戦いを好まなかった将軍 (その1) 

時間がかかってしまいましたが3月18日のエル・ペリオディコ紙日曜版に掲載された
エフライン・リオス・モントのバイオグラフィー「戦うことを好まなかった将軍」
少しずつ掲載していきたいと思います。


初日の今日はリオス・モントが大統領選に出て落選するまで。
文中に「将軍」と出て来たら、基本ホセ・エフライン・リオス・モントのことであると思って下さいませ。






遠くに立ち上る煙を見て、悪夢はまだ終わっていなかったのだと悟った。
ベンハミンはその前日、機嫌よく目覚めた。
市場の日で、村は普段よりも彩りに溢れていた。正午近くに公園の方に出かけた。
彼のゴム長靴は濡れた土の道路にめり込み、頭上の帽子は額に小さな穴が開いていた。
途中で姉の家に立ち寄った。
外では4人の甥っ子らがニワトリを追いかけて走り回り、痩せこけた犬が大きく体を揺さぶった。
やがて近所の人が「軍隊が来るぞ」と興奮した様子でやって来た。
ベンハミンは他の村で軍人らがやったことを聞いていたので怖くなった。
「ちょっと見てくる」と姉に言って出かけようとした時、
11歳の甥っ子が彼の腕を引っ張って「僕も一緒に行っていい?」と尋ねた。
ベンハミンは姉に目で尋ねた。
「いいわよ」。
彼女は知らなかったが、この決断が長男の命を救うことになったのである。


ベンハミンは下の道に降り、
武装した大勢の兵士が村人の家に出入りして誰かを探しているのが見えるところまで行った。
その付近を通る者は誰彼なく捕らえられていた。
甥っ子は彼の手をぎゅっと握りしめた。
まるでこれから起こる出来事を隠すかのように濃い霧が太陽を覆い始めた。
ベンハミンは怖くなって、甥っ子とともに繁みの中に潜り込んだ。
何も考えないように努めながらじっとしていた。
何かを考えると、それが音を立てて、隠れていることがばれてしまうような気がしたからだ。
身動ぎ一つしないまま、兵士らが村中の女性を姉の家に押し込んでいくのを見た。
背中の赤ん坊を取り上げて空き地に放り投げるのを見た。
レイプされる女性らの叫び声を聞いた。
沈黙の内に、藁屋根の家に手榴弾が投げ込まれるのを見た。
そうして火がついた。
ベンハミンは泥の中に投げ込まれた子供たちのことを思い、涙に濡れた目を開いた。
その時兵士が彼を見つけ、まるでいなくなったウサギを見つけでもしたかのように、
中尉に連れて行ってもいいかと尋ねた。
しかし中尉は拒否し、
「このくそったれ共は我々の背嚢に小便をひっかけるからダメだ。
 そこら辺の家の中に放り込んでおけ」と命令した。
兵士は直ちにその命令に従った。


プラン・デ・サンチェスの女性は、その日、全員死んだ。
男性は別の家の中で焼き殺され、生きのびた者は暗闇に包まれた山に逃げようとした。
ベンハミンは甥っ子の手を引いた。
肉のやける匂いが鼻をつんざき、目はすでにガラス玉のようになっていた。


最寄りの町であるラビナルでは、
黒い頭髪と白髪混じりの口ひげをたくわえた人物の映像がテレビに映しだされていた。
「たとえばですよ、
 今ちょうどこの時に、5000人の兵士が国民の皆さんの平和のために働いていることを知っていますか?」
彼は視聴者に尋ねていた。
「そう尋ねたのは、いろんな人からこう聞かれます。
 『グアテマラではゲリラと戦っているのですか?』と。
 私はちょっと考えてからこう返答しました。
 グアテマラが戦っているのではなく、戦っているのは兵士です。
 皆さん、ゲリラは軍隊だけの問題ではありません。
 そうではなく、グアテマラの社会問題なのです。
 そう、つまりあなた自身の問題なのです」と映像は締めくくった。
ベンハミンはそれを聞いていることができなかった。
隠れたまま、一人でどうしたら良いのだろう、甥はどうなるのだろうと考えようとしていた。
ベンハミンはテレビに出ていた男のことを知らなかった。
それどころか、28年後に2人の人生が情け容赦なく交差するようになるとは想像だにできなかった。


むかしむかしあるところに


男の子が中庭の土の上で兵隊ごっこをしていた。
兄弟たちを整列させると行進するよう命令した。
この1ダースばかりの子供達は優しい父と厳しい母に育てられていた。
ホセ・エフラインは兄弟の3番目で、
ウエウエテナンゴの生まれ育った村で兵士の一隊が行進していくのを見てから、
兵隊ごっこをして遊ぶようになった。
彼はその時既に、将来は将軍になるのだとわかっていた。


父親のアントニオ・エルモヘネスはラ・コモディダーという商店の店主であった。
その店は安いという評判であったが、それは父親がツケで買う人を断れなかったからであった。
ツケを踏み倒す人があまりにも多かったため経営が成り立たず、この店を売却せざるを得なかった。
新しい店主はアントニオを店員として雇った。
こうしてリオス・モント一家の運命は店主から店員の一家へと、大きく変化したのであった。


30年代初め頃、ホセ・エフラインは好んで祖母が
「主は深い谷間から私を救い、悪から解放した」と歌うのを聞いた。
祖母は熱心なキリスト教徒で、孫たちが教会に親しむようにと心を砕いた。
エフラインには聖書を読めば0.5センターボ、
一緒に教会のミサに行けば1センターボを与えていたが、実際のところ、お金は必要ではなかった。
彼は教会に行くのが好きだった。
子供達の1人、マリオが神父になりたいと言ったので、
エフラインの両親は教会で結婚しなければならなかった。
当時は両親が結婚していなければ、神父になれなかったからである。
こうして一家はよりカトリックに親しむようになった。


エフラインは生真面目で厳しい母親と優しく甘い父親という正反対の両親に育てられた。
母は子供達に罰を与え、父は彼らに飴を与えた。
祖母は奉仕について、母はミサについて話した。


思春期となり、軍隊に入りたいという夢が実現する時が来た。
しかし、彼は乱視であったので、そのままでは士官学校への入学が認められたなかった。
賢い少年であったエフラインは、視力検査表の文字をすべて記憶して検査に臨んだ。
士官学校の仲間らは、エフラインのことを従順で環境に適応することのできる生徒であったと評している。
ある時催された士官候補生のダンスパーティーで、
人生の伴侶かつ3人の子供の母親となるテレサと知り合った。


士官学校を卒業した後は、同校の教官として勤務した。そして数年後には士官学校の校長になった。


校長


ルイス・アウグスト・トゥルシオス・リマ(士官学校出身の軍人、
後ゲリラに身を転じFARの司令官として活躍。1941-1966)は
セサル・モンテス(トゥルシオス・リマの死後FARの司令官となり、後にURNGの司令官の1人となる。1942-)
のところにやって来ると、用件を切り出した。
「クレイジー・リオス・モントの調査をしてくれ。あいつは気をつけないといけない」。
「クレイジー・リオス・モント?」とモンテスは尋ねた。
トゥルシオス・リマは将軍が校長だった頃に学校で起こったエピソードを語った。
「あいつは他人を困らせるのが好きなんだ。
 我々が整列しようとしている時に『気をつけ!』と叫び、
 その後誰も聞き取れないような低い声で命令を出すんだ。
 で、誰も何もしないもんだから、罰としてカンカン照りの中を背嚢と銃をしょって何時間も走らせるんだ。
 それを見て笑っているんだぜ。誰かがひどい目にあっているのを見るのが好きなんだな」。
その時セサル・モンテスは頭で理解したが、後にはそれを身をもって確認することとなった。
将軍はサディストで人間らしい感情に欠けた人物なのである。


一方、ロドルフォ・ムニョス・ピローニャ大尉
(リオス・モントが大統領となった時のクーデターの首謀者の一人)は、
校長について全く別の印象を持っている。
リオス・モントは士官候補生たちの健康をとても心配しており、
ちゃんとした料理が出されているかどうかを確認するために厨房にやって来たりした。
「校長というのは大抵校長室にいて、出入りする時にだけ見かけることができるものだと思っていました。
 でもリオス・モントはスープの中にすら現れました。
 集会で彼が話すとモチベーションが高まると、皆感心していました」。


毎週木曜日に行われる集会での士官候補生への講話はいつもほぼ同じだった。
彼は「右側のポケットにはb1-100を、左側には新約聖書を」入れておくようにと勧めていた。
b1-100というのは士官候補生の規則を記した本であり、
聖書は当時熱心なカトリックであったためであろう。


1972年、リオス・モントは将校に昇級、その後参謀本部長となり権力に触れるようになった。
本部長となって数ヵ月後にワシントンへ教員として送られ90日間を国外で過ごしたが、
以前ちらりと目にしただけであった権力に魅了されていた。


裏切られた大統領


政党は党員を国内各地に派遣していた。
投票用テーブルの近くには情報をチェックしてくれる係の人間も配置できた。
データがわかると急いで「集計センター」という名前ながら、
実際には開票結果をまとめるためにキリスト教民主党幹部らが集まった家に連絡が取られた。
夜の10時には皆勝利を確信していた。
リオス・モントは自宅で家族と共にテレビを見ていた。
もうすぐ大統領官邸に引越しとなるのが確実な情勢であった。


リオス・モントが選挙に出るというアイディアは、1973年終わり頃から出ていた。
権力を厚く守り固めている国軍に亀裂を入れ、独裁政治に終わりを告げるのが目的であった。
それをできるのはリオス・モントだというのが衆目の一致するところであった。
「階級の高く、社会に対する考えを有している人物、
特に軍の幹部とあまり係わりのない人物を探していた」と
アルフォンソ・カブレラは話している。
数日間考えた後、カブレラはワシントンへ代理人を送り、
将軍に候補になるよう説得した。
8月末、リオス・モントは辞任し、再び権力を手中にしようと動き始めた。


1973年9月11日、チリではサルバドール・アジェンデ政権が倒され、
グアテマラでは将軍が大統領候補としての最初の記者会見に臨んでいた。
変化について話し、貧困対策を行うことを約束した。
キリスト教民主党(DC)と革命統一戦線(FUR)からなる全国野党戦線の連立で、
アルベルト・フエンテス・モールが副大統領候補であった。


困難かつ資金不足な選挙活動であった。
支持者がそれぞれ自分の車や時間を提供しなければならなかった。
音響担当であったカブレラは、自分のバスを若者用に提供した。
ウエウエテナンゴでリオス・モントは自分もその車に乗せて欲しいとカブレラに頼んだ。
「若い人たちと一緒に行く方が楽しそうじゃないか」。長い道中を若者たちと過ごし、
 国の問題、深い谷間に落ちていくこの国をどう変えていけば良いのかということを話し合った。
候補者は、若者たちの意見に常に賛成というわけではなかったが、
少しばかり討論をした後はいつも自分の意見を変えた。
「敬礼、直れ、ご意見ごもっとも(Saludo uno, saludo dos y lo que ustedes digan)」。
このフレーズは選挙活動の間に有名になっていった。柔軟で、
自分に欠けている部分については自分が折れる用意があった。


3月3日、国内全域で停電があった。
リオス・モントと家族は暗闇の中で結果を待った。
夜11時には政党の集計センターでは既に祝杯が上げられ、誰もが勝利を確信していた。
しかし電気が復旧し、テレビがついた時に映ったのはその逆の結果であった。
リオス・モントは敗北した。次から次へと「インチキだ」という声が沸き起こった。
党の幹部らは戦うよう頼んだ。
しかしリオス・モントはそれを拒んだ。
将軍は戦うことを好まなかった。
アルフォンソが再度戦ってほしいと迫った。


「将軍、我々は勝ったんじゃないか、勝利を守らないでどうするんだ」と彼は言った。
リオス・モントは視線を落として自分は何もしないと決意したと答えた。
「勝ったと主張したら家族を殺すと脅されたんだ。流血沙汰はゴメンだ」。
しかし仲間達はそれで納得したわけではなかった。
「将軍は戦わないということで
 相手側に暴力を止めろというメッセージを送ったつもりだったのでしょうが、
 向こうはこっちが弱気になったと思い込んでしまった。
 お陰で更なる追い討ちをかけられたのです」とカブレラは続ける。
「そうしてキリスト教民主党のリーダーが500人以上殺されました」。





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まとめteみた.【戦いを好まなかった将軍 (その1)】

時間がかかってしまいましたが3月18日のエル・ペリオディコ紙日曜版に掲載されたエフライン・リオス・モ統領選に出て落選するまで。文中に「将軍」と出て来たら、基本ホセ・エフライン・リオス・モントのことであると思って下さいませ。遠くに立ち上る煙を見て、悪夢はま?...
[2012/04/11 14:46] URL まとめwoネタ速suru