ジェノサイドか否か (3) 

久しぶりにこのテーマに戻ってみたいと思います。


元々、これについて考えるきっかけになったのが
Hunahpu e Ixbalanqueのこの記事
写真はおそらくスペイン大使館焼討事件の時のものだと思います。


そしてその記事のコメントにあるリンク先。
El Periodico紙に1月31日に掲載された、アシスクロ・バヤダレスの論説です。
バヤダレスは元行政庁長官、数日前に駐バチカン大使に任命されたばかりです。


ジェノサイド?と題されたこの論説、かいつまんでみるとこうなります。



内戦の時に、ラディーノであるという理由で殺害された人がいただろうか?


疑いもなく、殺されたラディーノは大勢いるが、ラディーノであるが故に殺害されたわけではなく、
ラディーノであろうとなかろうと、
ゲリラであったか、あるいは反ゲリラであったが故に殺害されたものと思われる。
ゲリラはラディーノであるが故にラディーノを殺害したわけではなく、
反ゲリラ勢力であったが故に殺害し、
反ゲリラ勢力はゲリラであったが故にラディーノを殺害した。


インディヘナについても同様である。
インディオはインディオであるが故に殺害されたのか、
それともゲリラ、あるいは反ゲリラであったが故に殺害されたのか?
ガリフナやシンカはどうであろうか?


システム化された集団殺戮は民族に向けられたものであったのか、
それともゲリラや反ゲリラに向けられたものであったのか。


ジェノサイドでないものをジェノサイドとして責任を追及することはできないし、
ジェノサイドでなかったことを元にして当局のジェノサイドに対する責任を追及することはできない。


ガルソンもぺドラスも、あるいは我々の判事も、
まず最初にこれがジェノサイドに相当するのかどうかを決定しなければならない。
そうでなければ、この犯罪での責任追及は不可能である。


ジェノサイドはあったのか否か?


もしジェノサイドであったのなら、責任を追及し、
責任者が刑罰を受けるまで、その手を緩めてはらなない。
もしそうでないのなら、どんなに重大な犯罪であったとしても、
この犯罪で追及することはできない。
いずれにしても、検察と裁判所がこれを決定することになる。
否、むしろ決定する義務を負うのである。



バヤダレスのこの論説については、本人の主張
「まずこの犯罪がジェノサイドかどうかを見極める必要がある」
という部分とはちょっとずれたところでのコメントが多くついているのが残念ですが、
ジェノサイドが「国民、人種、民族あるいは宗教的集団」に対する大量虐殺、と定義されていることを考えると、
バヤダレスの意見はごもっとも、と私は思います。


グアテマラで起こったのはラディーノ対インディヘナの戦いではなく、
国対ゲリラの戦いでした。
東西冷戦の狭間で起こった、政治的争いだったわけです。
政治集団同士の争いが、やがて国民を巻き込んでいったという意味では、
エルサルバドルの内戦などと同様です。


ただ、グアテマラの場合は、激戦地となった(すなわちゲリラの基地となった)山岳部の多くは、
インディヘナの居住地でした。
地図から消えた村や集落が多く存在し、数知れぬ虐殺事件があったのもまた事実です。


さてでは、どうしてこれをジェノサイドとして訴えなければならなかったのか。
いつになるかわからない次回では、それに触れてみたいと思います。


[ 2008/02/27 23:14 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

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