モノカルチャーと土地問題 

農業及び資源環境研究所(Instituto de Agricultura, Recursos Naturales y Ambiente: IARNA)は
私立ラファエル・ランディバル大学の研究機関の一つです。


その名の通り、天然資源や環境について、
特に農業の状況と照らし合わせながら研究調査を行う機関で
自然や環境を保護しながら農業生産を進めていけるバランスを模索するという
崇高な使命を負っているっぽいところであります。
これ以上書き続けるとボロが出そうなので、IARNAの話はこの辺にして。


そのIARNAのリサーチャーであるラウル・マアスは
この地域のモノカルチャーは植民地時代に端を発していると指摘しています。
以下、マアスへのインタビュー記事を元にしながら、一部補足したものです。


植民地時代、スペインはアメリカ大陸の先住民を自らの臣民と定義づけ、
先住民を植民者に委託するエンコミエンダ制を導入します。
先住民は労働力の提供と貢納を義務付けられ、
植民者は先住民のキリスト教化を引き受けることで魂の面倒をみる、
というのがこのエンコミエンダ制。


スペイン人の宣教熱というのは
イベリア半島がイスラム教徒に征服され
後に取り戻したという歴史的事実によるところも大きいのでしょうが、
悪意がないだけに却って性質が悪いという典型例ではなかろうか・・・。


というのは本題とは関係のない話ですが。


さて、労働力を提供することとなった先住民はやがて奴隷化し、
酷使された末、疫病などで人口が激減。
持ち主がいなくなった土地は植民者が自分の物としていったのでした。


グアテマラがスペイン領から独立した時、
土地を持っていたのは植民者の子孫であるスペイン人、
クリオーヨ(アメリカ大陸生まれの白人)、
ヨーロッパ系の血を引くメスティソ(混血)らだったそうです。
当時の労働法では、先住民はエンコミエンダ制の時代そのままに
「自分の土地ではないところで無償で労働力を提供すること」が義務付けられており、
これが廃止されたのは何と1945年のアレバロ政権時代のことでした。


その間約350年!


インタビュー記事にはマアスの言葉として次のように書かれています。
「セベロ・マルティネスは『(インディヘナよりも)奴隷の方が恵まれている』と言っている。
 なぜなら奴隷は財産であり、投資に見合うよう食事を与えたりしなければならないが、
 インディヘナにはその必要さえなかったから」。


エンコミエンダ制は時とともに少しずつ姿を変え、
やがて土地は植民者に配分されるようになります。
先住民らはその一画に土地を与えられ、住居や畑として利用することが認められます。
先住民の共同体ができあがり、その中のリーダーが土地の配分や、
植民者の土地へ作業に行く順番を決めたりしていたのでした。


この方法は、若干姿を変えてはいますが、現在でも引き継がれています。
サトウキビでもアブラヤシでもコーヒーでもバナナでも、
労働者はその一画に住み込んで労働力を提供する。
その報酬は最低賃金にさえ満たない程度であることもまた多々なのですが。


なぜそうやって他人の土地で働かなければいけないのか。


グアテマラ独立時、それまではスペイン王室領とされていた土地は
グアテマラ政府の土地となり、
カトリック教会が保有していた土地は、後に国有地となります。
これらの土地の大半は移民としてやってきた外国人に払い下げられます。
確か、当時グアテマラは移民促進政策を取っていて、
移民として来た外国人には安価で土地が提供されていたのだったと記憶しています。
ベラパス地方にコーヒー農場が増えていったのもこの頃ではなかったでしょうか。


1970年代にペテン県の50万ヘクタールの土地が国有地化されますが、
和平合意により避難民に払い下げられており、
現在では、農地として使用可能な国有地はほとんど残っていない状態です。
新たな農地を入手するためには、誰かから購入しなければならない。


一方プランテーションをやろうとすればとまった土地が必要。


こうして、土地を巡る交渉が始まります。
「あんたは土地を持ってる。そいつを買おう」
「いや、この土地は売らん」
「あんたが売ってくれないのなら、あんたの未亡人から買うしかないな」
というのが序の口。


それでも粘ると
「ま、実際のところ誰の土地でもかまわん。
 今度ウチの兵隊何人か連れて来て、この辺りに住まわせるわ」
と実力行使に発展してしまうという。


そうでもしないことには農地はない、ということなのでしょうが。


ここの土地を買う、って狙いを定めると後は実践あるのみです。
通常はQ1,000程度の土地をQ4,000の現金一括でポンと買い上げ、
売ろうとしない人の土地はぽつーんと離れ小島状態にされてしまう。


取り残された土地の所有者はにっちもさっちもいかなくなって売却を決意、
でもその時にはもっと安い値段になってしまう。
サン・マルコスではこうして買い上げられた土地が
後に金鉱として開発され、
売った人達はQ4,000なんかで売るんじゃなかった、騙されたと地団太を踏んでいるとか。


こうして和平合意の遂行のために払い下げられた土地はエリートのものとなり
土地を売った人達は住む土地も耕す土地もないまま
受け取ったお金で買った車の中で生活し、
わずかに残された自然保護区などに侵入することになるのです。


共同体は散り散りとなり、
残されるのは広大に広がるサトウキビ畑だったりアブラヤシ畑だったり・・・。


グアテマラはその内サトウキビやアブラヤシのジャングルの中に埋没してしまうのかもしれないな。


なんてちょっと本気で考えてしまいました。


[ 2012/10/31 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

モノカルチャーの歴史 

グアテマラの伝統的農業と言えば、トウモロコシとフリホール。
これに野草や果物を加えた物が食生活の中心だったのでしょうが、
それっていかにも豊かな熱帯ならではという感じですよね。


スペインの植民地となって間もなく、カカオの栽培が行われるようになったのが
グアテマラでのモノカルチャー(単一栽培)の始まりとされています。
もちろんカカオは以前から自生していたわけですが
それの商品作物化を目指したわけですよね。


グアテマラのカカオはスペインの他、メキシコやペルーにも送られていましたが
1620年代末には栽培できる土地がなくなり(多分病害虫にやられたって意味)、
カカオ生産国の地位をエクアドルとベネズエラに奪われてしまいます。


現在のグアテマラのカカオ生産量は年間1000トン程度なのだそうで
世界的に見るとほんのわずか。
多分、国内消費がメインなんだろうな・・・。


カカオの次に登場するのがアニル(インディゴ)。
藍色の天然染料のアニルは、17世紀と18世紀にはグアテマラ総督領の名産品となっていました。
もっとも、生産量が多かったのは現在のサン・サルバドルとサン・ビセンテ(以上エル・サルバドル)、
そしてニカラグアの辺りだったのだそうで、
現在のグアテマラ国内の生産量はさほどでもなかったようですが。
それでもエスクイントラ、サンタ・ロサ、チキムラ、サカパ辺りで栽培されていたそうです。
輸出を独占するようになった大生産農家がアニル長者となったのもこの頃の話。


スペインに輸出されたアニルは、そこから更にフランス、オランダ、イギリスへと渡ったのですが、
アニルがアジアやアメリカ諸国でも生産されるようになるとグアテマラからの輸出量は激減。
こうしてアニルの時代は終了したのであります。


第3の作物となったのがコチニール(エンジムシ)。
コチニールは赤色の染料となる、ノパールサボテンに寄生する虫のこと。
グアテマラではアマティトラン、アンティグアが主な産地でしたが、
モタグア川流域、サカパ、チキムラ、ケサダ、フティアパ、アティトラン湖周辺といった
結構あちこちで生産されていたそうです。


グアテマラが独立して間もない1840年頃からコチニールの輸出が始まり、
いい価格で売れたそうですが
やがて化学染料が作られて安価に入手できるようになったため、
1853年頃からコチニールの価格はあっけなく急落。
当時のグアテマラ経済はコチニールに支えられていたので、
深刻な経済危機を迎えたという話です。


そこで登場した救世主がコーヒー。
コーヒーがグアテマラにもたらされたのは1773年のことで、
それ以降国内各地で栽培されるようになっていましたが、
輸出されるようになったのは1854年。


この後、ヨーロッパからの移民がコーヒー栽培を始めるようになり、
品質も上がっていきます。
この時以来、コーヒーは常にグアテマラの輸出作物となり
20世紀の数々の危機を乗り越えて現在へと続くのであります。


20世紀の後半にはモノカルチャーの多様化が始まります。
サトウキビ、綿、ゴマ、バナナ、果物、野菜、カルダモンといった商品作物が
大規模に栽培されるようになったのがこの時代。
その陰にはフアン・ホセ・アレバロ政権(1945~51)の
輸出推進政策なんてのもあったらしいです。


モノカルチャーに共通するのは、国際市場がターゲットだということ。
国際市場で価格が上昇しているものが次の商品として選ばれ、
栽培が行われるので、
国際価格が上がっている間はいいけれど
下がりだすとポイ捨てされて次の作物へ。


そして現在はアブラヤシの時代ということなのかな。


この項、続きます。


<参考>



[ 2012/10/29 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

サン・ロマン農場 

前回の記事で出てきたサン・ロマン農場について補足しておきます。


ActionAidという国際NGOが2008年に出した
「グアテマラにおけるバイオディーゼルのプランテーションと食物生産のための土地の減少」
Valle del Polochic(バイエ・デル・ポロチク)というサイトに掲載されている資料の内、
「アルタ・ベラパス県の農地の再配分」を参考にしています。


サン・ロマン農場、と呼びますが、グアテマラの場合fincaと表記されるのは
何も実際に農業が行われている農地だけではなく
自然林などもfincaと表記されていたりします。


「農場」と言うよりは「広大な土地の名称」として使われているようで、
実際の土地登記を見ると、その土地の登記名としてfincaが使われていたります。
アウロラ空港がある地域もその一つで、あそこはFinca La Aurora。


人が住むようになったり、集落として開発されるようになると別の名前ができるのですが
そんなわけで、サン・ロマン農場は元々は単なるジャングルであり
農地として開発されていた土地ではないようではあります。


そのサン・ロマン農場の面積は約9万ヘクタール。
内戦時にはアルタ・ベラパス県の各地から逃れてきたケクチ族が住み着いたそうですが、
その中には1978年にパンソスで起こった虐殺事件の生存者も多数いたそうです。


1983年、この農場は政令91-83号により国防省に移管されます。
自然も野生生物も豊かな土地柄だったため、
1995年には生物多様性の保護のための自然保護区と国会で決議されました。


さて、時の経過とともに、この自然保護区に34の共同体が出来上がります。
この内14は和平合意により内戦の国内難民と認定され、
グアテマラ国内難民審議会(CONDEG)を通して土地の取得手続きを開始します。


最初に行ったのは国防省が有する権利を抹消することで、1998年12月2日に実現。
サン・ロマン農場の大部分は農地移行機関(INTA)の管理下となり、
残った部分が再び国防省の管理下となりました。


1999年、サン・ロマン農場はINTAの後を継ぐこととなった土地基金(Fontierras)の管轄下となり、
緩衝地域(保護区に隣接する地区)を共同体の農民に払い下げることが決定します。


2001年にプロセスが終了し、
Fontierrasは2113世帯に土地の権利書を渡します。
自然保護区の中にあった3つの共同体は他へ移転せざるを得なかったのですが、
これにはCONDEGが立ち会っっています。


こうして念願の農地が得られた農民だったのですが、
土地を得て間もない頃から、土地取引が多数発生したのでした。
中には農民に権利書が渡されているセレモニー会場にでさえ
土地を買い付ける人の姿が見かけられたという話もあります。


念願の土地は得たものの、土地以外に何もないとか
技術指導をしてもらえなかったとか、
そういう状況で放棄される土地が増え、
土地を売却する人が続出したのでした。


更には1999年の土地基金法によりが可能になったことも大きいです。
1962年に制定された農地改良機関では、
国から払い下げを受けた土地は10年間売却停止となっています。
その規定を取り払い、土地を自由経済の流れに任せたのが1999年のことでした。


こうしてサヤスチェでは次の共同体で多くの人が土地を失う結果となったのでした。
  1. ラ・トーレ 100%売却
  2. エル・ロサリート 100%
  3. エル・アレナル 98%
  4. エル・ポルベニール I 98%
  5. サン・ラファエル 80%
  6. ラス・ポサス 75%
  7. ラス・カルメリタス 45%
  8. サン・フェルナンド 35%


そしてこれらの土地を買い、急成長を遂げたのはアブラヤシ企業だったのでした。


[ 2012/10/26 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

恐怖と曖昧さと沈黙と半分の真実の狭間で (3) 

アルセの記事の続き。これが最後の部分です。




IV. 代替策は存在するか。生き残るためのジレンマ


「農民らは自ら罠にはまった。一旦売った土地は二度と取り戻せない。
 今できることは教育だ。
 土地が唯一の問題解決策ではないことを伝えて
 将来他の仕事にもつけるよう準備してやること。
 問題を引き起こした者自らが解決策の一部になることだ」。
一言たりとも触れてはいないが、これはアブラヤシ企業で働くという意味だ。
ポップの言葉は敗北宣言であるとも言える。
そして彼は代替策を探す。


サヤスチェ市の税収の16%はこれらアブラヤシ企業に依存している。
「前の市長時代には正当な課税が行われていなかった。
 現在支払われているのは正当な額の5%に過ぎない。
 アブラヤシ会社は市の最大納税者であるべきなのに、そうなっていない」。
(注:ここで指摘されているのは市が徴収すべき固定資産税のこと)


市長の指摘は重大である。
各企業が納付している税金の領収書を見せてもらえないか、と市長に尋ねてみた。
「そういう場合じゃない。企業も誠意を見せるべきだ。
 対話が進まなければ法的措置を取る」。


2011年の農業・土地問題研究所(Idear)や
NGO及び協同組合コーディネーター(Congecoop)の報告書は
サヤスチェのアブラヤシ企業3社(Repsa, Naisa, Tikindustrias)が労働搾取をしており、
所有する土地にかかる固定資産税を支払っておらず、
脱税額は年額Q300万にも及ぶと告発している。
財務省の記録によれば、2011年の納税額の最高はQ433,067.84であった。


この市民活動家出身の市長と話をしたのは2012年1月で、
市長となってまだ15日しか経っていない時であった。
「この職についてまだわずかだが、
 この仕事を溝の中に横たわって終えたくないと思ったら
 何について戦うべきかは考えないと」。


サヤスチェには市長の姿勢を心良く思わない者もいる。
平和のためのマヤ協会のアルトゥーロ・チェンは
「ロドリゴ・ポップはケクチ族だから市長になっただけだ。
 誰もポップが市を変えられるなんて思っていない。
 アブラヤシ企業がもう市長に接近しているという噂もある」と話す。
「多くの人が彼は親政府で親企業だと思っている。
 前回の選挙でも勝てなかったので、2年前から労働者に近づき
 彼らの状況改善を手助けすれば票を得られると考えた」。


おそらく軍についても同様の取り決めがあるのであろう。
権力とは交渉し、自然な関係を保つことが大切だ。


全員に教育が必要だという点に戻ろう。
「市長がアブラヤシ企業にサン・カルロス大学のキャンパスを建設するために
 土地の提供を求めているという噂がある。
 会社はポップの提供なら呑むだろう。
 そして民間の資本で建設して、再選を確実にする。
 誰もが利益を得られるからだ。
 もっとも税金については、誰も払うつもりもないだろうし、話にも上らないだろう」。
とチェン。


共同体の代表であるドミンゴ・チョクは
市政と土地問題と共同体の活動に係る困難さを実感している。
その中で生き延びるためには忍耐と戦略が必要だ。
彼の人生は常にそうであった。
内戦時には軍務委員を務めた。
「19歳で軍務委員になった。
 ゲリラから情報を得て軍に渡すのが私の任務だった。
 幸い、共同体の人とも軍ともうまくやっていくことができた。
 どちらにも、何かしら役に立つことができた」。


例えばこうだ。
「ある日、自分が働いていた倉庫にゲリラがやってきて
 商品を数千ケツァル分持って行った。
 ゲリラは代金を払ってくれるので、全部記録した。
 軍は払ったりなんかしない。
 その買い物リストを軍に渡した。
 何の役にも立たないけれど、満足してもらえた」。


語られた権力と語られなかった権力が混在する。
サヤスチェは極めて脆い地元の力というゲノムに宿った
真実の告発とわずかばかりの事実と
語られない現実と深い沈黙と生き残るための策略があい混じった格好の見本である。
そして彼らは自分達で行く道を決めることができるのである。(完)




「蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」という聖書の言葉をふと思い出します。
ポップが企業寄りだと批判する人はきっと少なくないのでしょう。
農場での低賃金がありますから、なおさらのこと。


読み書きができない人は農業以外で従事できる仕事も少ないため、
安い労働力として酷使されるという一面もあり、
以前に書いたサトウキビのプランテーションと全く同じ。
植民地時代から延々と続く図式なのですよねぇ。。。


と言うわけで、次回はモノカルチャー全般について触れてみる予定です。


[ 2012/10/24 00:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

恐怖と曖昧さと沈黙と半分の真実の狭間で (2) 

当局側と住民の間にある溝は深い・・・と見えて
実はくっきりとした線引きがなかったりすることも。
というか実情はもっと混沌としたもののようです。


アルセの記事の続きです。




III. 地元自治体の苦悩と麻薬組織

会合の後、共同体の代表らはカフェ・マヤで昼食を取ることにした。
ポップ市長もこれに加わった。


市長の車にはカルロス・ムクとドミンゴ・チョクも同乗している。
3人は友人であり、スポークスマンであり、ネゴシエーターであり、
軍人時代の同僚であり、必要があればお互いに手助けをする関係である。


食堂のテーブルでは市が直面する問題についてもっと切実に話し合った。
サヤスチェ市でインディヘナとして初の市長となったロドリゴ・ポップは、
自身を「社会運動の一部」と呼ぶ。
ポップ自身も故郷を離れてここに住み着いた人物であり、
現在はCondeg(グアテマラ国内難民連絡調整会)の執行部のメンバーでもある。
サヤスチェの住民の41%はアルタ・ベラパスから追われて来た人々である。


テーブルにはCondegのコーディネーターであるサントス・チクもいた。
チクはキチェ出身であるが、やはり故郷を捨ててここに住み着いた。
チクは家族全員を失った後、EGP(貧民ゲリラ軍)に加わった経験を持つ。


チクは覚えていることを話してくれた。
「サン・ロマンの辺りに最初に住み着いたのは避難民だった。
 1991年に強制立ち退きが開始されたので、住民らは抵抗した。
 グアテマラシティで23日間に及ぶ抗議運動をした結果、土地を手に入れた。
 しかし、開発プロジェクトも能力養成もなかった上、
 土地を買おうとする人物が現れた。
 農民は土地をQ5,000で買ったが、Q50,000で買うと言うのだ」。


それから20年が経った現在、当時買われた土地の中には価値が10倍にもなったところもある。
パーム油の国際価格が上昇すると共に、
グアテマラで精製されるパーム油の輸出量も倍増していく。


そして予想通りのセリフが続く。
「政府は和平合意に定められた農地改革の実行に関心を持っていない。
 農民はいつまで経っても損をし続け、
 今では国際企業が土地を奪おうとしている。
 土地を売らなければ彼らの農場に取り囲まれ、
 重機や警備員に脅かされる毎日を送っている」。


チクは、カルロス・ムク、ドミンゴ・チョクも脅迫を受けていると話す。
「黙っていた方が身のためだ」
「ここには組織はいらない。面と向かって話すだけだ」
友人らは彼の言葉に黙って頷く。


「市長、会合で誰もアブラヤシについて話さなかったのはどうしてですか?」
「私は農民だしインディヘナだし、やっぱりアブラヤシに囲まれている。
 しかし、私は土地を売らなかったからと言って、嫌がらせをされているわけではない。
 彼らだけに責任があるわけではない。土地を売ってはいけないんだ」と弁護する。


「昔、プエブラ-パナマ計画が出てきた頃、
 ここにはダムが作られて土地は湖の底になる、価値がなくなるから売るべきだと言う人達がいた。
 農民はその言葉を信じて土地を売ってしまった。
 止めることができなかった、ここの人達は騙されたんだ」。


「グアテマラで貧乏人の土地をこれ以上買うなと企業に言えるのはどこの役所でしょうか」
と尋ねようとしたが、口をはさむ以前に次の言葉が続いた。
「彼らは土地を買い、重機を入れると溝を掘って水はそこに溜まるようにした。
 土地が干上がり、作物を作れなくなると農民は土地を売ってしまう」。


土地の入手方法については以前から噂のみならず告発も行われている。
市長は
「農場の土地の30%は圧力によって売却されたものだ」
とまで指摘している。


「つまり?」
「選択的農場購入。
 まず農場を一つ買う。次いでもう一つ、それからもう一つ。
 こうして4つ目は隔離され、アブラヤシの中に取り残され、
 農作には不向きな土地となる。
 彼らはどこをどうやって塞ぐかを選んでいる」。


誰もこれ以上は口を出そうとしない。
実際にそういう目にあった人を教えてほしいと粘ったがダメであった。


当紙はアブラヤシ生産業組合(Grepalma)の最高責任者スサナ・シエカビッサに
この点についてインタビューを試みた。
シエカビッサは事前にメールで質問を送るようにと連絡してきたが、
最終的にはインタビューにも応じなければ質問への回答も貰えなかった。


昼食に話を戻そう。


市長は常に2人の人物を従えている。
2人は体格もよく、武装した若者で、レストランの入り口を見張り、
どこに座るかを指示する。
ガードマンがいるにも関わらず、皆声を落として会話し、
常に周りのテーブルを気にしている。
ここは不信の地である。


「私には身の危険があるんだ。」
「どういうことです?」
「ここで働く者は誰でもリスクを負っている。
 自治体の権力の不在に慣れてしまったものだから、
 別の人間がやって来て、命令することを快く思わない。
 働かずに金を稼ぎたいと思っている奴らばかりだ」。


ポップが言っているのは前市長時の市職員、
つまりこのインタビューの直前に解雇された人達である。
ポップが市民活動家であった頃や選挙活動中に訴えていたような
共同体に対する圧力や脅迫について話したがらないのは明らかであった。
タバコを吸うかのように口に指を当てる仕草を何度もした。


麻薬組織について話すのは何も市長や自然保護担当当局だけではない。
オフレコながら、同地に駐留する軍人も同じような指摘をしている。


共同体の中に入っていくと、まず最新型のバイクが何台も通っていき、
きれいに色塗られた家が現れ、
軍人が通るのを見た若者らがさっと電話を取り上げる。
農作業をしたりアブラヤシの農場で働くよりも滑走路を造る方が5倍の稼ぎになるのだという。


市長らにこのことを聞いてみた。
ポップもチョクもムクも、何も聞いたことがないという。
話したくないのだ。


ポップは15年以上、土地の権利のために活動を続けてきた。
4度市長選に出馬した。
土地問題について話し合うために軍の施設を利用していることで疑問視されていることについても触れた。
「国軍は対話のファシリテーターに過ぎない。
 問題解決のためには市だけではなく、様々な機関の力が必要だ。
 様々な機関が、一つの方向を目指して進んでいく必要がある」。


現在のポップ戦略は社会変革である。
政府機関の力を一旦集結させ、その後共同体へ移管する。
「市長への支援を集めて、市長に好意的なグループを共同体で作りたい」、
ムクとチョクはそう言う。





[ 2012/10/22 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

恐怖と曖昧さと沈黙と半分の真実の狭間で (1) 

時々このブログでも取り上げているPlaza Públicaの
アルベルト・アルセも、サヤスチェを訪れた記事を書いています。


アルセは今年の1月にサヤスチェを訪れていますが、
2月からAP通信社でホンジュラスを担当するようになったためグアテマラを離れており、
この記事はアルセが書いたものをアレハンドラ・グティエレスが仕上げたと注釈が入っていますが、
アルセの署名入り記事で、6月12日にPlaza Públicaに掲載されています。


タイトルはSayaxché ambigüedad y medias verdades
訳すれば「サヤスチェ、曖昧さと半分の真実」、かなぁ・・・。


相変わらず文学的な表現があったりやたらと長かったりするので思いっきり端折ります。




I. 試験下の労働条件

アルセが訪れたのはサヤスチェのアロヨ・サンタ・マリアという共同体の跡。
ここにはかつてアルタ・ベラパスから逃れてきたケクチ族の35世帯が住んでいたが、
皆少しずつアブラヤシ農場に土地を売り、最後には誰もいなくなってしまった。
現在は倉庫として使われている建物は当時小学校だったもので、
中には湿気を帯びた当時の教科書などが残されていた。
2006年12月の指導書があったところを見ると、
2007年まではこの学校で授業が行われていたらしい。


この共同体から数キロ離れたところでNAISAの労働者らが家に帰るためにバスを待っていた。
「皆同じ仕事なのに給料が違うんだ」。
1人はQ1,046、もう1人はQ1,022、別の1人はQ946。
最低賃金をわずかながら上回ったり下回ったりする額である。
しかし、バイクに乗ったスーパーバイザーの姿が見えると共に皆押し黙ってしまった。


2011年初めにActionAidという国際NGOが出した報告書には
REPSA、Tikindustrias、NAISAの3社は労働者の権利を守っていないとして
サヤスチェ市のラ・セイバ地域の18の共同体の代表らが労働省へ告発を行ったことが記されている。
労働省はその告発について結論を出していないが、
同地域のアブラヤシ栽培を行う企業の調査を実施している。


労働省のペテン県事務所の担当官は
会社は労働者と労働契約を交わしていないこと、
会社が労働者らの賃金台帳を有していないこと、と言った違反があったと説明した。
またパルマ・デ・イシュカン社については担当官の立ち入りを認めさえしなかった。


フェリペ(24)はREPSAが所有するエル・ミラドール農場で働いている。
彼の仕事は農薬の散布だ。
クレラットという名前の物質を株の周りにまく(注:クレラットは殺鼠剤)。
「朝4時半に家を出て、5時か6時頃から3時まで働き通し。
 休日は週に1日だけ。祝日は関係ない。時には日曜日もないこともある」。


Grepalma(椰子生産者組合)は1万人の直接雇用があると言っているが、
労働省ではアブラヤシ部門の雇用契約は登録されていないと言っている。


フェリペは出来高払いで給料を得ている。
農薬散布一株当たりQ0.40である。
この日は80株くらいできたと言っていたが、それならQ35である。
日によってはQ80になる日もあればQ30の日もある。
最低賃金のQ63まで達する日はそう多くはない。
しかも素手で1日15キンタル(約675kg)の農薬をまくのである。


アルフレッド(47)は木の棒を持って泥の中を歩き、
落ちている実を一つずつ拾って袋の中に入れるのが仕事である。
彼は時間外手当を受け取ったことがないという。


他にも2人1組で木を切り倒している労働者もいた。
ブラジル製の重たい金属の棒を使う。
椰子を2度叩くと根っこが持ち上がるので
もう1度叩いてから根っこに棒を差し込んで持ち上げ、荷車まで運ぶ。
体力を使う厳しい仕事であるが、やはり出来高払いである。


マルティン(24)は収穫期に農場に住み込み
3週間休みなく働いて、数日間の休暇を貰っている。
1日に240株を切り倒すと言っているが、実際のところこの数字は不可能であろう。


労働者はケクチ語を話し、スペイン語が話せるものはわずかである。
彼らとの会話は困難なだけではなく、
給料や労働条件については誰も話したがらない。


II. 軍事基地での保護地域への不法侵入に関する交渉

エル・スビン北部特別軍事基地に行くためにはラ・パシオン川を渡らなければならない。
見張りをしているカイビル隊の兵士2人は見慣れない人物が近づいてくるとふっと姿を消す。


エル・スビン基地ではエル・ポソ・サン・ロマン自然保護地域の
自然破壊について話し合うための会合が開かれた。
出席者はサヤスチェ市長、自然保護審議会(Conap)地域事務所所長、警察、国軍と
ラ・セイバ地区の18共同体の農民らの代表である。


Conapは共同体の人々が自然保護地域に侵入し、
木を伐採して木材を売ったりトウモロコシの栽培をしている上、
違法行為として警察が逮捕しようとすると、住民らが逆に警官を捕らえてしまうと指摘する。


サヤスチェ市長のロドリゴ・ポップの主張はConapに近い。
住民は警官を捕らえるべきではないし、
伐採もやめるべきだと言う。


話し合いは何時間にも及ぶ。
農民らはケクチ語しか話さない。
共同体のリーダーであるカルロス・ムクとドミンゴ・チョクが通訳をする。
住民らはアブラヤシ企業が労働者の権利を侵害していると訴えている。


彼らの主張はシンプルである。
「今頃になって自然破壊だなどと言い出すのはどうしてだ。
 10年前にはサン・ロマンのことなど誰も気にしなかったではないか。
 あそこに最初に入り込んで家畜を飼い始めたのは金持ちだ。
 私達には食べ物がない。でも生き延びなければいけないんだ」。
彼らは土地を与えてくれるよう政府と話がしたいと主張する。


ポップ市長は「農民は自分の土地を売るべきではなかった」と言い
Conapのロルマン・エルナンデスは
「自然保護地域は土地問題を解決するためのものではない」と言う。
「かつて土地を受け取った農民らの多くが、その足で土地を売りに行ったではないか」と。


話し合いの後でもう少し詳しい話をオフレコで聞いた。
エルナンデスは農民らの被害者意識にうんざりしている。
「不法に土地を占拠する農民らはアブラヤシ企業や麻薬取引組織の先鋒として利用されている。
 可哀想な農民らがピックアップトラックに乗り、
 電気もあって、道を作るための重機や建設機械まで持っていたりする」。


会合は終わったが、怒りを隠そうとしない人も多かった。
農民らは内戦時代のことがあるので、軍事基地に入ることに恐怖を感じている。
「どうして基地に集まらないといけないんだ?
 80年代に基地に呼ばれた人は、二度とそこから出てこなかったじゃないか」。





[ 2012/10/19 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

繁栄するアブラヤシと蔑まれる先住民 

メキシコ生まれで現在はキューバを本拠にしているらしいオヤンタイ・イツァムナという記者さん(多分)が
先住民問題などを中心に扱っているペルーのSERVINDIというメディア
今年6月、サヤスチェのNAISAで農夫として働く男性にインタビューした記事を
まずは取り上げてみたいと思います。


サヤスチェにはNAISA (Nacional Agro Industrial:全国農産業株式会社)の他、
REPSA (Reforestadora de Palmas del Petén:ペテン椰子植林株式会社)、
Tikindustrias(ティキインダストリー株式会社)、
Palmas del Ixcán(イシュカン椰子株式会社)という4つの企業が
アブラヤシ農園の経営とパーム油やバイオディーゼルの生産を行っている模様。


記事のタイトルは
「Guatemala: La prosperidad de la palma africana y la degradación del indígena como en el s. XVI (グアテマラ:繁栄するアブラヤシと16世紀同様に蔑まれる先住民)」



イツァムナ氏はまず、グアテマラのパーム油の恐るべき生産効率に触れます。
パーム油の生産効率はヘクタール当たりの生産量で計るらしいのですが、
世界の平均がヘクタール当たり3.2トンなのに対し、グアテマラは5トンとか。
1.5倍以上の生産効率!!!


もっともこれはアブラヤシの栽培面積が急激に増えていることと無関係ではない模様。
なんと言っても2003年には31,000ヘクタールだったのが
2010年には90,000ヘクタールと約3倍という急成長産業。
年間1250億ドルの外貨を稼ぎ、
17,000人の雇用を、しかも仕事のない地方に創出しているスグレモノ産業。


という一面は確かにあるわけですが。
他方、
アブラヤシの栽培されている土地はインディヘナや農民から奪われたものであり
アブラヤシのプランテーションのために水源は枯れ、
生態系は破壊され、生物の多様性は姿を消してしまったのであります。
その土地が以前のような豊かな土地へ再生するためには4世紀という時間が必要だとか。


ミゲル・デ・アヒアというフランシスコ会の神父は
1563年に宣教師としてグアテマラを訪れ、数年間をグアテマラで過ごした後、
ペルーへ移ったようですが、そのデ・アヒアが17世書き残した記録には
その頃のグアテマラの様子が記録されています。


当時、毎週日曜日には成年に達した先住民が広場に集められ、
グループに分けられて様々な農場へ労働のために送られていました。
一ヶ月につき一週間(月曜日から土曜日まで)はこの労役につくことになっており、
それにより報酬を得て、その中から税金を納めることになっていたのですが、
行きと帰りに1日ずつかかる上、日曜日は教会へ行くことになっていたので
実質4日間の労働で、4レアルの収入を得、
そこから税として1レアルを支払わなければならなかったのです。


当時の物価では1レアルで鶏半匹程度が買えたそうですが、
賃金の支払いが遅れるだけならまだしも、
約束の額が支払われないということも多く、
病気になったり、監督に反抗した労働者は1銭も受け取れなかったのでありました。


更には、現金ではなく香辛料で支払われたり、
あるいは受け取った現金で彼らにとっては不必要な物を買わせるという行為も横行。
靴を履いてない人に絹のストッキング買わせてどうするんだ。。。


精神的、物質的な搾取や嫌がらせが続くものですから
やがて先住民は山の中へ逃げて行ったのですが、
信仰心篤い宣教師らが彼らの魂の行方を憂いて先住民を連れ戻したのでありました。。。


こうして先住民は死なない程度に生かされ、
土地を奪われた上に労働力を搾取され、わずかな稼ぎすら奪われていったのでした。
先住民の労働力こそが植民地経済を動かす歯車だったのであります。


時は流れて21世紀。


以下、NAISAで働くビセンテ・サキクに
通訳を通じて行われたインタビューとなります。



-名前と、どこでどんな仕事をしているのかを教えて下さい。

サヤスチェ市セモシャン村のビセンテ・サキク・コチュ、35歳で6人の子供がいます。
NAISAで農夫として働いています。
マチェテで雑草を刈り、一株当たり(およそ4平方メートル)Q0.50の収入を得ています。
半月で大体Q650の収入になります。
一日当たり、Q50稼げる日もありますが、頭を上げることもなく必死に働かないといけません。


カポラル(監督)は自分たちを休ませてくれません。
朝6時から午後2時まで、休む暇なしです。
カポラルの命じる仕事を終えられなければ、一日分の賃金が貰えません。
一日の仕事は150株から180株分ですが、カポラルの気分次第です。
その日の分を終えられなければ、賃金から差し引かれます。


病気になったり、作業中に怪我をしたら、家に帰されます。
薬をくれるわけではないし、仕事に出たともカウントされません。


この賃金では十分ではありませんが、他に仕事もありません。
私は6人の子供を養わないといけないのです。
賃金の引き上げやバスでの送迎、医薬品を求めて、もう3回も組合でストをしました。
今はトラックで通っていますが、まるで家畜のようです。
あまりに疲れていると、トラックを逃すこともあります。


-家を出るのは何時ですか?労働者は何人くらいいるんでしょうか?

トラックは朝4時にピックアップに来ます。
もっと遠くに住んでいると、2時とか3時だったりします。
NAISAの労働者は大体2000人くらいです。


仕事に使う道具と昼食は皆持参です。
会社では食べ物は支給されません。
休憩時間もありません。
作業時間が終わった後にトルティーヤとフリホールを食べ、
その後また2~3時間かけて帰宅します。
家に着いたら、薪を集めたりトウモロコシを刈り取ったり、できることをします。


毎日畑で働いています。
トウモロコシとフリホールを蒔く時期には1,2日休みを貰ったり、日曜日を使ったりします。


-会社のオーナーが誰かとか、アブラヤシで何を作ってるか、どこで売っているかを知っていますか?

オーナーが誰かは知りません。カポラルなら知っています。
一度だけフローレスで集会があった時にオーナーを見たことがあるだけです。
でもどんな人かは知らないし、何のために栽培しているのか、どこで売っているのかも知りません。
働かないといけないから働いているだけです。


私達が確実に知っていることと言えば、この土地は以前は祖父母のもので
トウモロコシとフリホールが栽培されていました。
今ではアブラヤシだけです。
私達は暗い、光のないところにいて、アブラヤシがどこへ行くのか、何の役に立つのかもしりません。


-あなた方の祖先と同様に、自分達の土地で搾取されていることをどう思われますか?

殺されているような気分です。
昔、私達の祖先は農場で、オーナーの命令で働いていました。
今も同じか、あの頃よりひどいです。
私はまだトウモロコシを育てることのできる土地を持っているので助かりますが。


会社が持っている巨大な土地は、農民自身が農場主に売却したものです。
土地を売った人たちは皆農夫として働き、トウモロコシやフリホールを買っています。


-カポラルは誰ですか?どこの人ですか?

カポラルは私達の共同体の人間です。
私達の近所の人間です。
勉強をして私達よりも少しばかりスペイン語が話せるので、雇用されたのです。


カポラルは労働者にその日の作業を指示します。
時には自分勝手に決まりを定め、横柄で、旦那の指示を超えた作業を私達にさせたりします。


スーパーバイザーはコバンから来ます。
カポラルは40~50人くらいで、カポラル1人当たり40人の農夫を監督します。
カポラルの上にはスーパーバイザーがいます。


-こういう生活環境の中で、子供たちには何を期待しますか?

日毎に人は土地を失い、会社は土地を得ています。


この会社は私達をこの県から追い出そうとしていることに気がつきました。
会社がこの県の持ち主みたいなものだからです。
ペテン県のもう半分くらいの土地を取得したという話です。
わずかに残されたミルパ(トウモロコシ畑)はアブラヤシに取り囲まれています。
サヤスチェは、町のほとんどすべての土地が買われてしまいました。
別の金持ちである牧畜家も、私達の土地を横取りしようとしています。
本当に迷惑なことです。
どうやって生きていったらいいのかわかりません。
私たちには戦って前進する以外に方法がありません。
法律は私たちにも権利があると言っていますが、ここでは私達には権利がありません。


私達の子供にも未来はありません。
唯一できるのは勉強させることです。
子供たちは成長しています。10年後のことはわかりません。
まだ生きていたら見ることができるでしょう。そうじゃなければ、神のみぞ知る、です。


[ 2012/10/17 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

サヤスチェ 

アルタ・ベラパス県北部の山中に源流のあるラ・パシオン川は
ペテン県でゆったりと蛇行しながら流れていきます。
この川のほとりにはかつて多くのマヤの都市が栄え、そして滅んでいったのですが、
その都市の跡を縫うようにゆったりと流れ、
やがてサリーナス川と合流してウスマシンタ川へと流れ込みます。


サヤスチェはこのラ・パシオン川沿いにある町で、人口は約6万人。
19世紀頃にケクチ族の住民が他の町から移住、段々大きくなったのだそうですが、
内戦時には自分たちの住んでいた土地から逃げてここに住みついた人も多数いるそうです。


サヤスチェのことをちょっと検索していて出てきたのが
去年、パシオン川をフェリーで渡っていた食用油を積んだタンクローリーが川に落ちた!というニュースで、
折角なのでここにリンクを貼っておきます。
こんな感じ。


重量オーバーだったようですが、普通なら満載してても大丈夫なはずなんですけれどもね。
何といっても普段はこんな感じ・・・。


これをフェリーと呼んでいいのか、というのは非常に気になる点ではありますが、
今回はそれがポイントってわけではないのでちょっと置いておいて。


川に落ちたタンクローリーが積んでいたのは記事中「食用油」と書かれていますが
これは多分パーム油だったのだと思われます。
サヤスチェにはアブラヤシの農場が4つもあり、栽培面積では国内最大級。


ここで本来ならグアテマラ椰子生産者組合(GREPALMA: Gremial de Palmicultores de Guatemala)のデータを参考にしたいところなのですが、
GREPALMAのサイトにアクセスできないので
どんなデータが存在しているのかも把握できないのですが、
昨年8月のRevista Summaから少しデータを拾ってみました


  • 栽培面積:2005年の57千ヘクタールから2011年には90千ヘクタールへ
  • 2018年には110千ヘクタールの栽培面積となる見込み
  • 直接雇用は17,000人、間接雇用は40,000人
  • パーム原油の生産量は17万トン。内30%が国内消費、残りはメキシコや中米諸国などへ輸出


一方で土地がないと言っている農民がいるのに、
アブラヤシの農場はものすごい勢いで増えているのか・・・。


次回からはそのサヤスチェのアブラヤシ農場の話になる予定です。


[ 2012/10/15 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

アブラヤシ 

ペテン県はグアテマラの北部、ユカタン半島の根っこに位置し、
ティカルを始めとしたジャングルの中のマヤ遺跡が多数点在する場所です。


グアテマラの国土の内さっくり1/3がペテン県。
とは言え、ペテン県のあちこちに行ったことのある人は少なくて、
フローレスやティカル遺跡に行ったことがあればいい方。
ペテン県未踏というグアテマラ人は珍しくないです。


私的にはペテン=ジャングルというイメージだったのですが、
なんでも近年、ペテン県南部(サヤスチェ、ラ・リベルタなど)は
広大なアブラヤシ畑が続く大規模プランテーションへと変貌してしまったのだとか。


それはかなりびっくり!
と言うわけでアブラヤシやそれに関わる話をちょいと調べてみました。


まずはアブラヤシそのものについて。


アブラヤシは熱帯地域原産の植物です。
西アフリカ原産のギニアアブラヤシ(Elaeis guineensis)と
熱帯アメリカ原産のアメリカアブラヤシ(Elaeis Oleifera)の2種類がありますが、
現在油を採取するために一般に栽培されているのはギニアアブラヤシ。
グアテマラでは一般的にPalma africana(アフリカ椰子)と呼ばれている植物です。


このギニアアブラヤシを中米に導入したのは
かの有名なユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFC)なのだそうです。


20世紀初頭、中米各国ではUFCなどがバナナのプランテーションを経営していましたが
パナマ病と呼ばれる病気により大きな被害を受けたことから、
バナナに代わる作物として、
当時マレーシアやインドネシアで栽培されていたアブラヤシを導入したのが起源。
UFCがこのアブラヤシをパナマに導入したのが1926年、
スタンダード・フルーツ・カンパニーは1944年にコスタリカで栽培を開始しています。


その後ラテンアメリカ各地で栽培されるようになったそうですが、
アブラヤシから取れる油脂の生産量では
現在もインドネシアとマレーシアの二カ国が全体の80%程を占めているのだとか。
アブラヤシは果肉からパーム油、種子からパーム核油が取れるので
栽培面積当たりの生産高は植物油の中でも最も高く、
植物油の中で一番生産量が大きいのもパーム油なのだそうです。


パーム油は食用油、加工食品用、洗剤、石鹸、バイオディーゼルなどとして利用が可能なので
需要もどんどん伸びており、それにつれて国際価格も上昇。


パーム油価格の推移(2007年1月~2012年8月) - 世界経済のネタ帳

既に安価な油ではなくなってきているのかもですが・・・。


加えて、今年は大豆の国際価格が上昇しているので、
大豆油の代わりにパーム油という話もあるらしい。
「日本のパーム油輸入、過去最高の水準も-大豆相場の高騰で代替需要」(Bloomberg、2012年5月23日)


そんないいことずくめのようなパーム油ですが、もちろん問題もあり。
以前ポロチクのサトウキビ農場の話を書いた時に
エル・エストールのアブラヤシ農場がどんどん土地を入手しているという話にも触れたと思うのですが、
アブラヤシは果実の中に油を分解するリパーゼという酵素を含んでいるため、
収穫後24時間以内に加熱して、この酵素を不活性化する必要があり、
そのため採油工場は農場の近くに建設する必要があるのだそうです。
そうなってくると、小さな農場では効率が悪い。
というわけで、大規模農場でのアブラヤシのプランテーションが展開されることになり、
つまりは森林伐採、地元の農民からの土地の買い上げに係るトラブルが出てきます。


これはこのアブラヤシ農場に限ったわけではなく、
サトウキビ農場でもそうでしたし、
もっと言えば、グアテマラに限った話でもないのでしょうが。


パーム油については、NPO法人 アジア太平洋資料センターさんの
「PARCビデオ・DVD『パームオイル 近くて遠い油のはなし』資料集」

に丁寧にまとめられていますので、ご関心のある方はご一読ください。


<参考資料>



[ 2012/10/14 06:40 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

トトニカパンの事件と民族の日 

10月4日にトトニカパン県の交通の要衝である
クアトロ・カミーノス付近で抗議の道路封鎖が行われると言うニュースが流れたのは
前日の10月3日のことでした。


何でもトトニカパンの48共同体の住民らが
憲法改正反対、
教員養成課程の改正反対、
電気代が高すぎる、
という3点について抗議するという趣旨の道路封鎖なんだそうで、
あれ、今度は土地要求じゃないのか、
それにしてもいやに政治的な要求・・・と思ったのを覚えています。


当日の4日は通告通り朝の5時頃から道路封鎖が行われました。
クアトロ・カミーノスには約500人、
そこからさほど遠くないアラスカ峠には3000人以上の住民が集まり、
車一台通さなかったものですから、
ついには15kmばかり車の列ができたと報道されています。


現場はパンアメリカンハイウェイの真っ只中。
グアテマラシティから西へ向って3時間ちょい、
ケツァルテナンゴへ向う途中にある峠道で、
もちろん普段から交通の多い場所です。


今年は大規模な道路封鎖はまだ行われていなかったと思うのですが、
就任以前から「道路封鎖には断固とした措置を取る」と言っていたオットー・ペレス大統領、
警官隊(日本の機動隊みたいな部隊)を派遣して集団を解散させようと試みます。
未だに事実関係をきちんと把握できていない私ですが、
軍隊は警官隊の後から派遣された・・・と理解しています。


催涙弾やトウガラシスプレーなどで群集を解散させようとした警官隊でしたが
住民らは一歩もひかず、逆に過激になっていった模様。
何がきっかけだったのかは未だに明らかになっていませんが、
軍人数名が持っていた小銃を発砲、死者8名と負傷者30数名を出す結果となりました。
更には兵士らを乗せてきたトラック等が破壊されるなどの物的被害もあり。


派遣された警官・兵士が何人だったのかは知りませんが
その場にいて発砲したらしい兵士は
「人々がやって来るのが見えた。
 上官の指示を待っていたが、既に上官はいなくなっていた。
 隊長がいなくなったので、自分達の身を守るために発砲した」
と言っています。


住民側は
「兵士を乗せたトラックがやって来るのを見た。
 兵士らはカービン銃や催涙弾で武装していた。
 私達は棒と石を持っているだけだった。
 私達は自分達の権利を守るために対話しようとしていただけだ」。
(10 月11日 Prensa Libre)


どっちもどっちだよな・・・。


石や棒はれっきとした武器。
大体、「話がしたいだけ」なら主要街道をふさぐのは理屈に合わないし、
道路封鎖をすると救急車すら通してもらえない。
それでいて「平和的抗議」とか言うのか・・・。


他方、一般市民相手に発砲しちゃう兵隊を擁する軍隊ってのも情けなさすぎる。
内戦時代の恐るべきグアテマラ軍のイメージがガラガラと崩壊してしてまったよ・・・。


もっとも、グアテマラは一群衆がある日突然犯罪者と目される人物を捕らえて
処刑してしまうというリンチ事件が多々ありますから、
その場にいた人の恐怖は想像できないわけではないです。


痛ましい事件の後、軍や政府への非難が集中したのにも私は若干違和感を感じます。
無論発砲は非難されるべきだし、裁かれるべきなのは事実で
10日、当時の司令官であった大佐を始めとして9人が逮捕されており、
刑事裁判が行われることになる見通しです。


違和感というのは、
例えばノーベル平和賞のリゴベルタ・メンチュさんとか、
事件の後「事実解明を」と乗り出してきた人たちのこと。
メンチュさんほどの人なら、普段から政府と先住民との間を繋ぐ役とかしてほしい・・・
と私は思うのですが、
そういう方面にはあまり興味ないらしく
(まあなんと言っても内戦に係ったと見なされる軍人が大統領ですからね)
こういうシチュエーションになると途端にしゃしゃり出てくる感が。


もちろんおっしゃることはごもっとも、100%正しいのですが
大統領選挙に候補として出るくらいの人なのだから、
敵失を利用して出てくるだけじゃだめでしょ・・・。


加えて、道路封鎖で憲法で保障されている「通行の自由」を侵害する側は無罪放免なのかとか、
救急車の通行を認めないのは人道に反するんじゃないのかとか、
リンチ事件なんかで加害側が裁かれることがないのはそれでいいのかとか、
「軍」を非難するのには止まるところのないリゴベルタさんが
同胞の過ちに目を塞ぐのは、「差別」なのではないかしら。


それとも、同胞のやることはすべて正義だと考えているのかもしれないし、
同胞の状況があまりに悲惨なので、あえて目を瞑らざるをえないのかもしれない。


まあリゴベルタさんが何をしようと実際のところはどうでもいいのですが、
先住民と非先住民の間の溝が段々深くなっているように感じるのは気になります。
先住民が自ら「弱者」であることを利用して世論、
特に国際世論に訴えるのは効果的と思うのですが、
一方で「悪役」にされてしまう非先住民は心理的に反発するわけで、
こういう出来事がある度にその溝は更に深くなっていくことに
軽く絶望・・・。


そんなことを考えるともなく考えてしまう10月12日は民族の日。
コロンブスが新大陸に到達した日です。
あの日から520年。
先住民にも非先住民にも、時だけは公平に流れたのですよね。


[ 2012/10/12 21:00 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

DPI その5 

野外Renapで証明書を発行して貰えなかった私は
「本部かパルケ・デ・インドゥストリアに行って」と言われたので
もう何度も行っている上に、いつもiPhone発売日のiShopのような本部に行くのはやめて
その日の内にパルケ・デ・インドゥストリアに行ってみることにしました。


我が家からそんなに遠くないし、大体の場所はわかっているんだけれど
はて、どこを曲がるんだっけ・・・と思っている内に曲がるところを間違えて
ぐるりと一周する羽目に。


いえなに、最近この付近、両側通行だったのが一方通行になったりしていて
普段通り慣れないものだから、つい間違えてしまったのですよ。おほほ。


そうしてやっと辿り着いたRenapのインドゥストリア出張所。
駐車場は無料かと思っていたらしっかりQ20も取られましたが・・・。


12. Renapパルケ・デ・インドゥストリア出張所に辿り着く。
ここはかなり規模が大きい上に、朝6時から夜の0時まで開いているので
ひょっとして結構な人がいるかも?と思っていたのですが
まだそれほど知られていないのか、それとも単に日曜日の午後なんて誰も来ないのか、
列もなくて、野外Renapよりも空いているくらい。


私は既に証明書を発行してもらうために手数料まで払っていたので、
最初の方は通り過ぎて証明書発行デスクへ。
あっちであーだーこーだ言われたので、大丈夫かなぁ・・・と思っていたのですが
何のことはなく、あっさり発行してもらえました。
例の「反対になる」って、一体何のことだったんだろう・・・。謎過ぎる。


さて、やっとデータがちゃんと入った証明書をゲットしたので
とりあえず間違いがないかどうかをもう一度確認。


備考欄に「規定に基づき生年月日、〇〇〇〇、〇〇〇〇を追記した」と書かれていたのですが、
追記の日付が9月7日になっているのを発見。


9月7日に行った時にできていなかったのは理解できるけれど、
8日に行った時に「まだ」って言われたのはつまり、
書類はできていたけれど、キャビネに入れてもらってなかったってことかい?
ま、今さらいいけれどさ・・・。


さて、次のデスクはいよいよDPIの手続きなのですが、
その最後の上がりデスクの前にコピー機が1台あったりします。
そう、証明書とかコピー取らないといけないので、
ちゃんとコピー屋さんまで配備されているという至れり尽くせり。
有料だけれど、一旦どこかへ行って取って来いと言われるよりは全然いいです。


そして最後のDPIの手続き。
データを確認して、十指の指紋をスキャンして、
サインを登録して、写真を取って、
最後にもう一度データを確認するとやーーーーっと終了。


いや、その場でDPIもらえるわけじゃないからまだ終了とは言わないのかもしれないけれど・・・。


最後だけはえっ?と思うくらい順調に進んでちょっと拍子抜けしたくらい。
順番待ちしたのはコピー取るところだけだったしね。


こうしてDPI申請手続きはやっと終わったわけですが、
交付されるまでには大体一ヵ月半かかるという話。


発行手続きがちゃんと進んでいるのかどうかはRenapのウェブサイトで確認できるようになっていまして
それによると
1. 生体認証データのチェック 3日間
2. 個人データのチェック 12日間
3. 印刷 4日間
4. 品質管理 6日間
5. 配送 12日間
6. 交付 30日間
なんだそうです。


9月30日に申請した私のDPIは現在「印刷」の段階。
まあ順調と言えるのかな。


順調ならあと1ヶ月後くらいにはDPIをゲットしている予定。
でも、一旦申請をした人が、結局DPI貰えずに
「本部まで来てくれ」と言われたケースも聞いたので
最後まで油断は禁物っぽいんだけれど・・・・・・。


無事に手続き済んでくれよ~~~。


[ 2012/10/10 21:55 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

DPI その4 

やっとのことで相手の言う言葉を信じても仕方ないということを学習した私は
今度は一週間経ってから行くことに決定!
9月17日の月曜日には時間もあったので突撃してみました。


10. 五度目のRenap本部14番オフィス。
この日、グアテマラの世間は平日。
平日なのでそれなりに人はいるんだろうな~と覚悟はしていましたが。


1階にはものすごい長蛇の列が並んでおりまして、
そこだけ見ればまるでiShopで新型iPhoneをゲットしようと夜を徹して並ぶ客の列のような雰囲気。
ちょっと違うのは皆手には書類やらフォルダーやらを握り締めていることですかね・・・。


さて私は1階じゃなくて2階に向ったわけですが、階段上ってびっくり。
何とここもやっぱりiShopかよと思うような長蛇の列が・・・!


前にも書いたように、ここには3つのオフィスがあるのですが、
どのオフィスも長い列。
どうやら手続きに時間がかかるっぽい13番オフィスには前に椅子が並んでいるのですが、
14番オフィスからは立って待ってる列がずら~り。
仕方なく最後尾について並んだのですが・・・、オフィスの入り口まで7mほどですかねぇ。


何でも1時間以上前からシステムダウンしてるんだそうです。
そうか、最前列の人は1時間以上ああやって待っているのか・・・。お疲れ様。
ま、多分そろそろ復旧するんでしょ、しないでどうするのよ、折角来たのに!!!
てか、私はキャビネに入っているはずの書類が欲しいだけなのであって、
システムダウンは関係ないと思うんだけれどなぁ・・・。


ものすごい余談ですが、Renapのシステムを担当しているのは
IBMの代理店でもあったGBMという会社なのですが、
ここは以前ポロチクの話の時にポロリと出てきたアブラヤシ農場経営ファミリーのものだったりします。
この前来た時も短時間とは言え落ちたりしてたし、
やたらとRenap出張所を開けるのはいいけれど、システムも強化してくれ~。


列についてしばらく眺めていると、列についている人と話をして
書類を渡したりしている人がいるのを発見。
どうやら、とりあえず相談に来た人とか、フォームが必要な人とか、
あるいは私みたいに書類を取りに来た人とか、その辺の応対をしているみたいです。
臨機応変と言えば言えるけれど、システムダウンが頻繁にあるっぽい。


そしてやっと私のところまで来てくれたので、引換証を渡して待つことしばし。
その間にもその担当者、あちらやこちらの人にとっつかまっていました。
いやほら、質問したかったらまず列につきましょうよ!!!


待つこと更にしばし。
そして今度こそ本当に書類が返って来たのでありました。
曰く、「〇〇と〇〇と〇〇について追記を行いました」。


はー、これだけのために5回もここに来たのか・・・。


本来ならここでもう一度定住外国人証明書を取らないといけないのですが、
システムダウンしてるってことは発行してもらえないわけで、
ま、それならここじゃなくてもどこでも取れるからいいや~!


と言うわけで引き上げたのでありました。
やれやれ。


11. 再び野外Renapに行ってみた。
本当は9月23日(日)に行こうと思っていたのですが、
14番オフィスでやっと追記完了のお知らせをもらって気が緩んだのか
すっかり忘れていました。


そんなわけで9月30日(日)に、また家の近くの野外Renapへ。
ここでDPIの申請までできるはず・・・!と思ったのですが。


まずは前回と同じように、定住外国人証明書を発行してもらうためのデータチェックと書類発行。
前回はここで「データが足りてない」と言われたわけですが、
今回は無事通過しまして、内心ガッツポーズをしたのは言う間でもありません。


そして再び銀行カーで手数料を支払い、さて証明書。


ところが。


「帰化外国人の証明書は印刷すると反対になってしまうから、できない。
 もう本部にもレポートしたけれど、まだ直らないんだ」
と一気にまくし立てられて目がテン。


大体私は帰化したわけではなくて定住外国人なだけだし、
前回データの足りない証明書を印刷してもらった時は反対になってなかったよ・・・。


とりあえず
「でも前にもここで出してもらったんだけれど」とささやかに主張してみましたが
「いや、できない。印刷したらあなたもQ200損することになるし」
と言われてナルホド。
多分前にどこぞの帰化外国人の証明書を発行したらそういうことになっていて
訳のわからんガイジンにガンガンまくし立てられて、
きっとトラウマしているのでありましょう。かわいそうに。


とちょっと寛大な気持ちになった私は、
その何が反対なのかわからないけれど反対になるという証明書を見てみたいという気はしたものの
やっぱりQ200が惜しかったので、その場はそれで退散したのでありました。


しっかし、最後までトラブってくれるよねぇ~、このDPI。
相性悪そうだな・・・と思いつつ、まだ続くのでありました。


[ 2012/10/08 23:33 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

DPI その3 

Renapに最初の手続きに行ったのが8月19日(日)のことでした。
そこで明らかに杜撰な定住外国人証明書を貰って頭がクラクラしたため、
パスポートのコピーとか取って書類一式揃えて持っていったのは8月25日(土)。


それにしても、Renapでもらってきたフォームがはっきり言ってわかりにくい。
てか、公証人(グアテマラの場合は弁護士が公証人兼なわけだけれど)が
書き込むことを前提としているような書式。
それもリーガルサイズの用紙の裏表両面ですよ。


このフォームって定住外国人用だよね?
こんなもんをガイジンに書かせるのかよ・・・。


どこに何を書き込みなさいという指示は一切なくて
「私、〇〇〇〇は以下の理由により登録データの追記を申請します」
なんて感じで始まる穴埋め文章問題的なフォーム。
ちゃんと正解書かないともう一度やり直し!!!って言われそうだしさ。


そんなわけで一生懸命準備して、今度こそ!と出かけて行ったわけであります。


7. ふたたびRenap本部の14番オフィスへ。
今回は土曜日なせいか、以前よりも人が多い。
1階の申請窓口は長蛇の列で、いつもの通り道路まで溢れている状態。


2階の方も前回は人気がなかったのに、今回は椅子に座って待っている人たちもいたりして
結構な賑わいです。
もっとも14番オフィスの方は列も短く、数分並んで中に入ることができました。


更に待つことしばし。
順番が来たのでフォルダーごと提出。
さらさらさらと見てチェックした後、「ここに何を追記するのか書いて」。


あ。
あんだけ一生懸命書いたのにまだ足りてなかったのか・・・。


フォームには「以下の追記を申請します」とか書かれていて
その後アンダーラインが何本か引かれているところがあったのですが、
はて???ここは何をどうするの?
てのが良くわからなくてそのまま空欄で持っていったんですよね・・・。


そこは例えば生年月日の訂正なら
「生年月日:2012年1月1日」みたいに書き込まないといけないんだとか。
ま、そういうのをさらさらさらとその場で書き込んでOK!
で引換証を貰うことになるのですが、
「システム落ちて引換証出せないからもうちょっと待ってて」。


あ、そ。。。


ま、書類さえ受け取ってもらえればこっちのものだからいいやー。


幸い数分後にシステムが復旧した模様で、引換証をありがたく頂いて本日の手続きは終了。


9月7日にはできているので再度来るようにとのことで
データ追記するのに2週間はかかりすぎな気がする、
てかその場で直したらすぐ終わるじゃん!!!
と思わないでもないんだけれど、添付書類を確認して、
間違いのないように訂正するためには必要なのかなぁ・・・、などと思いつつ帰宅。


8. 三度Renap本部の14番オフィスなり。
引換証には「9月7日の8:00~16:00に取りに来るように」と書いてあったので
いそいそと出かけたのが9月7日(金)の朝8時20分頃。
仕事前にちょいと立ち寄りです。


2階はほとんど誰もいなくて、14番オフィスには別の人が先にいた程度だったかな。
すぐ私の番となって引換証を手渡します。


担当の人は後ろのキャビネをゴソゴソゴソゴソと探した後戻ってくると
「まだできてないです。
 多分、今日中にできるんだと思うから午後か明日にでも出直して」。


おいっ!!!


9月7日に来いって書いてあるから、時間を作って来たんじゃん。
しかも駐車料払ってるんだぜっ!!!


と言いたいのをこらえてニッコリ。
「あ、じゃあ明日来ます」。


ちくしょー。


9. 四度Renap本部14番オフィスだよ。
9月8日(土)、早めの時間に出かけて再び順番待ち。
数分待ちで順番に辿り着き引換証を渡します。


後ろのキャビネでゴソゴソゴソゴソしてきた担当者、
「少し時間がかかっているみたい。 来週の火曜日に来て」
とアタリマエのようにのたまわれるではありませんか。


さすがに今回はニッコリできなかった私、
「火曜日って言うけれど、火曜日に本当に出来ているの?」と詰問。
すると担当者は引換証の余白に電話番号を書いて
「ここに電話して、できているかどうか確認して下さい」。


ま、これ以上担当者いじめても仕方ないか・・・。
「わかりました、ありがとう」と帰宅したのでありました。


それにしても。


期日通りにできないのなら、引換証に期日入れるのやめろよ!


そりゃキャビネにぎっしりの書類の山とか
オフィスにやって来る人の列を眺めれば
件数が非常に多いんだろうってことはわかるけれど、
単純な追記程度にこんだけかかっていたら、いつまで経っても終わらないんじゃ・・・
と他人事ながら心配になってしまうじゃないですか!


そんなわけで、まだ続くのであります。
いつになったら手続き終わるの~~~。


[ 2012/10/05 23:11 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

DPI その2 

DPIの申請をするためにまずは下準備。
Renapのサイトによれば、必要なものはセドゥラ(オリジナルとコピー)と
出生証明書(外国人の場合は定住証明書)と
ボレト・デ・オルナート。


ボレト・デ・オルナートというのは市税の一種で、
各自治体の美化・緑化のために徴収されるもの。
成人は支払い義務があるらしいのですが、
会社員や公務員なら給料から源泉されるものの、
それ以外の人は払わなかったりすることがあるので、
グアテマラではいろんな手続きの際に提示が求められるという、不可思議なシロモノ。


この税金は一応収入に応じて金額が変わるのですが、
源泉される人以外は自己申告。
税額は最低Q4から最高Q150まで7種類あって、
3月31日の支払期限を一日でも過ぎると、100%の過料がかかってしまうという
恐ろしいシロモノでもあります。
なので一度支払ったらちゃんと領収書をキープしておいて
免許の更新やらパスポートの申請やらが必要になったら取り出してくることになるのであります。
めんどくさー。


さて、セドゥラからDPIへの切り替え、本当は去年一杯で実施する予定になっていました。
しかしRenapに移行されたデータがあまりにもデタラメだったり、
何やら準備不足だったり何だりで、期限が1年延期され、
2012年末までに実施することとなったのですが、
土壇場の駆け込み手続きが大好きなグアテマラ人のこと、
今年の6月辺りまではまだまだ切り替えしていない(あるいはできない)人の方が多い状態。


後半になって申請人やらデータの訂正を求める人が増えてくるのを捌くため
あちらこちらにRenap出張所が開設されているのですが、
我が家の近くにも毎週日曜日になると野外Renapがオープンするのでそちらへ行ってきました。

野外Renap



何か不思議な着ぐるみもいて、雰囲気はお祭り。


1. まずは定住外国人証明書を発行してもらうための手続き。
セドゥラを見せて自分のデータをチェックしてもらい、証明書の発行となるのですが・・・。
いきなりここで躓いた。


パソコンでデータをチェックしていたお兄さん、何やら難しい顔をして言うには
「市役所からデータが移された時に、生年月日などのデータが抜け落ちてしまったので、
 今日はここで証明書を発行するけれど、
 それをRenapの本部へ持って行って、足りないデータを追記してもらってきて下さい」。


な、なにぃ~~~!!!


なんでそんな基本的なデータが抜けてるかな・・・。
私のデータの入力をやったヤツが手抜き仕事をしたとしか思えない。


しかも。グアテマラ人の出生証明書はQ15なのに
外国人の定住証明書はQ200と10倍以上もするんですよ!!!
同じ用紙を使うくせに。
同じプリンターを使って印刷する癖に。
粗利何%だよ、それってアコギすぎるでしょ、と内心叫びながら
手数料を支払うための用紙を貰って次へ進む。


2. それから手数料を支払う。
セドゥラからDPIへの切り替えは無料となっていますが
証明書の発行のためには手数料が必要。


野外Renapにもれなくついている移動銀行(ライトバン)で手数料支払い。
炎天下だと車の中はサウナだし、
使ってるパソコンにとっても苛酷な環境だと思うんですけどね・・・、
お疲れさまと思いながらも悔しいQ200を支払って次へ進む。


3. やっと証明書を発行してもらう。
支払った領収書を持って証明書を発行してもらいます。
発行してもらった証明書を見ると、ナルホド確かに私の名前はあるけれど
生年月日その他のデータが未記入。なんで???


とりあえずそこでできたのはそこまでだったので
Q200もする貴重な証明書を頂くと、その足でRenap本部へと向ったのでありました。


4. 本部に到着。
Renap本部というのは9区にあるのですが、
昔はホテルだった建物の1階と2階が現在はRenapになっていて
それより上の階はアパートになっています。
実は私、小僧が生まれて間もない頃、ここのアパートに住んでたことがありまして
ちょっとノスタルジーを感じる場所でもあったりします(笑)


私が住んでた頃はちょいとさびれたホテルだったのですが、
現在はいつ行っても長蛇の列が出来ているRenap本部となりまして
いやはや何とも隔世の感。


などと感傷に浸っている暇はないんだってば!!!


さて、本部についたはいいものの、どこに行ったらいいのかわからないので
とりあえずそこら辺の警備のおじさんにインタビュー。
「追記に来たんだけれど、どこへ行ったらいいの?」
「あ、それはあそこの階段を上って2階だよ」


というわけで2階へ。


5. Renapの2階に到着。
ここの2階ってもともとはお店とかが入っていたんですよね。
そこに窓口と呼ぶべきなんだろうけれど店舗兼オフィスみたいなものが3つ並んでいまして、
はて、私はどこへ行ったらいいのだろう?


とりあえず一番手近のオフィスに入って質問です。
「あのー、追記に来ました!」


ここにいたのは暇そうなお兄さんでした。
とりあえず持ってきた書類をさらさらさらと眺めると
「ここじゃなくて、あっちのオフィスに行ってね」。
「(だったら別に書類チェックしなくてもいいじゃんと思いつつ)ありがとー」


どうやら間違ったオフィスに飛び込んでしまったようです。
確か14番という番号のオフィスだったかな。
今度はそっちに行ってみます。


6. 14番オフィスにたどり着く。
こちらは入り口に警備の人がいて、中にも3人ばかり先客がいました。
警備員が「中に入ってそこに座って」というのでとりあえず座って待ちます。
カウンターの中にはRenapの担当の人がいて、男性と何やら話をしていました。


待つこと数分、私の番。
「追記に来ましたー」
ここの担当は女性。証明書を見ると、一枚の紙を渡してくれました。
「これに記入して。これとこれとこれも添付してね」
「え、パスポートのコピーもいるの?セドゥラあるのに何で?」
「とりあえずパスポート必要なのよ」
「コピーは全ページ分必要?」
「(ちょっと考えて)ハンコのあるページだけでいいわ」
「(内心ちぇっと思いつつ)わかりました、あらためて持ってきます」
「書類全部フォルダーに綴じて持ってきて」
「(内心ちょっとむかつきつつ)わかりました、ありがとう」


というわけで、勇ましく始めたDPIの手続きは、初日から意気消沈する結果になったのでありました。
いやはやこんなところでトラブルとは。


こうしてまだ続きます。DPI取得の道。


[ 2012/10/03 23:53 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

DPI その1 

グアテマラでは18歳で成年に達すると身分証明書を取得しないといけないのですが、
このセドゥラ、数年前までは市役所で手続きをすることになっていて
市によってはこれが未だに手書きだったりすることもあって偽造も簡単!!!


・・・という代物でした。


このセドゥラに選挙人登録の手続きもするので
死んだはずの人のセドゥラを使って投票するとかいった選挙違反も横行。


トラブルが多い代物だったので、住民登録の手続きそのものを市役所じゃなくて
住民登録所というものを新設して一括でやることにし、
セドゥラに代わるカード式の身分証明書を導入する!と決まったのは・・・、
え~と、かれこれ5年くらい前でしたかねぇ?


4年くらい前だったかにRenap(レナップ)という名前の住民登録所が開設したのは良かったのですが
市役所のデータをRenapのデータベースに超特急で移行した上、
市役所の読みにくい手書きの文字を起こしたケースもあったことから
Renapで発行される出生証明書には間違いが続出。


その間違いが間違いであることを証明できないと訂正してもらえないわけですが
例えば名前の綴りが一文字間違っているとか、
親の名前が間違っているとか、
結婚したのに独身になっているとか、
そんなんセドゥラ見ればわかるじゃん!と思うのですが、
この場合セドゥラは証明書として使えない(いかに偽造が多かったかってこと・・・?)ので
別の証明書を用意しないといけないのであります。


超面倒。


そして今年一杯で、そのセドゥラから新規のカード式身分証明書(DPI)への切り替えを行うことになっています。
DPIはデーペーイーと読むのですが、
正式にはDocumento Personal de Identificaciónという代物です。
訳せば身分証明書。味も素っ気もない名前。


私のように永住ビザを持っている外国人は
「定住外国人」としてセドゥラを持っているのですが
やっぱりDPIに切り替えないといけなかったりします。


げ~~~!!!


どっちみち今年はビザの更新もしないといけなかったし
ビザの更新してからDPIやろっかなーあーでもめんどー、と思いつつ
重い腰を上げてビザの更新をしたのが7月。
ついでに移民局で発行している「定住外国人証明書」というのものを念のために申請して
それを頂けたのが8月半ば。


それから苦難のDPI申請手続きが始まったのでありました。
続きはまた今度。



[ 2012/10/01 23:49 ] できごととか | TB(0) | CM(0)