ジェノサイドか否か (7) プラン・デ・サンチェス III 

プラン・デ・サンチェスの虐殺事件、
もう一人事件の被害者の証言を取り上げておきたいと思います。
先のベンハミン・マヌエル・ヘロニモの証言の中にも名前が出てくる
エウラリオ・グラーベ・ラミレスは、
証言当時56歳、事件当時は28歳くらいでありました。
プラン・デ・サンチェスで生まれ、現在もこの村に住む彼は、
農業を営むアチー族の住民です。





当時、10日ごとに国軍の兵士ら30人のグループが
プラン・デ・サンチェスを訪れておりました。
それとは別にラシュフト、コショハバフ、プラン・デ・サンチェスには
24時間住民を監視するPAC(自警団)もありました。
また、軍コミッショナーもいて、住民にPACのメンバーとなり、
その地域を監視するよう強要していました。
兵士らは住民のことをゲリラだと言っていました。


1982年7月18日の日曜日、この日はラビナルの市の日だったので、
証人は生活用品を買うためにラビナルに行く途中、
兵士らがあちらこちらの村の住民を集め、
プラン・デ・サンチェスに向っているのを見かけました。
午後5時頃、プラン・デ・サンチェスに戻ってくると、
兵士らが暴力を使いながら、村の住民と近隣の住民を皆、
ロサ・マヌエル・ヘロニモの家に集めているのを見ました。
15歳~20歳の女性についてはギジェルマ・グラーベ・マヌエルの家に連れて行くと、
レイプし、脚や腕を折って、その後殺しておりました。
その後、もっと多くの人々を殺し、家に火をつけました。
子供達は床に叩きつけられ、それから両親と一緒に火の中に投げ込まれました。


午後8時になって家に入ることができましたが、
そこで妻と3人の子供が死んでいるのを見つけました。
娘の1人は、兄弟2人の遺体に埋もれていたため、
生き延びることができました。
証人は彼女を連れて逃げ、その夜は山の中に潜んで過ごしました。
その後、親戚の家に隠れていて難を逃れることができた
他の2人の息子をも見つけました。


その日、約280人が亡くなりました。
この虐殺は国軍の兵士、PAC、司法警察、軍コミッショナーによって行われたものでした。


1982年7月19日の朝9時、プラン・デ・サンチェスに戻り、
火をつけられた家からまだ煙が出ているのを見ました。
フアン・マヌエル・ヘロニモと出会いましたが、彼は家族を皆失っていました。
生き延びた他の人たちとも手を合わせて遺体を焼いていた火を消しました。
真っ黒焦げになった遺体もありましたが、他のものは火傷を負った程度でした。
若い女性の遺体の多くは別のところにあり、裸で横たわっておりました。
午前11時、軍コミッショナーとPACが
2時間で遺体を埋めるようにという国軍からの命令を持ってやってきました。
そのため、マヤの慣習に則って家族の遺体を埋葬することはできませんでした。


虐殺事件の後、全てはグアテマラ国軍によって破壊され、略奪されておりました。
家も所有品も失ってしまったため、
証人は5ヶ月にわたって子供達と山中に逃げ込まざるをえなくなりました。
生存者らは夜は山に逃れ、昼はプラン・デ・サンチェスに戻り、
順番に見張りをして、
兵士らが近づいてきたら逃げるようにしました。
このような生活を送らざるを得なかった時期は、
証人の人生の中でも非常に辛い時期でした。
子らは厳しい気候と空腹のため、病気にもなりましたが、
医者の手当てを受けることはできませんでした。


軍コミッショナーが許してくれなかったので、
プラン・デ・サンチェスには戻りませんでした。
もし誰かがそんなことをしようとしたら、きっと逮捕され、
軍の駐留地に連れて行かれ、そこで処刑されていたでしょう。
山の中で2年間を過ごした頃、軍コミッショナーは
PACに加われば、コショハバフに住まわせてやると言いました。


1984年の中ごろ、軍の駐留地は
虐殺事件の生き残りである約15家族のグループに対し、
プラン・デ・サンチェスに戻ってくることを許可しました。
家族統合センターは家を再建するためのトタン板などを提供してくれました。
虐殺事件の前は、貧乏ではありましたが共同体の住民の中には
調和と団結がありました。
事件の後はすべてが変わり、皆、更に貧しくなったのでした。


プラン・デ・サンチェスへの帰還は厳しいもので、
農業活動を始めるのは大変困難でした。
1990年以降、現在は自分の土地でコーヒーを栽培し、販売しておりますが、
国は証人らの財産を返してはくれませんでした。


生涯を共にするはずであった家族を失ったことは大変辛いものでした。
住民の多くは鬱状態となり、
家族を失ったので自分も死にたいと嘆いておりました。
中には、このために亡くなった人もおりました。
これらのことは決して忘れることができません。


マヤの儀式を司る老人らは虐殺で亡くなっており、
彼らの死と共に伝統も失われました。
若者には誰も教えてくれる人がおりませんでした。
更に、軍コミッショナーやPACはあらゆる集会を監視していたため、
宗教儀式を行うことには皆恐怖を感じておりました。
この抑圧された暴力的な状況について、誰も公に話すことができませんでした。
PACと軍コミッショナーが村人を厳しくコントロールしていたからです。
1995年か96年頃から、PACの活動はなくなりましたが、
彼らの存在が住民を脅かしておりました。


国がインディヘナのことを考慮してくれたことは
かつて一度もありませんでした。
教育や、住居や、保健や、政治などへのアクセスを
容易にしてくれたこともありませんでした。
虐殺事件の前も後も、誰も自分たちのことを考えてくれたりしませんでした。
グアテマラの他の人たちにとっては、私達は存在していないからです。
プラン・デ・サンチェスの虐殺事件では、
インディヘナが死んだだけで、
誰も事件について知りたくもなかったし、知ろうともしない。
もし私達がラディーノであったならば、殺されることはなかったでしょう。
実際に、ラディーノの共同体には何も起こっていないではないですか。
証人はラジオでリオス・モントが
「インディオは皆死ぬべきだ」
と言っていたのを聞いた時のことを覚えております。



[ 2008/03/30 18:36 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

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