弱者の状況-ポロチク地方のこと 

長々と書き連ねてきたポロチクの話、
もうそろそろ一旦終わりになります。


今回はアルベルト・アルセという記者が書いている記事。
アルセは以前ここにアップしたコスタスールのサトウキビ農場の記事を書いた人でもあり、
ポロチクについても度々訪れて記事を書いています。
現在はホンジュラスにいるので、
グアテマラの国内問題について書くことは少なくともしばらくはないのでしょうが。


この記事は元々はプラサ・プーブリカに掲載されたか、
あるいは掲載するために書かれたものと思われるのですが、
少なくとも私はプラサ・プーブリカの方でこの記事を見つけることができませんでした。
2011年9月16日の日付のあるこのブログのタイトルは
Wendy en Guatemala, el país de nunca jamás.
(グアテマラというネバーランドのウェンディ)


記事後半に出てきますが、ネバーランドはピーター・パンの住む、
子供達が永遠に子供のままでいるところ。
ウェンディはピーター・パンに登場する人物でもあり、
重度の栄養失調で大きくなることのできない女の子のことでもある、
印象的なタイトルです。




ウェンディはケクチ族の女の子だ。年齢は2歳半で体重は6キロ。片方の目は既に視力を失ってしまった。このまま成長できたとしても、もう片方の目の視力も失うのみならず、重大な精神遅滞を伴うと見られている。深刻な栄養失調の症状である。ウェンディの飢餓は架空のものではない。グアテマラでは他にも多くの子供達が同じ飢餓に苦しんでいる。そこには顔があり、原因があり、解決がある。状況があり責任がある。歴史さえ存在している。


ウェンディの家族はアルタ・ベラパス県のポロチク地方でトウモロコシを栽培していたが、今年3月から5月にかけて行われた立ち退き命令で追い払われた800家族の1つである。インヘニオ・チャビル・ウツァフの警備員、警察、軍は、農民らが占拠していた土地から物理的に追い出すだけでは満足せず、生育中であったトウモロコシを焼き払った。一家はトウモロコシ栽培のために借金を重ねていた。そのトウモロコシがあれば、ウェンディのような栄養失調は防げたかもしれない。プラサ・プーブリカはポロチクでの出来事については以前から報道を続けてきた。


ウェンディが被害者であった立ち退き命令の執行から現在に至るまで、パラミリタリーによる暴力行為で農民3人が亡くなり、何人もが負傷している。6月20日には米州人権委員会(CIDH)が、立ち退かされたケクチ族800家族に対して食糧、保健、身体の安全を保証するようにという勧告を出している。この勧告は7月5日までに農民らの身体的安全、健康、食糧、住居を保証するようにという内容のものであった。


記者は、立ち退かされた800家族の代表として農民統一委員会(CUC)が行った総会、大統領府人権委員会(COPREDEH)との会合に立会い、パラナ農場を現在「半分占拠」している共同体の人達と一緒に一夜を過ごし、最低限必要な事実関係を把握した。このレポートは、グアテマラを襲う子供達の栄養失調の最悪の結末を反映する、ささやかな物語である。


何百人もの先住民の抗議に対する植民地時代や共和国時代の何百人ものエリート層のリアクションは、「まったく普通」「通常通り」であった。この定義はポロチクの土地紛争について研究を行っているグレッグ・グランディンが使っているものである。1871年、民主革命の後、政府は何世紀も以前からケクチ族が住んでいた土地を初めて登記した。その時から現在に至るまで、先住民は父祖の時代から彼らに属してきた土地で自分達の作物を育てる権利を要求して戦い、戦いの中で死ぬことを厭わなかった。現在のこの状況は、過去何世紀にもわたってその土地に起こってきた紛争が繰り返されているに過ぎない。ウェンディの飢餓は土地の分配システムが失敗したということの明らかな証明に過ぎない。


恐怖に彩られた総会


9月1日木曜日。山の斜面でケクチ族の農民男女25人による総会が行われた。屋外のため、むっとする暑さから逃れるために日陰で行われたが、始終マントをはらって蝿を追い払いながらの会合であった。この25人は立ち退き命令により住居を失った800家族の代表で、数年前から占拠し続けている農場で戦略を練っていた。彼らはママ・マキンの名の下に集まっていた。農婦であったママ・マキンは土地の権利を求めて活動し、1978年に軍隊によって殺された。この農場はその場所から数キロのところにある。パンソスの虐殺事件である。


その会合の大部分は、ここまで来るために必要だった、彼ら自身には負担することが不可能な交通費の精算と、政府へのリストの提供の可否に費やされた。政府は農民らの必要を図るために、インヘニオ・チャビル・ウツァフの地所から立ち退かされた人々の名前と所在地のリスト要求していた。農民らは恐怖に囚われていた。「どうして立ち退きの前にそのリストを作らなかったんだ?」「どうして立ち退きの前に食べ物や家や健康のことを聞いてくれなかったんだ?どうして行き場のない動物のように私達を追い払ったんだ?」「今更どうして彼らの言うことを信じられるんだ?」何度も繰り返された質問である。


何ヶ月も前から受けてきた嫌がらせの数々を何時間にもわたって言い合った。農民らの一番の要求は、ポロチク地方に長年にわたって恐怖を植え付けてきたパラミリタリー組織の解体だということに拘っていた。この組織は、企業や警察が行動を起こさないことに不満を持つ人々が組織したものだと言われているが、この組織の暴力行為による結果は明らかである。土地を要求するための闘争に参加し続けようとする者は段々減少しており、証言のリストは長く続く。


ケクチ語とスペイン語の通訳であるE.H.はこの会合を呼びかけた人物で、パンソスの家にも尋ねて来る者がいるという。「ウィドマンはリーダー全員の写真を撮っています。その後、インヘニオの警備員が3度私の家にやって来ました。彼らが来ると私は隠れて、妻と娘が応対します。彼らは仕事があると言ってくるのですが、いつも最後には私の身の安全を守るためにはグループから抜けて、インヘニオのために仕事をするのが一番だと言い残していきます。そうしないと、私の身の上に何か起こるかもしれないと」。


脅迫されたのは彼一人ではない。8月24日、J.B.はエル・エストールから共同体にトラックで帰る途中、警官から降りるよう言われた。他の乗客全員の前でトラックから降りると、12人の警官に取り囲まれ、特に何の理由もないまま所持品検査や嫌がらせを受けた。警官らは「農場に問題を起こし続けると、困ったことになるぞ」と彼に警告した。ミラルバイエのV.C.は何度も嫌がらせを受けている。やり方はいつも同じだ。「バイクが近づいてきて、『ピストルを持っていたらこれ以上旦那様を困らせることのないようにこいつを撃ってやるんだが』と言うのです」。リオ・フリオのM.C.は立ち退き執行の後住んでいる家の後ろの方から銃で脅されたり奇声を浴びせられたりしている。


占拠している農場でのCOPREDEHとの夜の会合


総会の翌日の9月2日、ラ・ティンタで大統領府人権委員会(COPREDEH)と農民の間で、米州人権委員会(CIDH)の保護措置を取るようにという勧告に関する2度目の会合が行われた。農民側はビデオやカメラに撮影されることを恐れるあまり、ちぐはぐなものになってしまった。政府が用意したケクチ語の通訳は内容を省略したりするなど悲惨なもので、農民らの意気を更に消沈させる結果となった。


農民達の恐怖を実際に理解し、政府機関との関係を把握するために、ラ・ティンタからパンソスのパラナ農場の集会所まで数時間かけて同行し、一夜を共にした。その光景は最新のセンセーショナルな恐怖映画のようであった。真っ暗闇の中で稲光が数秒間あたりを照らし、闇の中を幾人もの影が動き、私達についてきた。真っ暗闇の中で長さ5メートル、幅3メートルばかりの金属板2枚と何本もの支柱ででき上がった家に辿り着いた。


パラナ農場には92家族が住んでいた。3月の立ち退き執行の後、22家族が残った。10カバエリーアにわたって広がる焼き払われたトウモロコシの残骸と道路の間で生活している。小さな火の灯りで最初に目にしたのは、銃弾によって開いたたくさんの穴であった。8月10日、インヘニオ・チャビル・ウツァフの警備員約30人を乗せたピックアップ・トラック3台が夜中に彼らを襲い、3人を負傷させた。その中には女性1人と子供1人が含まれている。その日以降、女性や子供は別の場所で眠り、男性が夜警をしている。


彼らはその襲撃の話を何度も繰り返した。到着してから2時間で、その時の出来事に関する疑問は全て解消した。夜の闇を音で覆いつくす6発の銃声が2度聞こえた。恐怖で逃げ惑う人達や、襲撃に備えて配置につく人達がいた。もし実際に起こっていたら死者が出ただろう。その点については何の疑問もない。柵の両側にいるどちらもが武装していた。こちら側もあちら側もである。1時間以上、私達のいる場所に平行して真っ直ぐに歩きながら発砲しているのが、彼らが持っている懐中電灯の灯りからわかった。


農民の一人フェデリコ・C.は次のように物語った。「私は以前にも戦ったことがあります。しかし、私の仲間と一緒ではありませんでした。1987年、14歳だった時、テレマンで軍に拉致され、6年間、兵士として戦わなければなりませんでした。私には土地を守る用意ができています。川の方に向かえば、何人もの農民が埋められているところをお教えできますよ。彼らを殺したのは軍です。この土地には私達の血が流されています。この農場を占拠するという行為は、私の人生の中で、自分自身の土地を持つということに一番近いのです。子供達に自分自身の土地を残してやることができなければ、子供達は飢えて死んでしまうでしょう」。


誰かが料理したり眠ったり、子供達のためにより良い将来を計画するための場所が家だとするなら、この22人の農民は既に1年近く彼らの家を守り、これからもそれを続けていく覚悟と準備をもっている人達である。眠りと沈黙があたりを支配する。出来事には回答はない。彼らを恐怖に陥れようとする者もいる。それでもなお、農民らはこの夜を平穏だと表現した。しかし、それがすべてではない。


「昨日(9月1日)、インヘニオの従業員が警備員と警察官を連れてトラクターでやって来ると、サトウキビを植え始めました」。マルセリーノ・C.は、女性達が黒いトウモロコシでトルティーヤの用意をする傍らで、サトウキビを植えるための穴が文字通り彼らの住居にまで開いているのを示した。黒く焼けたトウモロコシの実や茎がまだそこにはあった。「警察はいつも彼らといっしょにいます。インヘニオの人達を守るけれど、私達のことは守ってくれません。毎日やって来て、インヘニオの人達が働いている間、私達のことを脅すのです」。


農場の周囲を歩き回って住民らと顔見知りになると、恐怖に続いて空腹に襲われた。50歳のベナシオ・B.は2人の子供の父親だ。彼の小屋を見せてもらった。ベナシオにとっては、外部の人からどう見られているのかが一番辛いという。「誰かが外を通ったり私達のところにやって来るとするじゃないですか。そうすると、私達が地面を耕していないので、浮浪者だと思うわけです。でも私は物心ついた時から働いていますし、子供を育てるために土を耕していたいだけなんです。わずかばかりの他人からの賃金なんて真っ平です」。


壁の外は豊かであった。「カボチャ、キュウリ、スイカは何もしなくても実がなります。最も、もう無くなってしまいましたけれどね」。家の中は極貧である。彼らの所有する物と言えば、ダンボールのベッド、手作りの木製のベビーベッドと歩行器、トウモロコシを挽く道具が全てである。「昨日は何も食べていません。明日は仕事があると聞いています。30ケツァルの仕事で、もう12ケツァルのトウモロコシ粉を頼んであります。これで妻はトルティーヤを2日間用意できます」。空腹で過ごすのですか、と尋ねてみた。「そうです。でも私達が最悪というわけじゃないですから。フェデリコと話してみてごらんなさい」。フェデリコとは夜の間何時間も一緒に過ごし、内戦当時の軍での経験を話してくれていたが、家族のことはまだ聞いていなかった。それを恥じていたのかもしれないが、ウェンディのところに連れて行ってもらった。ウェンディは飢えで死にかけていた。暴力的に立ち退かされた人達を保護するために米州人権委員会が出した勧告に対する政府の対応は、まったく不完全なものでしかなかった。


土地の状況について把握するため、COPREDEHとの集会に話を戻そう。農民らは合意の内容や期間について守られた例のない会合に疲れており、COPREDEHは長く細かい役所の手続きのために必要なデータや期日通りの回答を求めていた。その場で話し合われたことはほとんど何一つ守られたことがなかった。この問題では、公式な発表と現実の間に大きな隔たりがあり、政府の戦略は時間稼ぎではないかと思わせるものがあった。つまり、選挙まで残りわずかなので、この問題は9月11日に投票箱で決定される次の政権に任せた方が良いのではないかということである。


農地保障局アルタ・ベラパス県事務所のビニシオ・バルガスは「裨益者となる可能性のある人達のリストアップをしようとしたのですが、アクセスの困難な土地に分散して住んでいる人が多く、不可能でした」と言っている。記者は9月3日土曜日の夜明けから2時間ほど経った頃、土地紛争では象徴的な場所であるパラナ農場から100m程のところにある道路沿いの小屋の中でウェンディに会っている。


保健省の法務顧問バイロン・オリバは農民組織をサポートする人権組織の存在に感謝の意を示して止まないが、人権組織の方は保健省が何の行動も起こさないと非難している。オリバは彼の部局では「予防及び治療システムを準備しているが、リストがないことには何も始められない」と何度も繰り返し説明した。ロサリオ・B.はキニチに住む老女であるが、500年の苦難を映すような彼女の落ち窪んだ目はその言葉に返答したがっているようであった。


ロサリオは腕をまくりあげ、ほとんど動かない左腕を見せてくれた。その腕には黄色から段々薄黒くなっていく打撃の痕がまだ残っていた。「8月28日日曜日、テレマンの市場から孫と一緒に戻ってきた時、2台のバイクに乗った、黒い服を着て顔を隠した4人組が私達を取り囲み、棒で殴りつけてきました。孫が男らに石を投げつけたのでいなくなりましたが、皆が私の言う言葉を聴くので、私を脅したかったのだと思います。それってどういうことなのでしょう?彼らは違いますが、私達はここで生まれ育ったのです。彼らは風にのってやって来たよそ者ですが、私達はこの土地に属する者なのです」。ロサリオはテレマンの保健所にいる予防と治療の保護者のところに行ったが、横領行為を働いているという侮辱の言葉を浴びせられ治療を断られた。話にならないのはいつものことである。


「告発しなさい」と国は言う。「誰に告発しろと言うのでしょう。警察はインヘニオとインヘニオの警備員の側にいて、食事に招待されたりしているじゃないですか」。農民らは警察幹部への不信を繰り返した。


COPREDEHはインヘニオ・チャビル・ウツァフと契約している警備会社について、民間警備サービス総局の報告書のコピーを提出した。その内容は要領を得ないもので、会合の参加者に結論を示す以外の役には立たなかった。それは農民達が告発した暴力行為に触れ、ポロチクには民間警備会社が16社あり、その内の1社はシールド・セキュリティという会社で、同社の従業員1人に対して検察が捜査中であるというものであった。最後に民間警備サービス総局は検察と協力すべしとされていた。それだけでである。


内務省アルタ・ベラパス県事務所のホセ・アルベルト・アルトーラには独自の方針がある。「夜間については警備のシステムを定め、地域担当となった警察官の評価を行います。適当ではないと判断された人物は交代することになります」。こういった望ましい未来像を掲げながら、日々暴力の犠牲となっている人達のことについてはほとんど触れない。この国の治安担当官の口から出てくる言葉は、記者がその地で見聞きしたことと食い違っている。その24時間後、パラナ農場のマテオ・C.は私にこう言うことになる。「ほら、また来ている。インヘニオの警備員と警察官が一緒にね」。


さて農民が提案する番となった。明らかで交渉の余地のないものである。800家族に対する保護措置を取るようにという勧告は2ヶ月半以上前に完了していなければならないものであった。それなのにまるでモルペウスの夢の中に囚われ続け感覚が麻痺しているかのようにリストを作れと言い続けている。農民を住居、食糧、保健を用意した3つの農場に分散させ、国の支援を受けるための調査を受ける。指定されている農場はサンタ・ロシータ、パラナ、オーチョ・デ・アゴストである。


しかしここにも問題がある。「政府は占拠に同意も保証もしません。もし農民が再び農場を占拠すれば、保護措置の対象から直ちに外されます」とCOPREDEHの人権保護局長ウーゴ・マルティネスははっきり言った。恒常的対話システムの責任者ミルドレッド・ロペスも「土地の取得は交渉の対象にはなっていません」と付け加えた。


グアテマラ政府からの提案への回答期限は2ヶ月前に切れているが、農民らの会合では9月29日に再び集まって、保護措置を受けるかどうかを話し合うこととなった。会合でいつも話題になるのは立ち退かされた農民らのリストのことである。政府はリストなしには何もできないと言っているが、農民は政府を信用できない。農民は政府の質問票に書き込むと、その内容が組織のリーダーが誰であるかを判断するのに使われたり、現在不法占拠で農民らに対して出されている125件の法的告訴書類に文書での証拠を提供する結果になる可能性があるということを理解しているからである。


「もし提案を受け入れなければ、保護措置のどの部分が適用されなくなるんでしょうか?」、農民らはCUCの弁護士で彼らの代理人でもあるセルヒオ・ベルテトンに尋ねた。「だって私有財産を守る法と生存権や食糧の権利とが正面衝突しているわけじゃないですか」。弁護士は農民らにこれ以上農場を占拠するのは止めるようにと説得し、その一方でCOPREDEHには提案への回答期限を9月29日まで延長するよう要請している。こうして時が経っていく有様はさながら「ゴドーを待ちながら」の1シーンのようである。


ジェームズ・バリーは前世紀の初めにネバーランドではピーター・パンやウェンディのような子供達は、遊び続けることで成長を拒否することができると想像した。パラナ農場のウェンディにとって、グアテマラは恐ろしい意味でのポストモダンなネバーランドに変貌した。そこでは、19世紀からほとんど変わることなく続いている少数への土地の集中により可能となったアブラヤシやサトウキビといった単一作物のプランテーションが支配している。治安当局の行動や政府の無行動が彼らを保護し、一方で子供達が成長することができないようにしているだけではなく、最悪の方法で死に追いやっている。「緑の飢餓」はこの惑星のもっとも豊かな地域で起こっている。UNICEFは、ウェンディのような先住民については、子供の栄養失調は49%から70%に上昇すると報告書に記している。このような飢餓には期間は関係ない。実現されない期間であるならば、尚更である。





[ 2012/05/29 23:59 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

強者の論理(2)-ポロチク地方のこと 

前回のインタビューの続きです。
これを読んでいると、こんな素晴らしい経営者の下で働きたいわっ!!!とか思っちゃいそうな気が・・・。




あなた方は、立ち退いた農民の大半は騙されて占拠していたのだと仰っていますが、どうしてそう思われるのですか?


農民らがそう言っていたからです。何人もの農民が私達に謝りに来ています。社会を不安定にする反体制闘争は、イデオロギーや政治といった目的の他に、経済的な目的も含んでいます。多くの場合、占拠はいい商売なんです。(インタビューの席上、CUCの会長ダニエル・パスクアルについて「彼の半分でいいから旅行してみたいですよ」というコメントがあった。「ここでは貧乏っていうのは最高の言い訳なんです。まったく関係ないことですら、それでいいんですからね」。)農民からお金を徴収していたということも知っています。会合への参加費ですとか裨益者リストに載せるための料金ですとか、200ケツァルから2,000ケツァルまで支払った人もいます。


騙された人達については何をする気もないと仰っていましたね。立ち退き執行の際に、逮捕さえするなとお願いされたそうですが。


私達は、大勢の人が騙されているということを理解しています。占拠が始まる前、私達はその頃使用できなかった土地を使ってくれる人を探していました。この地域で多く見られる貧困についても理解しています。私達は「食べさせることもしない」のではありません。この土地には永住しようとしてやって来たのです。この土地の共同体に参加しようとしてやって来たのです。立ち退き命令には農場にいた人達の逮捕も含まれていましたが、占拠による被害の責任は指導者にあると考えています。立ち退きに関わった関係当局には、占拠を扇動している指導者らに対する司法を期待しているのであって、占拠に関わっている大半の人については懲罰にかける意志はありません。


立ち退き執行の前日にも対話は行われていました。立ち退き請求を取り下げたり、翌日に執行されることを警告されなかったのは何故ですか?


立ち退き執行の前日に対話が行われていることは知らされていませんでした。対話テーブルは既に行き詰っていました。CUCは2年9ヶ月にわたり、合意に至るつもりも、歩み寄る意志もないということを示してきました。CUCは紛争を起こして生きながらえる組織であって、それを解決することはありません。彼らがやったのは時間稼ぎでした。当局への嫌悪は明らかです。農民の代表と名乗っていますが、それも疑わしいものです。対話テーブルで決まった約束を守ったことは一度たりともありません。提案に対しては頑なで、能力不足は明らかです。


このような状況にはうんざりですし、私達が対話テーブルにつくことで、不法な占拠を続け、サトウキビを台無しにするという行為を利する結果となっていましたから、対話を続けるためには原状回復が先だと要求しました。


その時以来、政府機関や対話テーブルに参加した他の機関と話し合いを続けていますが、CUCと私達は別々に話し合いをしています。


不法占拠に関わってた指導者らが2月後半に対話のコーディネーターに呼ばれたそうです。コーディネーターは、調査の結果、土地の権利書はすべて揃っていること、政府が土地を取得するという合意も手続きも存在していないこと、会社からのオファーは納得できる以上のものであり、受け入れた方が良いと思う、ということを説明しています。彼らは「内容を熟考する」と約束し、回答日時を指定しました。しかしその日には彼らは現れず、欠席するという連絡すらありませんでした。


パンソスの住民との関係はいかがでしょう?


ポロチクの大半の人は、会社がもたらした地域の発展と経済的影響を喜んでいます。もちろん全員がというわけではありませんが、少数だと思っています。少数ながら声の大きな人達ではありますが。


ラウラ・ウルタドは、あなた方が支払っている賃金は最低賃金以下であり、手当や福利厚生は一切ないとの調査結果を発表しています。この点についてはいかがでしょう?従業員は何人いて、どのような条件で雇用しているのでしょうか?


ウルタド氏は私達にコントクトを取ってきたこともありませんし、一体どれほど「調査した」のかも私達にはわかりませんが、その調査は表面的なもののように思われます。元にしているデータの多くはでたらめであったり間違ったりしています。ウルタド氏は最初に結論を出し、それを裏付けるためにデータを使おうとしているように思われます。正確に採取された情報から結論を導き出すという、科学的精密さを伴った調査ではなかったようです。


従業員への報酬がわずかであるというのはデマであり嘘です。インヘニオでの最低額は法定最低賃金であり、法律で定められていない手当等も支給しています。インヘニオでは試験期間の間だけでも2000人以上を雇用してきました。3000人以上を直接雇用する用意もあります。


ポロチクでのビジネスは何をベースにしているのでしょうか?


ポロチクにサトウキビ産業を根付かせることです。国内及び国際市場に向けての白砂糖の生産を予定しています。精製の過程で副産物の糖蜜ができますが、砂糖を搾り取った後にできる糖蜜は、動物の食料として十分栄養価が高いものです。


コージェネレーションも予定しています。インヘニオでは搾りかすを燃料として使用しており、砂糖の精製に必要なエネルギーを生産しています。乾季には水力発電だけでは力不足なので、両方を活用しています。


将来的に計画しているプロジェクトの主だったものは、砂糖の精製工場の建設です。現在のところ、アルコールの生産のための設備は予定にいれていません。


土地はどのように入手されたのですか?


地元の農場主から購入しました。中には賃貸しているところもあります。大半は畜産を営んでいた農場でした。


どのケースでも、不動産の権利書が整っているかどうか、売り主が友好的か、本当にその土地をコントロールしているかを確認します。当たり前のことですが、紛争や法律問題に巻き込まれる可能性のある農場には興味がありませんでした。


プロジェクトを開始するにあたって、銀行から融資を得ましたが、この融資は土地取得の資金として使用しないという条件がありました。土地購入資金としては株式発行によって得られた資金の大きな部分が割り当てられており、その金額を考えた時、やるべき手続きを軽く取ることはできませんでした。評価の高い会社からの保証も必要でしたし、保証に関連して調査も行わなければなりませんでした。


どれくらいの時間を要したのでしょうか?


2005年に始めて2009年までかかりました。大半は2006年から2007年の初めにかけて購入しましたが。


土地の購入にあたって、権利書を確認したとおっしゃいました。Intrapazの調査によれば、テレマンのプント・キンセは登記すらされておらず、チャビル・ウツァフが移転してから所有権を主張しているとされています。


一方当事者である私達に問い合わせることすらせずに、境界問題について何を言うことができるというのでしょう。もっともIntrapazの言うことにも一理あります。プント・キンセと呼ばれる土地は登記されたことがありません。それは簡単な理由です、そんな土地は存在していないからです。サウセス・スール農場及びホロボブ農場の一部の境界線に問題があるとでっち上げるために造られたものだからです。農場の登記部でそれを確認することができます。


この件については、テレマンの主だった人たちが証言してくれますし、古い図面でも確認することができます。問題の土地は1マンサナをわずかに超える程度の広さですが、これを元にして30マンサナ以上の土地を横取りしようとしているわけですから、不思議な話です。




[ 2012/05/25 22:29 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

強者の論理(1)-ポロチク地方のこと 

ポロチクのサトウキビの話の続きです。


プラサ・プーブリカに掲載されていたチャビル・ウツァフ側の主張を・・・と思って
しばらく前から準備していたのですが、
これに思いがけず時間を取られてしまいました。


インタビュー記事なのですが、話している人が悪いのか、
記事をまとめた人がわるいのか、
とにかくまだるっこしく、奥歯に物がはさまりすぎているような歯切れの悪い文章で、
こんなに読み込むことができない文章は久しぶりだ・・・・・・。
おまけに、インタビューの合間に記者のコメントが入っていたりするし。


というわけで、そのまだるっこしい言い回しをすっぱりカットして
できるだけ平易な文章にしてしまったのですが、
途中読み違いや誤りも多々あると思います。
そういうのを発見されたらご指摘頂けるとありがたき幸せ。


さて、本題に入りますと、このインタビュー記事は
前回のフォントの記事の後、2011年4月5日に出たものです。
チャビル・ウツァフの代表であるウォルテル・ウィドマンにインタビューした記事ですが、
途中ウォルテルの父のカルロス・ウィドマンも一緒にいた時間もあったようで、
計5時間以上にわたる長い長いインタビューに加え、その後のメールのやり取りまであったという長尺会見だったようですが、
まあこの記事も5時間分とはいかないまでも長い長い。


このインタビュー記事、2回に分けて掲載してみようと思います。





アントニオ・ベブ・アクには何が起こったのでしょう?


他の農場もそうでしたが、ミラルバイエ農場でも不法に占拠していた農民らは出て行くことを受け入れました。彼らは立ち退き命令が執行されることを知っていたので、既にほとんど全ての物を持ち出していたので、残ったわずかの物を整理するために1時間の猶予が与えられました。女性も子供ももういませんでした。1時間を過ぎてももう少し時間が必要だった人がいたので、更に待ちました。彼らの多くは住んでいた場所を通る公道にいました。
トリエーヨ財団のメンバーであるアベリーノ・チュブ・カアルという人物が担当検事に、自分は米州人権裁判所(CIDH)の判事の電話番号を知っている、CIDHは立ち退きに関して決定を下していると言いました。チュブ・カアルの言った電話番号は判事のものではなく、財団の弁護士と名乗る人物のものでした。彼はその後、外国人女性を伴って農民に向かうと、裁判所の命令に従うことなく抵抗するようにとけしかけました。検事は、それは法の執行妨害に当たるから止めるようにと警告しました。


農場が明け渡され、私どもの従業員や重機が入って住居跡を撤去することが認められました。作業は北から南に向かって進められました。占拠農民らの住居跡があったところまで来ると、道路から脅迫や侮辱、更には投石がありました。争いを避けるために従業員には北の方に至急撤退するようにと命じましたが、後を追いかけていく者もいました。警察(PNC)の機動隊が従業員と占拠していた人たちを隔てるために両者の間に列を作りました。
ですが、チュブ・カアルや他の指導者がけしかけたので、多くの占拠民が機動隊にも石を投げたり暴力を振るったりしました。機動隊の列はこの敵対行為のために後退しました。盾の下からマチェテで脛あてで保護されていた足を切り付けたりしていたからです。そこで手榴弾タイプの催涙弾が発射されました。向かい風だったので、占拠民よりも警官の方が被害を受ける形になりましたが。


占拠民は機動隊の列から離れることにしたのですが、走って逃げる最中、何人もがサトウキビのプランテーションの中の穴につまずいていました。つまずいて倒れた中の一人は、機動隊からかなりの距離のところに座っていましたが、頭に手をやっていました。仲間達が近づいて彼を取り囲んでいました。私には何とか見ることができるくらいの距離だったのですが、彼らはその男性を地面に横たえ、彼はそこで死んでしまうだろう、その場に埋葬しなければならない、と叫びました。軍や警察の救急隊が手当てをしようとしましたが、仲間らがそれを拒みました。


更にはその場にいた警察の救急車で運ぶのをも拒否しました。トリエーヨ財団のグレーのピックアップに乗っていた人物に、負傷者をラ・ティンタの病院まで運んでくれるよう説得したのですが、占拠民らはこれも拒否しました。そして公道に一旦戻ってくると、負傷者は「頭に銃傷を負っていた」と言い出しました。テレマンの保健所の救急車も来ましたが、占拠民のリーダーらが近づくことを許しませんでした。


最終的にアントニオ・ベブ・アクは死亡しました。検視報告書を見たわけではありませんが、頭部の傷は「刃物または鈍器」、おそらくはマチェテによるものと判断されたと理解しています。実際のところは、アントニオ・ベブ・アクは占拠民のリーダーらが適切な医療を拒否したために亡くなったのです。


急進的な活動家らは銃で撃たれて死亡したと言いつのっていましたが、これが誤った糾弾であったことは既に明らかです。私は機動隊の発砲を聞きませんでしたし、活動家らが主張しているように、当社の警備員が発砲したわけでもありません。警察から私達が武器を農場に持ち込まないようにとの要請があったからです。用心のためでした。


死者が出た責任を立ち退きを執行した当局に押し付けようとしていますが、彼らは、国が保護すべき権利を侵害することを計画し、扇動し、実行している人物に対して出された執行命令であることを忘れているのではないでしょうか。暴力を伴った違法行為により権利を侵害された者に対しては、それを保護し取り戻すのが国の義務であって、自由裁量によるものではないのです。


私達はアントニオ・ベブ・アクは転倒した時に自分のマチェテで傷ついたのだと考えたいです。そうでなければ、転倒した時に仲間の誰かが持っていたマチェテで怪我をしたのでしょう-インタビューの数日後にそう書いてきた-。私達には、それが一番ありそうなことのように思えます。ですが、たとえ不都合があったとしても、ベブ・アクの死の真相は解明されるべきものです。事実関係については詳細に調査して欲しい。そして、殺人であったのであれば、それが誰の責任によるものであったとしても、しかるべき懲罰が課されるべきです。


5人の孤児を抱えた未亡人が残されました。どうして彼が占拠民のところに戻ったのかはわかりません。最初の立ち退き執行で悲劇的なことに死者を出してしまいました。農民の保護者だと名乗る者が法律に従い、法に抵触するような行為をしなければ起こらなかったことです。


彼の葬儀には、占拠を扇動していた反体制組織のリーダーらは不在でした。その一方であっという間にこの出来事を国内的・国際的な旗印としてしまったのです。


あなた方は社会の上の階層で活動しており、国内の主だった人物と関係を持っています。大統領夫人や内務省長官との会見はどうやって実現させたのですか?


実際のところは、あなたが考えているようなこととは全く異なっています。それどころか、私の家族はあまり社交的じゃないんです。グアテマラ社会の上層部で活動しているわけではありませんし、国内の主だった人物と特別な関係を持っているわけでもありません。


大統領夫人や内相との会合に出席したのは私の父だけです。というより大統領夫人からの要請に従っただけです(インタビュー時には、父のカルロス・ウィドマンはサンドラ・トーレスに近い人物に面会を求めたと言っていた。その時点では彼らの方から面会を求めたと言っていた)。


会見に内相が立ち会うということは事前には了解していませんでした。私はどちらにも会ったことはありません。占拠に係わっている反体制組織の方が、この国の重要人物やマスコミとより密接な関係を持っているのは疑いの余地がありません。もしかしたら国際社会から多額の援助を受けているのかもしれません。彼らはそういう類の関係を築いていくために必要な体制を持っています。


サンドラ・トーレス(訳注:当時の大統領夫人)やカルロス・メノカル(訳注:当時の内務省長官)と会合を持った理由はなんでしょう?


占拠を扇動していたグループの中に、インヘニオの土地を農民に分配することで政府と合意に達したと明言していた人物がいたからです。より正確に言えば、サンドラ・トーレス・デ・コロンとの間で合意に至ったと言っていたのです。率直に言いまして、私達は政界にコネがほとんどありませんので、事実かどうかを直接確認する必要があったのです。


会見に入ると共に、サンドラ夫人は違法行為と関係していると指摘されたことに不満を述べました。ですので、私達がそう言っているわけではなく、占拠を扇動している人物が言っているのだと説明しました。サンドラ夫人は、大統領も彼女自身も、会社の土地については何らかの合意に至ったことはなく、違法占拠を認めたこともないと確認しました。


それから、プロジェクトについてや、プロジェクトがその地域に及ぼすと私達が予想している影響について関心を示しました。またそこで起こっていることについて、私達の見解をも尋ねてきました。


ポロチクの状況は深刻であったということをご理解下さい。一方では、反体制組織の活動に問題が集中しているように見えます。他方では、占拠民の犯した違法行為について、多くの住民が腹を立てていました。当局の裁定の結果次第では、武装していた占拠民らと住民らの間に暴力的対立が発生する可能性があることは予見できました(インタビューの席上、ウォルテルは「私はいつも武装して歩いていますよ、他にどうしようもないですからね。可能なら向こうのリーダーが持っているような9ミリの銃が欲しいものです」と言っていた)。


どんな約束を交わされたのでしょうか?


約束というものは交わしていません。大統領夫人と内相は、その件に関しては法律に従うと強調していました。そして、農場から違法に占拠している人々を立ち退かせるためには、司法命令が必要であると言いました。


その後、大統領ともお話をされてますね?


農業会議所の会頭は度々大統領と会って話をしており、政府は法に則って行動するという確証を得ていました。


以前、あなた方は何度も告発を行ったにも係わらず、警察もその他の当局も何の行動も起こさなかったとおっしゃっていました。今回政府が行動を起こした理由は何なのでしょう?


ポロチクの状況が深刻になったということでしょう。この地域の統治能力が危うくなっていました(インタビューの席上では「ここは社会的火薬があるんです」と言っていた)。状況は劇的になっており、地元の農民の中には私達のところにやって来て、占拠民から身を守ることができるよう「パルケ(弾薬)」を貰えないか、と言ってくる者もありました。もちろんそれは断りました。農民の間での暴力的な対立を避けるためでもありましたが、私達にはそれだけの資力がありませんでした。弾薬を買うためには各人について武器の許可を取らなければなりませんが、非常に高額になることがわかったからです。


警察や検察に届け出てはどうかと勧めてみたのですが、逆恨みして殺されるのではないかと怖がっていました。当局を信頼しなければならない、自分達の手で法を行うなどとしてはいけないと言いましたが、彼らは「ですが旦那様、あなたにはそんなこと言えませんよ。旦那様が届け出をしたら、その後はもっとひどいことになってるじゃありませんか」。


テレマンの人たちは、ミラルバイエの占拠民は農場を通る公道で強盗を働いていると認識していました。ピストルを突きつけられて所持品や金や携帯電話を奪われた通行人がいました。カルダモンを買付けにきた人が、持っていた銃や金を奪われたという話も聞きました。「戦争税」を徴収していたという話も聞いたことがあります。セサル・モンテス(元URNG司令官の一人)自身が電話をかけてきて、ポロチクでは他人の物はあまり尊重されない、と言ってきました。一番多い犯罪は近親相姦で、その次が重大な横領なのです。


政府当局の行動はどのようなものだったのでしょうか?


正しいものでした。非常に正式で、法の最低限の要求にも細部まで配慮したものでした。率直に申し上げて、そこにいた人達は、恐れといくらかの予感で良心をぎゅっとわしづかみにされたように見えました。マスコミや人権保護機関、国際社会の監視下にあるということで、不要な衝突を避けるために最大限の注意が払われていました。


その同じ率直さで、第一列にいるべきではなかった多数の人達に対してはあまりにも寛容に過ぎたのではないかと、思い切って言ってしまいましょう。出来事を撮影しようとカメラやビデオカメラを持った人達がやって来て、その場にいた私達に嫌がらせをしました。新聞記者やリポーターのことではありません、報道関係者はリスペクトしてくれましたし、慎重でした。占拠民の中には顔を覆い、身元がわからないようにしている人も何人かいました。


立ち退き執行の過程に対して批判がありますが、どのようなご意見でしょうか?


多くの場合、実際に起こったことを知らないから批判するのだと思います。事実関係が伝わっていないことはよくあることです。占拠の背景にいる反体制組織は、自分達の目的のために出来事をゆがめて伝えたり、報道を操作するための資金も影響力も経験も持っています。コラムニストの中にも、事実が伝わっていないことが明らかだったり、プロとして真実とバランスに基づき実際に起こったことをより深く理解するとか表現するとかいう職業的関心よりもイデオロギーを優先させている場合があることがあります。


作物を根こそぎにしたのは何故ですか?


ミラルバイエの後、従業員の中には仕返しを恐れて占拠民が住んでいたところに入るのを嫌がる者がいました。立ち退き執行が終了し当局が引き上げる時に、占拠民が戻ってきてまた住み着くのを防ぐつもりだということを示す必要があったのです。農場が引き渡されてから治安当局が引き上げるまでにはそれほど時間があったわけではありません。一番簡単な解決方法が住居跡を焼き払うことでした。両者間の対立や脅迫といった小さなリスクはあると思っていましたので、割り当てた人数は最小限でした。


焼き払ったチャンパ(粗末な小屋など)はいわゆる「住居」でも「家」でも何でもなかったことをはっきりさせておくのは大切なことでしょう。全員ではないかもしれませんが、大部分は村や集落に家を持っていました。彼らはチャンパを日陰で休憩したり、作物を守る夜警が自分の番を待つために使っていただけです。チャンパが彼らの家だったと信じさせようとしている悪意が存在しています。


立ち退き執行の中でそれを行うのはどうしてですか?


もし警察がいなくなるまで待っていたら、立ち退き命令は失敗に終わっていたでしょう。ポロチクのICTA(訳注:国立農業技術科学研究所)の農場の立ち退き命令のケースがそうでした。金曜日の早朝に最後の警官隊が引き上げると、土曜日の明け方には再び占拠民がもといた農場の居住地に住みついていました。


立ち退かされた農民はどうなるのでしょう?眠るところも食べるものもないまま、道路脇で生活している一家がいるという報告があります。


ティナーハスという農場の話ですが、確かにそこには道路が川と交差する付近に5,6人の大人がいます。出身地の共同体に家を持っていますが、占拠した農場から遠くてトウモロコシの世話をするのが大変なので(会社は収穫までの猶予期間を与えた)、そこにいることに決めたのです。


立ち退いた農民の大半は、パンソス、テレマン、カンルン、アグア・カリエンテ、チビッチ、シュクブ、サクシュハーといった町や村に家を持っていたり、別のところに土地を持っていたりします。道路脇に眠るところも食べるものもない一家がいるのは事実ですが、誤解もあります。


立ち退きが執行された農場の大半では、収穫を行えるために十分な期間を与えています。もちろん、会社には自分達の栽培計画に応じて、ある程度の土地で仕事に取り掛かる必要がありました。といいますのも、既に深刻な損失を被っていたからです。どの土地から始めるかは、厳密に農業的見地から判断しましたが、同時にどれほど暴力的な占拠が行われていたかということも勘案しました。正義という意味で、占拠があまり暴力的でなかったところ、占拠していた農民らが何らかの後悔を示しているようなところでは、収穫を持ち出すことができるよう、最後に回しました。
インタビューの席上、ミラルバイエの作物については「焼き払った」ということを確認した。曰く「ミラルバイエの作物は、既に価値がなかったからです。どちらにしてもそうせざるを得なかったと思います、私達は種をまかないわけにはいかなかったのですから。ベーヤフロールやリオ・フリオも同様です。そこは抵抗が一番激しかったからです」。


過激とか暴力とかですか。あなたは不法占拠があり、所有する土地の半分にあたる1800ヘクタールのサトウキビが焼かれ、2800万ケツァルの被害が出たと主張されていますが、どこで何があったのでしょうか。


不法占拠は主に2010年の後半にありました。サン・ミゲリートのプランテーションでは2010年の6月から7月にかけて、度々火災がありました。


現在、農場はどのような状況なのでしょうか?


一部では栽培を行っています。それ以外のところでは、占拠民らが育てたトウモロコシを運び出すのを待っています。立ち退きが執行された農場の中には再び占拠されたものが一つあります。また、立ち退き命令が執行されないまま占拠されている状態の農場も一つあります。


国連の人権高等弁務官事務所はグアテマラにオブザーバーを派遣し、事件の内容を知ると政府に立ち退き命令の執行を停止するよう勧告を出しました。人権侵害があったという理由です。あなたがおっしゃるように立ち退き命令の執行が最大限の配慮をもって行われたものであったのなら、これはどうしてなのでしょうか?


オブザーバーが何と言ったかについては、私達は一切情報を持っていません。私達はその内の2人と会って話をしました。彼らは事実関係について尋ねてきましたが、私達にはここが違うなどという話はしませんでした。


私達は、人権侵害があったという結論は思い切ったものだと思います。どちらかと言えば、政府に立ち退き中止を勧告する別の理由があったのではないかと思います。最近出回っている不正確な話を見れば、もっと時間をかけて検討すべきと考えたか、もしかしたら政治的圧力があったのかもしれません。


現実には、裁判所の命令が存在しており、政府にはそれを執行する義務があります。政府にとって立ち退き命令の中止はありがたいことではないのです。


この文脈の中で、CUCやCONICと言った農民組織はどのような役割を果たしたのでしょうか?


不法占拠を扇動し、推進してきました。


(ウォルテル・ウィドマンは次のような話をしたが、同席していた父親も完全に同意しており、事務所の椅子に深く腰掛けていた。


彼らによれば、BCIEが農場を競売にかけると宣言する以前から不法占拠が始まっていたが、農民組織はこの宣言を「言い訳の余地のない証拠」として利用したというのだ。サトウキビ会社は倒産し、BCIEは担保であった土地を自分のものとした。そして数ヶ月の間に銀行は不法占拠を行っている農民に土地を分け与えなければならないとか、政府がこの土地を購入して農民に分け与えるとかいう噂が広まった。ウィドマンによれば、2010年10月に不法占拠が相次ぎ、サトウキビが焼き払われたという。


BCIEはこれにどう係わったのか?BCIEはプロジェクトの段階でインヘニオへの融資を決定したが、プロジェクトの行方もポロチクのサトウキビ栽培の将来も明らかではない現在、資金の一部を融資した後は手を引いて、債権保証を確実なものにしようとしている。


その当時、インヘニオには生産的ではないという批判があり、その批判の影響が現在まで残っている。しかしウィドマンは生産的ではないように見えるが、そうではないのだと言う。「インヘニオはポロチクで砂糖を生産してきました。農業生産はプロジェクトを立てた頃の予想を上回っています。プロジェクトは資金面で2つの大きな問題を抱えています。BCIEが決定した融資は2つありました。一つは株式投資で、もう一つはプロジェクトに必要な資金の融資です。最初の融資は当初9ヶ月で償還の予定でしたが、実際には23ヶ月かかりました。


大規模な変更が、プロジェクトを実行時に及ぼす影響を考えるためには、プロジェクト修士などというタイトルは不要です。農業プロジェクトにおいては季節は大事な要因で、季節外れだと大きな影響が出ます。適切な時期を逃すと、1年を逃すことになるのです。


おまけに、プロジェクトを進めるために必要なだけの資金もありませんでした。2009年は一部しか砂糖の生産ができませんでした。20万トンのサトウキビの内、圧搾にかけることができたのは3万6千トンだけでした。2010年には砂糖の精製をするための資金もなく、コスタスールのインヘニオにサトウキビを送りました。「2010年10月から2011年3月の間に、不法占拠のため、新たな投資家も近づかなくなりました。プランテーションの大規模かつシステマチックな破壊行為は、砂糖の精製に必要な物資をストップさせただけではなく、プロジェクトを再度推進させるために必要な、種の貯蔵庫も焼き払われました。ここに悪意が存在していたのは明らかです」。)




(続く)






[ 2012/05/23 23:36 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

政府の立場-ポロチク地方のこと 

2004年から2008年まで大統領にあったオスカル・ベルシェが
2005年のインヘニオ・グアダルーペのポロチクへの移転に際し、
ウィドマン一族の姻戚として、影響力を行使しなかった・・・
なんてことはありえないわけで。


実際、息子のオスカル・ホセ・ベルシェ・ウィドマンは
エネルギー問題や民営化、M&Aなどを専門とする弁護士で、
1989年よりインヘニオ・グアダルーペの幹部かつ法務顧問、
更に国内の水力発電等を請け負うコンチネンタル・エネジー・コープ社の役員でもある人物です。


大統領という立場と影響力をバンバン行使してポロチクに移転し、
土地を買い集めたり、借用したりして、チャビル・ウツァフを立ち上げ。
2006年にはBCIE(中米経済統合銀行)からの融資も決定。
ついでにリオ・ドゥルセからパンソスを通り
タクティクでインターアメリカンハイウェイ14号線に合流する
国道7号東線の整備計画のための融資もゲットします。
融資したのは気前の良さと腕の確かさでは世界一の国
オスカル父ちゃん、やるな・・・。


ま、そんな次第で意気揚々と新プロジェクトを立ち上げたまでは良かったけれど、
予想外だったのが地元の農民の抵抗だったということなのでしょう。
この「地元農民」には買い取られた農場で働いていながら
受けるべき権利を受けることができなかったモソ・コロノも含まれます。


解決できないでいる間に、アルバロ・コロンが大統領に就任。2008年のことです。
コロン大統領が残した一番大きなものは富者と貧者の対立だったと思う私ですが、
貧者の大統領と名乗るコロン大統領が、
全然貧者の側になんかいないじゃん!と見えてしまうのがこのポロチク。


ポロチクにはポロチク開発協会とかポロチク友の会とか言った名前のNGO組織があるのですが
メンバーは地元の地主達。
地元住民への開発協力などももちろん行うのですが、
本当の目的はサトウキビ栽培の拡大という話もあり。
で、こういった組織の中にコロンが大統領に当選した際に
多額の資金を提供した人物がおり、直接電話でやり取りできる仲だという話があります。


その辺りの真偽の方はともかく、コロン政権になってから
立ち退き命令の執行が増えたのは事実です。
ラファエル・ランディバル大学の「グアテマラの平和建設のための紛争調整研究所」のラウラ・ウルタドによれば、
チャビル・ウツァフの地所を占拠する農民たちへの立ち退き命令が執行されるようになるのは
2008年以降のことだそうです。
それ以前にも農場主の嫌がらせみたいなことはあったそうですが、
当局が手を出すようになったのはこの頃。
同時並行的に話し合いも進められますが、こちらの方は一進一退。


そんな折、フアン・ルイス・フォントによれば
チャビル・ウツァフのカルロス・ウィドマンが大統領夫人であったサンドラ・トーレスと会見、
その場で内相カルロス・メノカルは「立ち退き執行には判事命令があったらいいんよ」と
さらさらっと自分の手を洗ってしまったのでありました。


ちょっと話がそれるのですが、3月の初めの頃、
経済界を中心にこのメノカルの更迭を要求する動きがありました。
その頃頻繁にあった農民組織等による道路封鎖に業を煮やした商業会議所などが
憲法裁判所に対して「警察は移動の自由を保証しなければならない」、
つまり道路封鎖があった時には警察が彼らを立ち退かせなければならないでしょ、てな訴えを起こし、
これが認められていたのですね、確か。


ところが、憲法裁判所の決定がありながら、あらたに道路封鎖が行われた時に
警察が何のリアクションも取らなかったために更迭を要求する声がわーわー上がり、
こうしてメノカルは既に外堀を埋められてしまったのでした。


裁判所の立ち退き命令は2月5日に出ています。
執行のために与えられた期間は45日。
執行されたのは38日目のことでしたが、
立ち退き命令が12ヶ所に及んでいたことを考えれば
ギリギリの日程だったのではないかと思います。
警察曰く「地形とか状況把握に1ヶ月かかったんだよー」ということらしいですが、
それでいて死傷者を出してしまったのなら、もっとお粗末なわけで、
そのお粗末さの罪を問われて逮捕されたのが当時の警察特殊部隊(FEP)の隊長さんなのであります。
どうも人身御供的に見えちゃうんだけれど、きっと気のせいだろう・・・。


大体、この立ち退きは政府や警察が率先してやったわけではなく、
判事命令があったので、やりたくないけど仕方なく執行しただけですからね。


こうして誰にとっても不幸な立ち退き命令が執行されてしまったのでありました。



[ 2012/05/18 23:27 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

ロス・エスクラボス橋 

ロス・エスクラボス橋はアメリカ大陸で現存する橋の中でも古いものの一つなんだそうです。
建築されたのは1592年ですから、既に420年経っているわけですが、
度重なる地震や大雨による水害にあっても流されることなく今も現役というすごい橋。
(Wikipediaを見ると1579年に建設されたという記述があるのですが、
 1592年の方が正しいらしい。それとも1579年竣工で92年完成とか・・・?)


Puente Los Esclavos y Hidroeléctrica

橋の上の方に塗られている白がちょっと無粋だけど、コロニアルで美しい橋です。


ロス・エスクラボス (los esclavos) というのは奴隷という意味ですが、
この名前も橋と同様、植民地時代に由来します。
グアテマラにやって来たコンキスタドールのペドロ・デ・アルバラードは
この地域に住んでいた先住民であるシンカ族を征服すると奴隷にしてしまった。
なんでもシンカの抵抗はそれはそれは激しいものだったらしいですが、
マヤのテクン・ウマンのように伝説になっているわけではないですしね。


その当時奴隷たちが住んでいたいところは
今でもロス・エスクラボス村と呼ばれていまして、
この集落のあるところを通る川がロス・エスクラボス川、
川にかかる橋がロス・エスクラボス橋なのであります。


皆まとめて奴隷ですね・・・。
少なくとも川については、
植民者が来る前は別の名前があったと思うんですが、残っていないようです。


さて、奴隷となったシンカ族はエルサルバドル征服などに駆り出され、
それ以前は現在のハラパ県、サンタ・ロサ県、フティアパ県付近でかなりの人口がいたようですが、
その後急激に減少、10年前の国勢調査では16,000人となっていますが
シンカ語を話すのは1300人弱。これでも増えたんだそうです。


シンカはマヤともアステカとも関係のない、出自不明の民族と言われていますが、
言語学的にはホンジュラスやエルサルバドルのフォンセカ湾に近い地域に住む
レンカ族のレンカ語に類似しているという指摘があるそうです。
レンカ族で有名なのがホンジュラスのレンピラ族長。
ホンジュラスの通貨の名前となっている方で、
こちらもまたスペイン人植民者に抵抗したヒーローとして有名ですよね。


話がそれました。


さてこの地震にも大雨にも倒壊しないロス・エスクラボス橋には
建設にまつわる伝説がいくつもあるのだそうですが
そのいずれもが「この橋は悪魔が造った」となっているのがユニークと言えばユニークかも。


例えばこんな伝説。


むかしむかし、大金持ちの旦那が住んでおりました。
旦那には多くの奴隷が仕えておりましたが、
過ちを犯した奴隷には厳しい罰を与えることで恐れられておりました。


ある日のこと、奴隷の不注意で旦那が飼っていた子牛の一頭が死んでしまいました。
その奴隷は大いに恐れ、悪魔を呼び出して事情を話したのでした。
悪魔はその奴隷が善良で、キリストからこの魂を奪う価値があると判断すると、
魂を自分によこせば、一つだけどんな願いでも叶えてやると取り引きを持ちかけました。
奴隷は取り引きにのり、旦那の領地にある川に橋をかけてくれるよう頼みました。
その川には橋がなく、不自由していたのを知っていたので、
これで罰を免れることができるだろうと考えたのでした。
悪魔は奴隷の願いを聞き届け、手下らを呼び出すと作業に取り掛かったのでした。
翌日、奴隷が川に行くと、もう橋が出来上がっていました。
悪魔は自分の仕事を眺めておりましたが
奴隷は気付かれないように近づき、目の前で十字を切りました。
悪魔は悲鳴を上げると橋を2度蹴り、手下とともに消え去りました。
こうして奴隷は魂を守ったのですが、
悪魔が蹴った場所の石は何度元通りにしても、その度になくなってしまうのだそうです。


・・・弱っちい悪魔だな。


実際のところは、橋脚が菱形になっていて
激しい水流や倒木や石・岩にも耐えられるようになっているのだそうです。


ロス・エスクラボス川は雨が降ると水量も増えるし、流れも結構激しいです。
去年の大雨の時の写真はこちら
今は乾季なのでダム湖には水あるけれど、下流はこんな感じ。



Río abajo

岩がゴロゴロむき出しになって、両岸もえぐいですよね。
緑の家のちょっと下には土嚢が積まれていまして、
ちょいとやばそうな雰囲気でした。。。


この橋のところで周辺集落の排水も流れ込んでいまして、ちょっと臭かった。
ここから数キロ下流に行くと滝があるらしいんですが、
汚水やら何やら全部混ざって滝になっているのか・・・。


Nuevo Puente

この橋からパンアメリカンハイウェイにかかる新橋の方を眺めるとこんな風景。
この橋の方はバルタサール・デ・オレナ橋とかいうらしいです。
せいぜい数百メートルしか離れていないと思うのですが、高低差はかなりあります。
これだけの高さがあって、橋脚がないので大雨が降っても流されない。


このロス・エスクラボス橋、グアテマラシティからエルサルバドル方面に向けて
パンアメリカンハイウェイ、グアテマラ風に言うところのエルサルバドル街道をひたすら走ると
66km地点をちょっと過ぎた辺りで新橋に到着します。
進行方向の左手(上流側)にこのロス・エスクラボス橋、そのちょい奥にダムと発電所。
「グアテマラで一番アクセスしやすいダムと発電所」はここじゃないかな。


Hidroeléctrica de Los Esclavos

小じんまりとした発電所ですが、発電機は7MWのものが2基あるそうです。
と書いていても今ひとつピンとこない私ですが、
発電はもとより、雨季の治水にも活躍しているダムで、ダム湖はかなり大きいです。
てか、川のかなり上流までダム湖状態。
でもまださほど雨が降ってない時期でこの量だと、
雨降りだすとどうなるんだろう、とちょいとばかり素朴な疑問。


Represa y su embalse

えー、治水、発電の他、水浴も可能です!(おすすめはしませんが)


この橋のあるところ、
地名で言えばサンタ・ロサ県クイラパ市(アメリカ大陸の中央地点らしい)のロス・エスクラボス村で、
標高はGoogle Earthによれば730m程。暑かったです。


サンタ・ロサと言えばレストランで良く見かけるメニューはモハラ(ティラピア)のオイル焼き。
湖で捕れるのか養殖しているのか、多分湖で捕れるのではないかと想像。。。
お頭付きがででん!と出てくるので、一尾食べきるのはちょっと苦しいですけどね。
橋の近くにはちょっとしたレストランや宿泊設備も備えたトゥリセントロもあったりします。


こちらは番外編。


Chorro para la comunidad

橋のたもとにあった、共同水道。
壺を持ってここまで水汲みに来る人を見かけました。
この付近では各家庭に水道がついてるわけではないってことですね。


Pueblo Nuevo Viñas

パンアメリカンハイウェイ沿いのパイナップル屋台。
サンタ・ロサは海岸から標高1000m超まであって、バラエティに富んでいます。
プエブロ・ヌエボ・ビーニャスという町への分岐点近くなどに屋台がよくあります。
安くて甘くておいしい!
という訳で買って帰って来たのは言う間でもありません。


<参考>
El Puente de Los Esclavos: http://www.angelfire.com/pq/yo1/leyendas3.html
Prensa Libre "Puente Los Esclavos aún continúa en pie (06/06/2010)": http://www.prensalibre.com/noticias/Puente-Esclavos-continua-pie_0_275372508.html
Fenómenos Extraños Sin Resolver "Puente los Esclavos": http://fenomenos30.wordpress.com/2009/08/17/puente-los-esclavos/
Wikipedia "Río Los Esclavos": http://es.wikipedia.org/wiki/R%C3%ADo_Los_Esclavos



[ 2012/05/14 23:50 ] 街角 | TB(0) | CM(0)

ポロチクの鍵-ポロチク地方のこと 

最近、夜あまり時間が取れなかったりして、ちょいと日があいてしまいましたが、
今日はポロチクの話の続きです。


2011年3月15日に立ち退き命令が執行されたわけですが、
その数日後、3月21日にエル・ペリオディコ紙に掲載された
フアン・ルイス・フォントの「ポロチクの鍵」と題されたコラムを取り上げてみます。


全文は次の通り。



大統領夫人はカルロス・ウィドマンを執務室に迎えた。


その目的は、砂糖の生産やエタノールによらないバイオマス発電のため、
2005年にアルタ・ベラパス県ポロチク川流域に引っ越してきたインヘニオ・グアダルーペの土地の不法占拠の背後に、
彼女がいないことをはっきりとさせておくことである。
ウィドマンが経営するグループ会社がその地に所有する37の農場の内、17カ所が占拠されていた。


侵入者らはサトウキビ畑や小規模の森林保護区合わせて1500ヘクタールを破壊した。
農民グループの間には、大統領夫人サンドラ・トーレスが不法占拠を支持していると書かれたビラが出回っていた。
指導者らは政府が土地購入のための代金を支払ってくれると信じていた。
大統領夫人は内相に同席を求めた。
内相は立ち退き命令を出せるのは裁判所だけであることを説明した。
この命令は2月5日に出され、当局には45日の執行期間が与えられた。


政府は警察の特殊部隊を準備させるのに時間を必要とした。
一方で、農民統一委員会(CUC)、Conic、Uvocといった農民組織に
農民たちが自主的に立ち退くよう説得してほしいと伝えた。
当局が行ったと言っているこの呼びかけは、無視された。


その日が来た。
コロン大統領自らが指示を出した。
現在のところ、12の農場が明け渡され、農民1人が亡くなった。
政府全体が-検察も含めて-立ち退き執行に加わっていた。
人権擁護官すら、遅ればせながらではあったが、これに賛成の立場を示していたのである。


指摘しておくべきは次の2点であろう。
1つは選挙前のどさくさに紛れて、トーレス-コロンも-が制度への忠誠を示したという点。
私有地は当局によって保護される。
トーレスを批判する人達は、トーレスがウーゴ・チャベスの支持者であり、
その流れに乗ろうとしていると批判するが、
農民を立ち退かせる兵士や警官の長い列の映像はどんな言葉よりも雄弁である。


もう1つは現代に限った話ではないが、より喫緊といえる。
何世紀にもわたってそこにありながら、政治の世界では重要視されてこなかったからである。
農村には土地や仕事をもたず、飢餓状態にある人が何千人もいる。
アブラヤシ、サトウキビ、麻薬組織の畜産業といったものが繁栄する一方で
土地の寡占と低賃金はここ10年ばかり息を吹き返してきているにも係わらず、
政府がこれについて一言でもメンションしたことはない。
土地問題を解決しようとする試みはすべて失敗に終わっている。
最近では土地基金(Fontierra)によるプロジェクトが
ほとんど実りのないまま大規模詐欺に変貌しようとしている。
農村から都市への人口流入は著しく、貧困の環は日毎に大きくなっている。
土地を持たない農民から占拠代金を徴収する詐欺師もいる。


それ以外は大したことではない。
すべて、ペドロ・デ・アルバラードが文明化のためにやってきた時と、ほぼ同じままである。


今日は私のコメントははさみませんが、
フォントのコラムにあったコメント欄からエドガル・モラレスのコメントを紹介しておきます。



3年ほど前のこと、自分が働いている商店の前でインディヘナの一家が座って
トルティーヤとアボカド1個を分け合っていました。
私は市場でチチャロンを買ってきたところでしたが、
その一家が5人で、トルティーヤ10枚とアボカド1個を分け合っているのを見て
職場の皆で分け合おうと思っていたチチャロン2ポンドとトルティーヤ20枚を分けてあげました。
彼らはありがとう、と言いました。
驚いたのは次の日です。
彼らは同じ場所に座っていましたが、今度は食べているのではなく、
野菜の箱やら何やらをそこで売るために並べているところでした。
申し訳ないけれど、そこは店の駐車場だから物を売ることはできない、
と言ったらこう言われました。
あんたは他人のものを横取りする金持ちで、
わしらが自分の作物を売って生計を稼ぐのがイヤなんだろう、と。
私は作物を売ることに反対しているわけではない、
ここは店の駐車場だから他の場所でやってくれと言いました。
彼はこう言いました。
わしらは貧乏だから、どこでも好きなところで物を売る権利がある。
私は考え込みました。
そこにあった野菜や果物は-まだ作物を積んでいたトラックは含まないで-
10,000から12,000ケツァル程で、これだけの野菜や果物を持つ貧乏人とは、と。
インディヘナは警察を呼んでも構わない、でも血が流れずにすむとは思うな、と言いました。




[ 2012/05/13 18:44 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

コーヒーツアー 

ポロチクの話はちょっと置いておいて、
昨日行ってきたフィラデルフィア農場のコーヒーツアーが面白かったので、
忘れないうちに書いておこうと思います。


そんなわけで備忘録な今日のブログ。


フィラデルフィア農場はアンティグアの隣町、
サン・フェリペ・デ・ヘススにあるコーヒー農場です。
現在のオーナー、ロベルト・ダルトンの曽祖父が1866年にこの農場を購入した時は
ノパールサボテンを栽培している農場でした。


Nopal

ノパールに寄生するコチニールというカイガラムシから抽出される染料が
その頃は良い値で売れたのだそうですが、
1869年にドイツで化学染料が売り出されるようになって、
コチニールを使った染料の値段は暴落、
その後コーヒー農場へと転換を図ったのだそうです。


1874年にフスト・ルフィーノ・バリオスが大統領となり、
この時代にコーヒーの生産が国策として進められていきます。
ダルトンのひいおじいさんは既にコーヒーを実験的に栽培していたそうですが、
政府から周辺の小さな農家に配るためのコーヒーの苗を栽培するよう依頼され、
いつの間にかコーヒー栽培のパイオニア的存在となっていったのでした。


さてそうして始まったコーヒー農場でしたが、
現在フィラデルフィア農場の敷地は約300ヘクタールで、
大きくもなければ小さくもない、中規模のコーヒー農場だとか。


アンティグア付近(まあグアテマラ全体と言ってもいいかも)は
肥沃な火山灰性の土壌で、コーヒー栽培には適しています。
しかし、この肥沃な火山灰性土壌を好む線虫が、
アラビカ種のコーヒーが大好きで、根っこに住みついては枯らすんだとか。


ここらで栽培されるコーヒーの品種にはアラビカ種とロブスター種がありますが、
ロブスター種は丈夫なものの、味ではアラビカ種に及ばず、
アラビカ種は良質なものの、数年経つと枯れてしまう。
だからと言って、農薬を使うわけにもいかないし・・・、
と結構困った問題になっていたのだそうですが。


それを解決したのがエフライン・ウンベルト・レイナさん。
「ロブスターとアラビカを繋げればいいじゃないか!」
というわけで、根っこはロブスター、上はアラビカの2つの種を接ぎ木したところ
これが見事に成功。
というわけで、ここフィラデルフィア農場では今でも
コーヒーの苗木は「下ロブスター、上アラビカ」を繋ぎあわせているのであります。


Retoño

これ、実物をよーく見るとわかるのですが、
茎のところをテープで留めてあるんです。
この作業は専ら女性が担当するそうですが、1時間に150本できちゃうとか。
すごいスピード・・・。
もっとも、支払いが1件いくら、なんだそうで、早くやらないとお金にならないわけですけれどもね・・・。


Retoños de café

この辺はもう少し大きくなった苗木たち。
ずらーっと並んで、出番を待っているわけであります。
4年でやっと収穫できるようになるのだそうで、
モモクリ3年コーヒー4年。気の長い話だわ・・・。


この農場の収穫期は11~3月がメインで、
5月ともなればご覧の通り、もう実はほとんどついてない状態。


Tallos

この、実がついていた部分をちゃんと残しておかないと木が枯れてしまうのだそうです。
実をひとつひとつピッキングしないといけないので、収穫は手摘み。


収穫期には150人が働くといいます。
メインの収穫期は終わったとは言え、まだ若干実が残っており、
収穫作業はまだ続いていました。
大型バスが2台止まっていたのですが、
あれはきっと作業員の通勤用に手配しているんじゃないかな。


途中、子供の姿も見えたのですが、すかさずガイドさんが一言。
「子供の姿が見えますが、子供は働いているわけではなく、
 親と一緒に来ているだけです。
 親が働いている傍で遊んでいてくれる方が、親も安心ですからね。
 子供の方は親の仕事を見て、自然に覚えていきますよ」。


ええ、ええ、もちろん児童労働じゃありません、って皆言いますってば(爆)
ま、今回はその話ではないので置いておいて。


コーヒーのプランテーションは、結構密に木が生えていまして、
木と木の間を歩くの、思ったより大変でした。
そんなところでコーヒー摘みをして、収穫量に応じた賃金をもらうのだそうで、
収穫作業をする人たちがズルしないよう監督するカポラルがいるといいますが、
こんな見通しの悪いところでちゃんと見えているのかな?とか思ったり。
詰んだカゴの中身を見れば、ある程度はわかるのかな?


ちなみに、私のツアーは南米のあちこちから来ている人たちのグループだったのですが、
このカポラル(caporal)という言葉が少し話題になっていました。
曰く、カポラルは家畜を農作業に使う人のことを指すのであって、
人間を使う人のことはカパタス(capataz)って言うんじゃないの、だそうで。


確かにレアル・アカデミア・エスパニョーラで引いてみてもそうなっていて、
つまり、グアテマラではこういう作業をする人たちは動物扱いなのか・・・(涙)


Fruto de café

コーヒーチェリー。
濃い色の実が完熟で、ちょっと明るい色のはまだ早いのだそうです。
ブドウのような色ですよね。


この外の皮、ちょうどブドウのように押し出して中身を出すことができます。
中の硬い種(コーヒー豆)の周りに、甘みのある果肉があって、これ、おいしい!
でもコーヒーの実のカフェインの90%はこの部分にあるんだそうで、
いくつもしゃぶるのは止めた方が良さそうな・・・。


摘まれた実はこの後倉庫へ持って行って
洗ったり乾かしたり更に薄皮を剥がしたり
大きさや色で選別したりという作業が行われます。
品質はほぼ色で決まるのだそうで、
ちょうどグアテマラで取れる翡翠のような、濃い緑色をした物が最高級品。


Cosecha

パッキングされていたのは日本向けの豆でした。
このツアーの後で、コーヒーの試飲もあったのですが、美味しかった!
実は、過去にここでコーヒー飲んで美味しいと思ったことなかったのですが、
この日はツアーの前にも試飲でも飲ませてもらって、美味しいと思いました。
何が違うのか、ま、多分私の舌が変だというのが一番可能性高そうですが・・・。


ここはスターバックスにも豆を卸していまして、
グアテマラ・アンティグアという名前で販売されています。


この農場、今ではコーヒー栽培だけではなく、
こうして観光農場としてコーヒーツアーの他、
バードウォッチングなどもできるようになっていますし、
ホテルやレストランもあるので、
グアテマラシティやアンティグア辺りから行く人も多いですし、
最近はイベントも受けているようで、結婚披露宴なんかも可能ですよ、皆さん!


Fumarola

晴れてればこんな感じで気持ち良し。


コーヒーツアーは$18と、少しお高めな感じはしますが
(この農場内、大体なんでもお高めかも)
ガイドさんは知識豊富かつユーモアのある方で、
2時間があっという間でした。
もっとゆっくり見たかったかも~。


そんなフィラデルフィア農場のコーヒーツアーの感想でした。



[ 2012/05/06 23:43 ] 雑談 | TB(0) | CM(4)

排除命令の執行-ポロチク地方のこと 

ポロチク地方のチャビル・ウツァフ所有の農場を占拠している農民達の
強制排除が執行されたのは2011年3月15日の朝のことでした。


1年ちょっと前の出来事ですが、
実は私には全然記憶になかったのでした。
「またか」と思ったのもあるかもしれませんが、
東日本大震災直後のことで、自分に余裕がなかったのかも。
そんなわけでその頃のニュースからあれこれ探してみたのが以下になります。


3月にチャビル・ウツァフは裁判所に農場を占拠する農民の排除命令を要請し、
判事はこれを認めます。この時出された排除命令は12件。
最初の執行が行われたのが3月15日のミラルバイエとアグアス・カリエンテスでした。


チャビル・ウツァフによれば、その年の8月には
18ヶ所が農民に占拠されていたのだそうです。
その頃既に経営が成り立たなくなっていたチャビル・ウツァフは
所有する37農場が競売にかけられたのですが(最低入札価格が$3億200万)、
「売りに出されるんなら、自分たちのものに」と思ったのかも?
まあその頃から農地の占拠が増えたのだそうです。


2011年3月と言えば、ニカラグアのグルーポ・ページャスが経営に乗り出した時期。
3月24日には発行済み株式の88%を入手しており、
企業側の理屈としては、そりゃそうだろうな、という気もするのでありますが。


さて、その3月15日の朝8時頃、警官と軍隊の一団がやって来て
農民らに自主的に出て行くよう求め、農民側はこれを受け入れます。
「私らは出て行くことにしました。
 でも10時頃、持ち出す物を準備していた時に
 農場が雇った一団がやって来て、持ってたものを全部叩っ切り始めました。
 マチェテや棍棒で私らを道路まで追い出し、
 物を取りに帰ったら石を投げてきました」。


この地域はトウモロコシの二期作が行われているのですが、
3月ですとトウモロコシはかなり大きくなって実をつけていたのではないかな。
その作物はすべて荒らされ、住んでいたあばら家も荒らされて火がつけられ、
農民らはわずかに持っていたものを失ってしまいます。


更に、騒動が大きくなったために警官と兵士(CUCによれば合わせて600名)が鎮圧にあたるのですが、
この時、男性1人が亡くなり、4人が負傷しています。


この件では、当時警官隊の指揮に当たっていた
FEP(警察の特殊部隊)の指揮官ペドロ・ゴンサレス・ロドリゲスが
1年後の今年4月12日に自首、現在も拘留中です。
容疑は超法規的処刑。


超法規的処刑というからには、ゴンサレスが「殺せ」と命じて
部下がそれを実行したということなはずで、
何で傷害致死とかじゃなくて超法規的処刑なのよ?と思うのですが、
その辺りは多分裁判が始まれば少し明確になってくるのかも。


何にしても、「警官が」「それも部隊の責任者が」「自首した」ということに
かなりびっくりしたのを覚えていますが。。。


というところでもう少しこの時の出来事を突っ込んでみるのが次回の予定です。
(長いシリーズになりそうだ・・・)



[ 2012/05/05 22:54 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

すれ違う主張-ポロチク地方のこと 

長い長い前置き(のようなもの)が続いた後で、
やっとパンソス農民の話になります。


パンソスのベーヤ・フロールという農場を占拠する農民たちと
農場主、市長にそれぞれインタビューした、
2011年1月のエル・ペリオディコ紙の記事を取り上げてみたいと思います。


このベーヤ・フロールという農場には
ケクチ族の農民が農場の一部を占拠して共同体を作っています。
この農場は、現在はチャビル・ウツァフのものとなっているのですが、
農民たちはビニールシートで覆っただけのテントで雨露をしのぎながら生活をしています。


そんな貧しい共同体でも、夜は交代で警備に当たります。
いつ何時、立ち退きを求めているチャビル・ウツァフ側の人間がやって来るかわからないから。
夜警に立っていたフリオ・カアルは土地紛争でおじを2人亡くし、
彼自身も銃で撃たれて手の一部が欠けているとか。
「私らは銃は持ってません、マチェテだけですが怖くはないです。
 私らはここにいる権利がありますからね。
 12歳の時から働いてるんで。ここで育ったんですよ。
 私らはここでトウモロコシとフリホールを育てて
 子供達を養いながら静かに暮らしたいだけです。
 この3年で3度立ち退きさせられましたよ。
 元々あんまり持ってる物はありませんでしたが、全部焼かれてしまいました。
 今では何にもありませんわ」。


ここの人たちの多くは元パンソス市長のフラビオ・モンソンが
このベーヤ・フロール農場を経営していた時に
モソ・コロノとして働いていた人たちなのだそうです。
「あの旦那は乱暴な人だったです。
 誰かが仕事もせずに通りを歩いていたら、農場に連れてきて働かせるんです。
 銃で脅されました。ありがたいことに、もう死んでしまいましたけれどね」。


交代で夜警に立ったサムエル・ククルによれば、
モンソンが農場を息子たちに分割した時、
労働者への清算を行わず、
労働者ごと土地を分割し、息子たちが労働者を追い出したのだとか。


グアテマラの労働法では、雇用主が労働者を解雇する場合、
賠償金(日本で言うところの退職金)が支払われることになっていますが、
そういうものもないまま住んでいた農場から追い出されたと言うわけです。
彼らには他の仕事のアテがあるわけでもない。
他の農場で一日働いてもせいぜいQ25~30しか支払われない。
そこで自分達の「権利」を主張して、
元々働いていた農場の一角に住むことを決断した、ということのようです。


さて、ベーヤ・フロール農場はフラビオ・モンソンが娘アミンタに譲渡したものでしたが
兄(弟?)のエクトル・モンソンはこうコメントしています。
「あの農場は3度も占拠されて、どうしようもなかったんで
 アミンタは売却することにしたんですよ。
 警備員もいたけれど、武器を持ってやって来て、警備員に発砲するんです。
 あいつらは政府が農場を買うための金を出してくれるのを待ってるわけですよ、
 でも政府には土地を占拠する農民全員のための金はありませんからね」。


「国には私有地を保護する義務があり、無断で侵入してくる人物を排除する責任があります。
 農民の手に国の農業を任せたら、生産性はどん底になりますよ。
 サトウキビ、コーヒー、アブラヤシは輸出用作物です。
 農民は自分達の分しか作りません。教育も足りないし。
 50年前、私が学校に通っていた時はスペイン語だけが公用語でした。
 農家の子供も、学校に来ればスペイン語を覚えざるをえなかったのです。
 今じゃ彼らの言葉で授業が行われるじゃないですか。
 これでは進歩は覚束ないですね」。


「政府のコントロールは日に日に弱くなっています。
 土地占拠の問題が解決しないようならば、土地所有者と占拠者の間で
 深刻な状態になりますよ」。


度々立ち退き処分にあってきたベーヤ・フロールの共同体の農民は
自分達の食べ物すらなく、
他の共同体で余ったトウモロコシを分けてもらっている状態だとか。
そんな状態では食料が十分にあるわけもなく、子供達は栄養失調、
下痢や風邪にかかったとしても、薬を買うお金があるわけでもなく。


共同体の一人は
「もしもう一度追い出されるようなことがあれば、ゲリラにでもなった方がマシだ。
 もうこんな生活には飽き飽きした。
 私らはいつも礼儀を守って話をするのに、農場主は全然わかってくれない。
 私らの権利を尊重してさえくれれば、安心して生活できるが、
 そうじゃなかったら私らの祖父や父がやったと同じように立ち上がるしかないだろう」
とまで言っています。
もっともそれが皆の総意というわけではないようですが。


ククルはこう言います。
「いつもいつも、私らが土地を占拠していると言われるが、それは違う。
 私らはここで生まれたんですよ。
 サトウキビの連中の方が後から無断で侵入してきたんです。
 あの人たちは遠くからやって来たんですよ。
 皆、連中が土地を買ったんで残念に思っています。
 連中はパンソスの市長とグルになって、私らと敵対するんです。
 でも、一体どこに行けと言うんでしょう?」


サトウキビやアブラヤシの大きなプランテーションが出来上がった結果、
農民が自分達のための作物を栽培することができる土地は
ほんのわずかになってしまっているのです。


パンソス市長のリカルド・ルンムレル(当時)はドイツ系で
この地区に大きな影響力を持つ農場主の一人でもあります。


「市ではポロチクへの投資を歓迎しています。
 企業は住民に仕事をもたらします。
 市の人口は65,000人で、大半が貧困の状態にあります。
 市はいろんな企業と活動し、最低賃金を上げることに成功しました。
 以前は支払いはごくわずかでしたが、今では法律の規定通りに支払われています」。


「トウモロコシを栽培する人たちは同じ土地で働いています。
 私たちは土地を横取りしたわけではありませんし、
 土地の用途を変更したこともありません。
 農場を占拠している人たちは土地を持ってないと言いますが、
 土地を手にしても、結局売りたがるんです。
 仕事があればあるほど、こういう状況は減るでしょう。
 ですから、企業が鉱業やサトウキビ、アブラヤシやそういうものに
 投資してくれる方がありがたいわけです」。


「農民が土地を売ってしまう」というのは
確かに実際にあったことのようです。
内戦後、国有地が農民のための土地として売却され、
農民一人ひとりに権利書が渡されたわけですが、
その土地をプランテーションに売却したケースはあるのだとか。


やっと手に入れた土地を手放す理由が何なのかは不明ですが、
一時的にまとまったお金を入手し、
プランテーションで働くようになった後で後悔し、
他人の土地を借りてまたトウモロコシ栽培に戻る人たちもいるそうです。


また、土地の購入を狙っている側の人が
その土地の権利を持っている人に嫌がらせをして
売却せざるを得ないように仕向けることもあり、
市長が言うほど簡単な話ではないと思うのですが。


とにかく、お互いの主張はどこまで行っても平行線、
というよりはお互い別の言語で会話でもしているような、
そんな無力感を感じます。
農場主らが「あいつらは学のない農民だ」と言えば
農民は「あいつらはよそ者だ」と言う。
農場主らが「ここは私有地だ」と言えば
農民は「私達はここで育ったんだ」と言う。
直接顔を合わせて会話しているわけではないだけにお互いの主張が際立つのでしょうが
水と油のように異質なものを混ぜあわせてしまって収拾がつかなくなったような感じです。


土地問題はもちろん元々植民地政策に由来するものであり、
独立後は貧富の差、そして民族差別により助長されたものですが、
お互いに、相手の文化や価値観への理解、
少なくとも相手の立場を理解しようとする姿勢なしには
解決の糸口すら見つからないように思います。


この記事、最後にダリオ青年の話が出てきます。
ダリオは15歳の女性と結婚を考えている若者です。
でも、家族に対する責任、例えば
服や食べ物を買ってやれるかとか、
父親としての子供に対する責任とか、
そういうことを考えると「怖いというよりは恥ずかしい」のだそうです。


ダリオは数年間小学校に通ったことはあるけれど、
避妊については知識がなく、
女性の生理についても
「保健所で月に一度我慢しないといけないと言われた」という程度。


そういう彼が家庭を築き、
食料や衣類に困らず、
子供を学校に行かせて、
具合が悪ければせめて薬を買うだけのお金を得て暮らせるためには何が必要か。


ダリオが求めているのは、
「自分の土地を耕し、家族のための食料を栽培して、
 残ったものを市場で売って現金収入を得る」というささやかな暮らし、なのですが。



[ 2012/05/01 23:52 ] ニュース | TB(0) | CM(0)