パンソスの農民の歴史-ポロチク地方のこと 

ポロチク地方は農民の苦難に満ちた土地でもあります。


自由主義改革を行ったフスト・ルフィーノ・バリオス大統領時代(1873~85年)、
法改正が行われ、先住民の土地の多くが奪われたことがありました。
ケクチ族の多いパンソスの町も、ドイツ人移住者の土地となり
先住民は農場で働く労働者となったのでした。


このコーヒー、バナナ、カルダモンといった商品作物を生産する農場の労使関係は
植民地時代そのまま、もっと言えば中世の荘園の領主と農奴そのままでした。
このような農場で働く労働者は農奴(mozo colono:モソ・コロノ)と呼ばれ、
農園の中に家や小さな畑を持っている代わりに労働力を提供します。


この中世的荘園経営が、今現在もなお続いているのですよね。
2008年の農牧業調査によれば、
国内にある778,566農場の内、5043が荘園経営となっています。
グアテマラ県 378
レタルレウ県 203
イサバル県 162
バハ・ベラパス県 493
アルタ・ベラパス県 3,807
圧倒的にベラパスが多い。


もっとも、以前のサトウキビ農場の話を思い出せば、
この農奴的生活ですらまだマシと言える気もしないでもないですが。


さて、話は1952年、ハコボ・アルベンス大統領の時代に移ります。


アルベンスの農地改革で、パンソスでは農民に2300ヘクタールの土地が提供されるのですが、
クーデーターによってアルベンスが倒され、
カルロス・カスティーヨ・アルマスが大統領になると、
折角のその土地もまた取り上げられ、農場主のものとなります。
市長であったフラビオ・モンソンが大規模な土地を手に入れ、
パンソス最大の地主となったものこの時のことです。


農民の土地への要求は高まり、
内戦が始まってゲリラが付近の山に潜むようになり、
1978年、パンソスの市街地から7kmほどのところに軍の駐留地ができます。


ママ・マキンと呼ばれたアデリーナ・カアルらが活躍し、
農民組織が発展したのもこの頃のことです。
農民らを恐れた農場主らは
「土地をくれと言っている農民が、農場に放火する恐れがある。
 農場の住人が危険にさらされる可能性がある」、
とどこぞの超大国のような文言で警備強化を要請、
こうして兵士ら30名がパンソスの多目的ホールに引越ししてきたのでありました。


国軍は農民組織はゲリラだと思っていたわけですが、
78年、そのゲリラな農民組織が土地を求めるデモ行進を行います。
その日、5月29日は付近の村や集落からも大勢が集まって、
マチェテや農作業に使う道具(鍬とか?)を手にした老若男女がぞろぞろと
パンソスの中央公園に着いたのは朝の8時頃のことでした。


しかし市庁舎の扉は閉じられ、兵士が警備に当たるものものしい様子。
周囲の建物の屋上にも銃を構えた兵士がいたそうですから、
そうとう警戒していたのか脅しだったのか、
それとも単にぶっ放すのが目的だったのか、その辺のところは謎です。


また、銃を持たない農民達を、どうして兵士らが撃つことになったのかも不明です。
わかっているのは農民が求めていたのは市長と話し合うこと、
市長は話し合いに応じたものの、混乱の中で話し合いは行われなかったこと、
53人が亡くなり、47人が負傷したこと。
一部の遺体はポロチク川に流されたといいます。


このパンソスの虐殺事件以降、
町には兵士が居座り、住民は山に逃げて町はがら~んとしてしまったとか。
1978~82年の間に、パンソスで行方不明となった人、処刑された人の数は310人に上ります。
共同体のリーダーへの嫌がらせや脅迫は続き、土地を要求する活動は弱体化。
この町で再びデモ行進が行われたのは1996年のことでした。


なお、虐殺事件があった当時、パンソスの市長であったワルテル・オベルディックは
麻薬組織と関係があるという容疑で本年逮捕されています。


和平調印後の農民達については、またあらためて。



[ 2012/04/27 23:48 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://guatebuena.blog108.fc2.com/tb.php/836-55d7098d