ジェノサイドか否か (6) プラン・デ・サンチェス II 

この裁判で提出された書類の中には、この虐殺を生き延びた人の証言もあります。


ベンハミン・マヌエル・ヘロニモはその1人で、
証言を録った2004年には50歳、事件当時には22歳くらいですか。
プラン・デ・サンチェスで生まれ、事件当時は農業と織物を生業としていた
マヤ系アチー族の人で、アチー語を話します。
少し長いですが、全文です。




1981年から軍の兵士がプラン・デ・サンチェスにやって来るようになりました。
若者や成人の男性を連れて行っては兵士になるよう強制していました。
その当時、村には10人からなる自警団(PAC)のグループが10あったのですが、
PACは村で起こったあらゆることを監視したり、捜査したりしていました。


虐殺事件のあった1982年7月18日の日曜日、
兵士らは午後2時ごろ村にやって来ました。
私はその時、姉の家から75mほど離れた山の中に隠れていました。
しばらくしてから、兵士らは私の姉の家に向かい、
そこに村人や途中で捕まえた人を連れてきましたが、
子供たちや、15歳~20歳くらいの若い女性は別にされました。
それから虐殺が始まりました。
最初に、年配の人たちをゲリラだと言って拷問し、
その後手榴弾を2発投げた後、一斉射撃をし、
最後にガソリンをかけて、家ごと燃やしました。
別のところに集められていた女性たちは、レイプされ、拷問されました。
女性、男性、老人らを殺害した後は子供たちの番でした。
1人1人、床に投げつけたり、火の中に投げ込んだりしていました。
兵士が村の出入口をふさいでいたので、誰一人として逃げることは不可能でした。


この虐殺を行ったのは国軍、PACと司法警察のメンバーでした。
プラン・デ・サンチェスやその近くに住む人たち約284人が、この日、亡くなりました。


私の母と妻、姪と3人の姉妹はこの時に亡くなりました。
姉妹たちのうちの1人はレイプされておりました。


翌日、私は潜んでいた場所から出て、何が起こったのかを見に行きました。
エウラリオ・グラーベ・ラミレスと
その兄弟のフアン、ブエナベントゥーラ、エステバンらと共に
まだ遺体を焼き続けていた火を消しました。
まだ黒焦げになっていなかった遺体には、拷問された痕が見られました。
裸のままの若い女性達の遺体もありました。


その後、PACの連中と軍コミッショナー達がやって来ました。
彼らは軍の駐屯地から、
遺体を2時間ですべて処理するようにという命令を持ってきていました。
そうしなければ、村の上を飛んでいるヘリコプターから銃撃して殺す、というのです。
それでPACと軍コミッショナーの監視下、
大きな溝を掘り、そこに遺体を全部放り込みました。
ですので、マヤの慣習にのっとった、聖なる土地への埋葬はできませんでした。


兵士らは村人の家々から物を盗み、
金目の衣装は彼らの間で分けるために持って行きました。
生き残った人たちは空家にもぐり込み、
兵士らがやってこないかどうかを交代で見張ることにしました。
日中はそうやって家に残り、夜になると山へ逃げ込みました。
私は、2年間を山の中で過ごしました。
殺されるのが怖くて、プラン・デ・サンチェスには戻れませんでした。
国軍に属する司法警察は「ブラックリスト」を持っており、
私達を見つけたら殺せという命令を受けていました。


故郷を追われた生活は非常に苦しいものでした。
希望もなければ、誰も守ってくれる人がいないように感じました。
飢えと、寒さと、渇きに苦しみ、
病気になっても、手当てを受けることができませんでした。


1984年の1月、1983年に発効となった恩赦の話を聞いて村に戻りましたが、
軍コミッショナーは私たちがプラン・デ・サンチェスに戻って家を再建することも、
仕事をすることも許してくれませんでした。
私たちは他の村に住まざるを得ませんでした。
加えて、PACに入ることも強制されました。
男達は全員、14歳の少年から老人まで、
全員がPACの一員となることを義務付けられました。


1984年11月、家族統合センターが、最低20人がいれば、
家を建設するというプロジェクトを始めました。
私と、フアンとブエナベントゥーラの兄弟はラビナルの軍コミッショナーに
プラン・デ・サンチェスに戻り、家を再建する許可を求めました。
こうして、他の生存者らと同様に村に戻ることができました。


村に戻った後は、ラシュフトの軍コミッショナーらが
それぞれ3日、8日、15日毎にやって来て、
私たちのことをゲリラだと言い、しょっちゅう脅迫しては
厳しいコントロールを敷くようになりました。
PACの役割には変わったものもありましたが、
リーダーたちは相変わらず、
私たち、生き延びた者らはゲリラで、
彼を殺しに来たのだという誤った考えを持っていました。
軍コミッショナーとPACは、大体1995年~96年頃になくなりましたが、
その後も村の住人にプレッシャーを掛け続けていました。


虐殺事件で、家族だけではなく、所有していた物をもすべて失った上、
時の経過と共に土地は痩せ、
収穫した物を売れるようになるまでには、数年が必要でした。


村に戻ってきた時、苦痛、無力感、怒りを感じましたが、
仕返しが怖くてそれを自由に表現することができませんでした。
証人らは、言われた通りにするより他になかったのです。
無理矢理仕事をさせられたりもしました。


プラン・デ・サンチェスの軍事化のため、
祖先伝来の慣習を続けることは不可能となりました。
虐殺事件以前は、個人やグループのディヴォーション(礼拝)が行われていました。
これを執り行なっていた老人らは何人かおりましたが、
その多くは事件で亡くなり、
その知識は次の世代に引き継がれないままとなってしまいました。
加えて、軍からのプレッシャーと若者を軍務につかせるようにという要求に
祖先からの信仰も、慣習も、知識も失ってしまい、続ける気持ちをも失ってしまいました。
虐殺事件は、マヤの儀式の中で時折行われていた宗教行事を行う自由を奪ってしまいました。
軍コミッショナーは、それは自分たちの敵に対する黒魔術で、
悪知恵をつけるものだからと言って許してくれなかったのです。


恩赦が出て、もっと自由に話すことができるようになった後でも、
宗教行事を行うためにはまだ軍コミッショナーの許可を求める必要がありました。
行事の際にはPACが交代でずっと見張りをしていました。
1994年6月から始まった遺体発掘以降、
私達はやっとマヤの行事を行う自由を得ることが出来たのです。


プラン・デ・サンチェスの虐殺事件以来、知識の伝達も変わってしまいました。
両親を失った子供たちには、祖先たちからの教えを
両親から受けることができなかったからです。


常に管理下におかれ、あらゆること、
特にプラン・デ・サンチェスの虐殺事件については、
話をすることができませんでした。
1996年、和平が調印されてやっと、
公に虐殺事件と誰にその責任があるかを話勇気をえることができました。


私達はインディヘナであり、
コミュニティーのリーダーであり、
村の発展を求めてきたという理由で差別されてきました。
その上、私達はゲリラで、虐殺を引き起こしたのは私達だとも言われてきました。



[ 2008/03/16 08:10 ] 内戦 | TB(0) | CM(2)

数年前、グアテマラ内戦の被害者の講演を札幌で聴きました。
その時も感じましたが、しんどい内容です。
でも、monjablancaさんのおかげでこう言う情報に触れられる事、感謝します。
[ 2008/03/19 03:15 ] [ 編集 ]

辛い内容ではありますが、
やはり過去を振り返るためにも、
真実を追究するためにも、
加えて次の世代のためにも、
やはり残して欲しい記録です。

CEHやRemhiの報告書は出ていますし、
個人でも書籍を出している方はいるのですが、
この裁判の記録もまた貴重なものだと思います。
CEHやRemhiほど有名じゃないですけれどもね。

それに、pescadorさん、
私の方こそ、つたないこの文を読んでくださってありがとうございますです。
[ 2008/03/19 23:56 ] [ 編集 ]

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