独立後のパナマ 

パナマの歴史、続きまして第二部。


共和国として独立したパナマは、
早速アメリカと運河建設に関する条約を締結します。
このヘイ-ブナウ・バリーヤ条約(日本語ではパナマ運河条約と言われてるようですが)により
レセップスが断念した運河工事が再開され、1914年に完成します。


アメリカが永久租借地とした運河地帯は
運河流域に10マイルの幅で設定されており、面積は1432km2、
香港の面積が1104km2だそうですから、それより大きな地域を
アメリカが海外領土のように所有していたことになります。


パナマとしては独立したものの、
自国領土の真ん中を分断して他国の支配地域があり(しかも首都のすぐそば)、
何かあればアメリカ軍が出動できるという状態でしたから、
言ってみれば植民地のようなもの。
運河条約の見直しの声も高まり、1914年には当時の大統領が条約の見直しを申し入れています。


条約の内容は、1936年のアリアス-ルーズベルト条約にて
パナマの内政にアメリカが軍事介入できるという部分が無効とされ、パナマの主権強化が、
1955年にはレモン-アイゼンハワー条約により
運河の使用料としてパナマ政府に支払われる金額が引き上げられています。


時代は冷戦真っ只中の当時、
ラテンアメリカでも左傾化の動きがあり(グアテマラがその代表例ですか)
両大陸の真ん中に位置するパナマに自国領と軍事基地(南方基地)を確保すること
大西洋と太平洋を繋ぐ運河を支配下することがアメリカにとって重要だったのは容易に想像できます。


ちょうどその頃スエズ運河の管理を巡ってスエズ危機が起こり、
アメリカのアイゼンハワーは大統領は
イギリス、フランス、イスラエルの3ヶ国に対してエジプトの肩を持ち、
3ヶ国が停戦に追い込まれるという出来事もあったことから
パナマでも「パナマ運河をパナマ人の物に」という動きが出てきており、
アメリカとしては「お金払うからこのままにしておいて」という
ダブルスタンダードで対応せざるを得なかったのでしょうが
さすがにお金だけで片付くような問題ではなかったようで。


1958年にはパナマ大学の学生グループが運河地帯に忍び込み、
パナマ国旗75本を「植え」、国歌を歌うという出来事が起こったのを初めとして
その後も運河地帯にパナマ人が忍び込み、国旗を掲揚するという出来事が度々起こります。


1963年1月、運河地帯でアメリカ国旗が掲揚されているすべての場所にパナマ国旗も掲揚する、
という合意が締結されます。
同じ年の12月には運河地帯の責任者であったロバート・フレミング将軍が
翌年1月1日より米国国旗の隣にパナマ国旗を掲揚することを発表したわけですが、
一方、運河地帯のアメリカ人(ゾーニアン)がこの決定を心良く思うはずもなく。
まあ、なんつってもパナマ運河はアメリカが造り上げたものですからね。
作業したのはパナマ人を初めとするアメリカ人以外の人だったようですが・・・


そうして1964年1月。やっぱりあちらこちらでこの決定に違反して
パナマ国旗が掲揚されないまま、米国国旗が掲げられているところがあったようです。
その一つがバルボア高校。
ゾーニアンは審議会を開き、
バルボア高校でのパナマ国旗の掲揚を行わないという学生達の行動を全会一致で支持、
学生やその家族らは、当局が介入してパナマ国旗を掲揚することのないよう、
星条旗の周りで監視活動を行い始めます。これが1月9日。


一方、決定を守れとばかりにパナマ国立校の学生グループ約200人は
運河地帯の当局からパナマ国旗掲揚の許可を取り付けてバルボア高校に向かいます。
17 :30頃、一団は運河地帯の警官に止められますが、
学生の代表5人がバルボア高校に向かい、国旗の掲揚を行うという許可を貰います。
バルボア高校で待ち受けていたのはゾーニアンの約2000人。
ブーイングや投石に加えて旗を奪おうとして引きちぎると踏みつけて侮辱。
パナマの学生らは退却しますが、その後をバルボア高校の学生らと運河地帯警察が追いかけます。


このニュースはあっという間にパナマ人の間に広がり、他の市民や学生らが
国立校の学生らの応援に出動、双方に負傷者が出始めたのが18 :30頃。
負傷者を助けて安全な場所に移動させようとしていたパナマ人が死亡したのはこの頃で、
運河地帯警察が事態鎮圧のために市民に銃を向けたのが原因です。


これ以降は双方がヒートアップ、ゾーニアン側が銃を使えば
パナマ人は石や棒で応戦しながら運河地帯に大挙したため、
運河地帯警察の手に余る事態となり米軍の出動を要請。


米軍は射程の長い重火器でパナマ人を攻撃したため、
死者・負傷者の数はあっという間に膨れ上がってゆきます。


事態を憂慮したパナマのチアリ大統領は22時頃運河地帯の当局に
非武装のパナマ人への殺戮行為を停止するよう要請したものの受け入れられなかったため
国交の断絶を発表。


両者間のにらみ合いは翌々日まで散発的に続き、
コロンでもパナマ人学生と米軍の衝突が発生します。
この事件による死者は21人、負傷者は約500人と言われています。
(この事件が「国旗事件」と呼ばれ、1月9日は「殉教者の日」として記念されています)


同年4月、アメリカのジョンソン大統領は
両国間のトラブルを避けるために条約の見直しのための対話を行うことを明らかにし、
両国間は国交を再開。
条約の見直しの方はなかなか進展せず、政権は代わって1968年。
この年の10月、パナマでは軍事クーデターが起こり軍事評議会が政権を握ります。
翌年最高司令官となり、
憲法を改正した1972年にはパナマの最高指導者となったオマール・トリホス将軍は、
強権的な独裁政治家であり、亡命や暗殺が相次いだものの
一方で自由経済の信奉者でもあり、パナマが金融地帯へと変貌したのもこの頃のこと。


同時にアメリカ資本が押さえていた電力、通信、バナナ農園などを国有化してアメリカに圧力をかけ
国連に圧力をかけてパナマ運河の返還を国際問題化することに成功、
1977年には1999年12月末にパナマ運河をパナマに返還することを定めた
トリホス-カーター条約が締結されます。
一方パナマは民主化を求められ、亡命者の帰国や報道の自由が認められるようにもなりました。


その後アメリカの干渉がなくなったかと言えばそういう訳でもなく、
マヌエル・ノリエガ将軍に関連してアメリカ軍がパナマ侵攻を行ったのは1989年のことでした。


そういう紆余曲折はあったものの1999年末、パナマ運河はパナマの管理下におかれ、
運河地帯も廃止され、パナマ人の手によるパナマができたのは20世紀末。


ある意味、パナマには3回の独立記念日があると言ってもいいのかもしれません。
最初がスペインからの独立で1821年11月28日で大コロンビアの一部として、
次がコロンビアからの独立で1903年11月4日でパナマとして、
最後がアメリカからの運河地帯返還で1999年12月31日。


独り立ちしてから10年ちょいしか経ってない国でありながら
逆に庇護してくれた国の影響力やら経済力を利用してうまいことやったよなぁ~、
とグアテマラなんぞにいる私は思うわけですが、
パナマ人的には恐らく、抑圧との戦いの歴史のように感じるのではないかなぁ。


パナマ運河の建設にはアフリカやカリブ諸国などからやってきた労働者もおり、
中米としては珍しくいろんな人種の混じっているパナマですが、
そうやって独立を勝ち取ってきた歴史の中で
一つの国家を築いてきたのだという自負があるのだろうと、
例えばアレックスがアンコンの丘の話を語る口ぶりなんかからも感じたわけです。


日本には愛国心について語ることはタブーのような空気がありますが、
戦って勝ち取った国家ではないからかもだな・・・。


あ、もちろん戦って勝ち取る方がいいよね、って話ではないですよ。
日本の歴史はそれはそれで内戦に次ぐ内戦で分断したり統一されたり、
そして統一のシンボルとしてあるのが天皇なのかな・・・と思ったりしますが。


長々と書き連ねてしまいましたが、駆け足というか書きなぐりパナマの歴史はこれでオシマイ。


それにしても長かった・・・(ぼそっ)


[ 2012/01/10 22:04 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

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