戦いを好まなかった将軍 (その4) 

リオス・モントのバイオグラフィーの4回目。
大統領に就任してから失脚するまでの1年半、
当時勢力を増していたゲリラをものすごい勢いで掃討したのがリオス・モントでした。
勢い余ってゲリラに留まらず、
一般市民まで掃討することになってしまった、などと一言で片付けてはいけないのでしょうが。






全員に武器を


権力を握った日、将軍はテレビで叫んだ。
「武器は兵士のみ、兵士のみが武器を持つのです。
 武器を持っている人は、それを捨てて下さい。
 屋根の機関銃は引き渡して下さい。
 腰のピストルを捨てて、仕事のためのマチェテをつけなさい」。
しかしこの方針は長続きしなかった。
10ヶ月も経たない内に、市民に武器を捨てろという代わりに自ら手渡すようになった。
更にはアメリカに不要な武器をくれと頼むようにまでなった。
12月5日の日曜日の演説では、レーガン大統領と会見し、
不要な小銃を譲ってほしいと依頼したことを得意気に披露した。
「市民警護団をつくるために不要な銃があったら、とお願いしました。
 最先端の武器ではなく、アメリカにとってはもう不要の武器があったら、と」。


マーク・ドロウインの研究によれば、
市民警護団は約80万人が参加したが、その大変は先住民であった。
CEHは山中に逃げ込んだ多くの農民の証言を集めたが、
彼らはもう武器がなかったので逃げたのだと言っている。
残った住民は強制的に武器を握らされた。
武器が歴史に誕生した瞬間から、発砲は避けることのできないものだとチェーホフは言った。
グアテマラの歴史でも、それは発砲された。しかも何度も。


一方、ゲリラ側にも将軍の新しい方策のニュースが届いた。
セサル・モンテスは大統領官邸に送り込んだスパイからこういう話を聞いた。


側近の一人が
「将軍、あなたが武器を与えているのは先住民です。
 ゲリラもまた先住民です。問題になるとは思われないのですか?」と尋ねた。
それに対し大統領はこう答えた。
「好都合だ、奴らの間で殺しあえば良い」。


スパイはこの会話は事実だとモンテスに保証したが、
もちろんそれを証明することは不可能である。
なんといってもテレビカメラの前では、
将軍はマヤ系先住民への尊敬と愛情以外に何もコメントしていないからである。
「グアテマラ化」について話し、住民が自分の出自を誇りに持つようと言った。
「誇りを持ちなさい。国を愛しなさい。グアテマラ人でありなさい。
 キチェー系マヤだということに満足しなさい。
 それともロシア人だった方が良かったとでもいうのですか?(・・・)
 グアテマラの住民の65%以上は今まで無視され続けて来た先住民ですが、
 私達は490年もの間、社会のこういう現実から目を背けていました」。


将軍がその演説をしていたちょうどその頃、
何十人もの先住民の農民が軍の手を逃れて山に逃げ込もうとしていた。
軍隊がネバフのペシュラー村にやって来て近所の住民を虐殺した時、
マリア・テラーサ・セディーヨの赤ん坊はわずかに2ヶ月であった。
母親は自分と娘の命を救うために逃げたが、生き延びれなかった。
空腹と寒さで亡くなったのである。
この2人はCEHの報告書にある長いリストの中の、わずか2つの名前に過ぎない。
将軍はテレビで語った。
「フランス人やイギリス人、ドイツ人ではなく、
 特にイシル、キチェー、マムの皆さんを招待しています」。
社会学者のデーヴィッド・ストールによれば、
イシルの住民15%近くがこのゲリラ対策キャンペーンにより亡くなったという。
CEHによれば、キチェー県のイシル族のコミュニティーの内、70~90%が完全破壊、
あるいは一部破壊されたという。
イシル語で話す人々が何人も殺されている状況で、イシル語を話し続けるのは容易なことではなかった。


ソフィア82作戦とビクトリア作戦が作成されたのはこの頃である。
ゲリラにとって、これは大きな脅威であった。
カルシュミットは次のように説明する。
「政府の政策は、上からは一般市民への恩赦、サービスの提供と保護でした。
 ソフィア82作戦の中にそう書かれていますし、
 戦闘地帯で民間人を捕らえた司令官らが残した多くのメッセージを解読した結果からも明らかです。
 一般市民は別の居住地へ移され、そこで面倒を見てもらっていました」。
そのメッセージの1つ、ネバフで書かれたものには
「ゲリラ勢力に協力していた39家族の男性31人、女性30人、子供81人、合計142人」を保護したとある。
司令官は、81人の子供たちは「自らの意志で」ゲリラに協力していたと思ったようである。
ソフィア82では「女性と子供の命は可能な限り尊重すること」とされている。
カルシュミットはこれに付け加えて言う。
「ゲリラは正規軍ではないのです。
 男、女、子供達からなる家族全員が戦闘員だったりしたのです。
 この文脈において、死者が出さないようにするのは無理があります。
 戦闘は残虐で、暴力的なものです。
 ゲリラ側の司令官、国軍将校のいずれの立場にあっても、
 残虐行為を行なってしまうのは完璧にあり得ることです。
 しかしそれは戦術下、戦闘という状況の中で、
 その場の感情や仕返しを動機としたものであるわけです。
 政府の政策ではありませんでした」。
ウィトベクの意見も同様である。
「戦争だったわけですから、死者がいなかったとは言いません。
 しかし、将軍の側にいた私が見た限りでは、人を殺せというのは彼の政策ではありませんでした」。


実際のところ、殺人は彼の政策ではなかったのであろう。
しかし彼の指揮下で多くの人が命を落としたのもまた事実である。
調査員のマーク・ドローウィンはビクトリア82作戦について
「西部高地、北部低地での兵力増強を予定したもので、
 30の歩兵中隊、5310人が既存の兵士の補強のために再配置されることになっていた。
 この中で更に特殊部隊3隊も展開することになっていた。
 ロバート・カーマックはキチェー県には15,000~20,000人の兵士がいたと見積もっている。
 CEHが軍によるものと記録した626件の虐殺事件の過半数がこの県で起こっているのは興味深い事実である。
 ジェニファー・シーマーの推測が正しければ、犠牲者の数は大きく跳ね上がることになる。
 ルカス・ガルシア政権末期には毎月800人の死者が発生していたが、
 リオス・モント政権下ではこれが月6,000人以上になったというのである」。


4月30日の演説で、将軍は「組合は大いに尊重する」と言った。
10月16日、ケツァルテナンゴのエル・アト農場と
ラス・アニマス農場の労働者によって結成された組織の指導者を兵士らが探していた。
最初に見つかったのは組合長のエミリオ・レオン・ゴメスで、
彼の遺体には30発以上の弾丸が残されていた。
次に副組合長の家に行ったが、当人は不在で妻と2歳の娘がいただけであった。
兵士らは娘の頭部に発砲し、小さな体は母親の腕の中に崩れ落ちた。
母親もその後殺された。
将軍の言葉と実際の出来事の間には大きな相違があることが明らかとなっていった。
リオス・モントが血なまぐさい人物であったのか、無能であったのか、
あるいは最悪の犯罪行為を命令する力があったのか、それを阻止するだけの力がなかったのか、
その辺りは定かではない。


テレビでは、将軍は多分におぼろ気な形ではあったが、
それ以上のことはできなかったと認めたことがあった。
1983年4月10日のことである。
「私には起こっているすべてのこと、
 それが起こるようにしてしまったということについては責任があり、
 その点では謝罪します。
 しかし、聞いて下さい。
 私に何ができると言うのでしょう。
 例えば、税関の職員が私の言うことを理解できるようにできなかったとしたら?
 その人物は私の命令に従わず、嘘をつき続け、盗みや横暴を働くかもしれません。
 軍曹が殺すなという私の命令を理解できなかったとしたら、私に何ができるでしょう?
 理解してもらうために私が取るべき法的手段は存在しているのでしょうか」。


「誰が指揮を取るのか」。権力を握る前、彼は3度尋ねた。
そして3度とも、答えは彼であった。


ムニョス・ピローニャの答えは明確である。
「命令したのは常に彼でした。
 もちろん私たちが圧力をかけたというのは事実ですが、ささやかなものです。
 私は大尉でしたが、将軍に対して何を言うことができるというのでしょう」。


「もし私が国軍をコントロールできないなら、
 私は一体ここで何をしているというんですか?」。
1982年6月、新聞記者のパメラ・ヤデスに将軍はそう言った。
実際のところ誰が命令していたのかは、今のところ正解のない問いである。


神は与え、神は奪う


市内の電話回線はすべて不通となった。
1983年8月8日、グアテマラでは連絡を取ることが困難になっていた。
オスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレスが軍の司令官を全員招集したというニュースがあったため、
大統領官邸では誰もが落ち着かなかった。
「将軍、彼らは名誉警護隊本部にいます。取り囲んで逮捕すべきです」、側近が進言した。
「将軍、これはクーデターになります」、
別の側近も付け加えた。しかし将軍は戦うことを好まなかった。


この日はプエルト・ケツァルに停泊しているアメリカの空母を10時に訪問する予定となっていた。
ヘリコプターで現地入りするためには9時半には空港に到着しなければならなかった。
9時になるとクーデターの噂はますます高まり、将軍は何とかしなければならないと考えた。
そこで運転手に空港に行く前に名誉警護隊本部に寄るようにと言った。
30分程でクーデターを押さえ、時刻通りその後のスケジュールをこなすつもりでいたのだ。
しかしそれは叶わなかった。
集まっていた将校らが辞任してほしいと要請する手間すら必要としなかった。
将軍はこの時もまた戦わなかった。


国際的な評判は既に落ちていた。
海外の報道は、既に将軍を告発する論調ばかりであった。
7月、ワシントン・ポストは
「リオス・モントは権力をずっと手中にするつもりだ。 (・・・)
 キチェーやウエウエテナンゴでインタビューした住民らは、
 国軍の兵士らが村を遅い、女、子供、武装していない男らを、
 ゲリラに協力していると言って殺した、と証言した」と書いた。
10月にはニュー・ヨーク・タイムズが
「グアテマラでもっとも危険な反逆勢力は軍の制服を着用している」と書いている。
村には豆よりも銃の方が多くもたらされたのである。


リオス・モントは、戦うべきだという声に耳を傾けることなく、
平和の内に権力を去った。
ムニョス・ピローニャは、クーデターの当日、
カバンを抱えた大尉が将軍に近づいていったのを見た。
「将軍、私達は皆爆死します、でも閣下は権力を手放してはいけません。
 ここを出て下さい、我々は皆閣下のために死にます」。
将軍は彼を宥めた。
「もし私がここにいることを彼らが望まないなら、私は出て行く」。そう言って立ち去った。


彼は以前にも傷を癒したことのある場所、教会に戻った。
牧師は彼を英雄のように迎えた。
「英雄は勲章で飾られているものですよ」、とリオス・モントは言った。
「私はただキリストの血にまみれたいだけです」。




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まとめteみた.【戦いを好まなかった将軍 (その4)】

リオス・モントのバイオグラフィーの4回目。大統領に就任してから失脚するまでの1年半、当時勢力を増しのがリオス・モントでした。勢い余ってゲリラに留まらず、一般市民まで掃討することになってしまった、などと一言てはいけないのでしょうが。全員に武器を権力を握った...
[2012/04/14 13:55] URL まとめwoネタ速suru