよう、最後に回しました。
インタビューの席上、ミラルバイエの作物については「焼き払った」ということを確認した。曰く「ミラルバイエの作物は、既に価値がなかったからです。どちらにしてもそうせざるを得なかったと思います、私達は種をまかないわけにはいかなかったのですから。ベーヤフロールやリオ・フリオも同様です。そこは抵抗が一番激しかったからです」。


過激とか暴力とかですか。あなたは不法占拠があり、所有する土地の半分にあたる1800ヘクタールのサトウキビが焼かれ、2800万ケツァルの被害が出たと主張されていますが、どこで何があったのでしょうか。


不法占拠は主に2010年の後半にありました。サン・ミゲリートのプランテーションでは2010年の6月から7月にかけて、度々火災がありました。


現在、農場はどのような状況なのでしょうか?


一部では栽培を行っています。それ以外のところでは、占拠民らが育てたトウモロコシを運び出すのを待っています。立ち退きが執行された農場の中には再び占拠されたものが一つあります。また、立ち退き命令が執行されないまま占拠されている状態の農場も一つあります。


国連の人権高等弁務官事務所はグアテマラにオブザーバーを派遣し、事件の内容を知ると政府に立ち退き命令の執行を停止するよう勧告を出しました。人権侵害があったという理由です。あなたがおっしゃるように立ち退き命令の執行が最大限の配慮をもって行われたものであったのなら、これはどうしてなのでしょうか?


オブザーバーが何と言ったかについては、私達は一切情報を持っていません。私達はその内の2人と会って話をしました。彼らは事実関係について尋ねてきましたが、私達にはここが違うなどという話はしませんでした。


私達は、人権侵害があったという結論は思い切ったものだと思います。どちらかと言えば、政府に立ち退き中止を勧告する別の理由があったのではないかと思います。最近出回っている不正確な話を見れば、もっと時間をかけて検討すべきと考えたか、もしかしたら政治的圧力があったのかもしれません。


現実には、裁判所の命令が存在しており、政府にはそれを執行する義務があります。政府にとって立ち退き命令の中止はありがたいことではないのです。


この文脈の中で、CUCやCONICと言った農民組織はどのような役割を果たしたのでしょうか?


不法占拠を扇動し、推進してきました。


(ウォルテル・ウィドマンは次のような話をしたが、同席していた父親も完全に同意しており、事務所の椅子に深く腰掛けていた。


彼らによれば、BCIEが農場を競売にかけると宣言する以前から不法占拠が始まっていたが、農民組織はこの宣言を「言い訳の余地のない証拠」として利用したというのだ。サトウキビ会社は倒産し、BCIEは担保であった土地を自分のものとした。そして数ヶ月の間に銀行は不法占拠を行っている農民に土地を分け与えなければならないとか、政府がこの土地を購入して農民に分け与えるとかいう噂が広まった。ウィドマンによれば、2010年10月に不法占拠が相次ぎ、サトウキビが焼き払われたという。


BCIEはこれにどう係わったのか?BCIEはプロジェクトの段階でインヘニオへの融資を決定したが、プロジェクトの行方もポロチクのサトウキビ栽培の将来も明らかではない現在、資金の一部を融資した後は手を引いて、債権保証を確実なものにしようとしている。


その当時、インヘニオには生産的ではないという批判があり、その批判の影響が現在まで残っている。しかしウィドマンは生産的ではないように見えるが、そうではないのだと言う。「インヘニオはポロチクで砂糖を生産してきました。農業生産はプロジェクトを立てた頃の予想を上回っています。プロジェクトは資金面で2つの大きな問題を抱えています。BCIEが決定した融資は2つありました。一つは株式投資で、もう一つはプロジェクトに必要な資金の融資です。最初の融資は当初9ヶ月で償還の予定でしたが、実際には23ヶ月かかりました。


大規模な変更が、プロジェクトを実行時に及ぼす影響を考えるためには、プロジェクト修士などというタイトルは不要です。農業プロジェクトにおいては季節は大事な要因で、季節外れだと大きな影響が出ます。適切な時期を逃すと、1年を逃すことになるのです。


おまけに、プロジェクトを進めるために必要なだけの資金もありませんでした。2009年は一部しか砂糖の生産ができませんでした。20万トンのサトウキビの内、圧搾にかけることができたのは3万6千トンだけでした。2010年には砂糖の精製をするための資金もなく、コスタスールのインヘニオにサトウキビを送りました。「2010年10月から2011年3月の間に、不法占拠のため、新たな投資家も近づかなくなりました。プランテーションの大規模かつシステマチックな破壊行為は、砂糖の精製に必要な物資をストップさせただけではなく、プロジェクトを再度推進させるために必要な、種の貯蔵庫も焼き払われました。ここに悪意が存在していたのは明らかです」。)




(続く)






[ 2012/05/23 23:36 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

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