ジェノサイドか否か (5) プラン・デ・サンチェス I 

国内の刑事裁判が遅々として進まない一方、
国の責任を追及する訴えも起こされています。


代表的なのがプラン・デ・サンチェスの虐殺事件。
リオ・ネグロと同じくバハ・ベラパス県のラビナル市にあるプラン・デ・サンチェスでは
1982年7月18日、国軍及びPAC(自警団)らによる住民の虐殺事件がありました。


当時の大統領は、3月に就任したばかりのエフライン・リオス・モント将軍。
有名な「豆と鉄砲(Frijoles y Fusiles)」作戦や
「荒らされた大地(Tierra Arasada)」作戦を導入した人物で、
プラン・デ・サンチェスの虐殺事件はこういった文脈の中で起こったものです。


幸運にもこの虐殺を生き延びた人たちは、あまりの恐怖に村を離れ、
しばらく沈黙を守るのですが、
92年頃になってようやく、焼かれ、掘られた溝の中に捨てられたとみられる
被害者らの遺体の発掘と当局の責任を追及する声を上げたのでした。


当局からの様々の妨害を受け、
国内法ではにっちもさっちもいかなくなった原告は
米州人権委員会(米州機構に属する委員会)にこの件を提訴、
それが認められて米州人権裁判所(コスタリカ)で裁かれることとなり、
2004年にやっと、国の責任と損害賠償を認める判決が下されます。


この判決文、英語版でもスペイン語版でも100ページ以上ありますが、
原文を米州人権裁判所のサイトで見ることができます(英語版スペイン語版)。


折角なので、この判決文を読みながら、話を続けていこうかと。
なので、この項、続きます。



[ 2008/03/15 11:57 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

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