社会的側面-ポロチク地方のこと 

農地紛争と言うとぱっと頭に浮かぶのは
農民が農場の一画を占拠して住み着き、
それに対してオーナーが撤去を求めて手続きを行い、
警官隊がやってきて強制排除、で時に死者や負傷者が出るという話。
国内あちこちで起こっていますが、
アルタ・ベラパス県は紛争がもっとも多いところなのだそうです。


農場の占拠と一口に言いますが、3つに大別することができるのだとか。
1つ目は、荘園的農場で働くモソ・コロノが起こすもの。
オーナーが給料(現物だったりお金だったり)を支払わないとか、
約束していた額ではないとか、解雇されたとか、
そんな時に自分の権利を求めて行うもの。


2つ目は土地の権利書に類似する昔の書類を持っている農民が
自分の権利を主張するもの。


3つ目は、土地を持たない農民らが、
自分の土地を手に入れるために、農場主に圧力をかけるもの。


この3つが混ざり合ったタイプのものもありますが、
大体こんな感じなのだそうです。


こういう農場占拠は内戦も終盤に差し掛かった
1992年以降から多くなっています。
1992年はちょうどコーヒーの国際価格が急落した年でもあり、
この時期に農場経営を放棄した人も少なくありません。


CONIC(全国先住民及び農民コーディネーター)が誕生したのも1992年。
この団体は特に先住民支援を目的に創設されたもので、
当時から現在に至るまで、先住民や農民の土地要求に大きく係わっています。


1996年の最終和平合意の調印に至る過程で
政府とURNGの間でたくさんの合意文書が作成されていますが、
その一つ「社会経済の様相及び農地の状況に関する合意」では
政府が土地基金(Fontierra)を創設し、零細農家から中規模農家に対し
国有地、国に権利のある元国有地、
国が購入する土地、外国政府などの支援により国が購入する土地などを
低利で購入できるよう便宜を図ることとされ、
実際にはトラブルも多々あったようですが、
多くの農民が土地を入手することとなりました。


それだけで解決するなら簡単なんですけれどもね。
解決しないからその後も農場占拠が続いて、現在に至るわけなのであります。


なかなか進まないポロチクの話ですが、もう少しお付き合い下さいませ。



[ 2012/04/29 23:58 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

パンソスの農民の歴史-ポロチク地方のこと 

ポロチク地方は農民の苦難に満ちた土地でもあります。


自由主義改革を行ったフスト・ルフィーノ・バリオス大統領時代(1873~85年)、
法改正が行われ、先住民の土地の多くが奪われたことがありました。
ケクチ族の多いパンソスの町も、ドイツ人移住者の土地となり
先住民は農場で働く労働者となったのでした。


このコーヒー、バナナ、カルダモンといった商品作物を生産する農場の労使関係は
植民地時代そのまま、もっと言えば中世の荘園の領主と農奴そのままでした。
このような農場で働く労働者は農奴(mozo colono:モソ・コロノ)と呼ばれ、
農園の中に家や小さな畑を持っている代わりに労働力を提供します。


この中世的荘園経営が、今現在もなお続いているのですよね。
2008年の農牧業調査によれば、
国内にある778,566農場の内、5043が荘園経営となっています。
グアテマラ県 378
レタルレウ県 203
イサバル県 162
バハ・ベラパス県 493
アルタ・ベラパス県 3,807
圧倒的にベラパスが多い。


もっとも、以前のサトウキビ農場の話を思い出せば、
この農奴的生活ですらまだマシと言える気もしないでもないですが。


さて、話は1952年、ハコボ・アルベンス大統領の時代に移ります。


アルベンスの農地改革で、パンソスでは農民に2300ヘクタールの土地が提供されるのですが、
クーデーターによってアルベンスが倒され、
カルロス・カスティーヨ・アルマスが大統領になると、
折角のその土地もまた取り上げられ、農場主のものとなります。
市長であったフラビオ・モンソンが大規模な土地を手に入れ、
パンソス最大の地主となったものこの時のことです。


農民の土地への要求は高まり、
内戦が始まってゲリラが付近の山に潜むようになり、
1978年、パンソスの市街地から7kmほどのところに軍の駐留地ができます。


ママ・マキンと呼ばれたアデリーナ・カアルらが活躍し、
農民組織が発展したのもこの頃のことです。
農民らを恐れた農場主らは
「土地をくれと言っている農民が、農場に放火する恐れがある。
 農場の住人が危険にさらされる可能性がある」、
とどこぞの超大国のような文言で警備強化を要請、
こうして兵士ら30名がパンソスの多目的ホールに引越ししてきたのでありました。


国軍は農民組織はゲリラだと思っていたわけですが、
78年、そのゲリラな農民組織が土地を求めるデモ行進を行います。
その日、5月29日は付近の村や集落からも大勢が集まって、
マチェテや農作業に使う道具(鍬とか?)を手にした老若男女がぞろぞろと
パンソスの中央公園に着いたのは朝の8時頃のことでした。


しかし市庁舎の扉は閉じられ、兵士が警備に当たるものものしい様子。
周囲の建物の屋上にも銃を構えた兵士がいたそうですから、
そうとう警戒していたのか脅しだったのか、
それとも単にぶっ放すのが目的だったのか、その辺のところは謎です。


また、銃を持たない農民達を、どうして兵士らが撃つことになったのかも不明です。
わかっているのは農民が求めていたのは市長と話し合うこと、
市長は話し合いに応じたものの、混乱の中で話し合いは行われなかったこと、
53人が亡くなり、47人が負傷したこと。
一部の遺体はポロチク川に流されたといいます。


このパンソスの虐殺事件以降、
町には兵士が居座り、住民は山に逃げて町はがら~んとしてしまったとか。
1978~82年の間に、パンソスで行方不明となった人、処刑された人の数は310人に上ります。
共同体のリーダーへの嫌がらせや脅迫は続き、土地を要求する活動は弱体化。
この町で再びデモ行進が行われたのは1996年のことでした。


なお、虐殺事件があった当時、パンソスの市長であったワルテル・オベルディックは
麻薬組織と関係があるという容疑で本年逮捕されています。


和平調印後の農民達については、またあらためて。



[ 2012/04/27 23:48 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

俯瞰図-ポロチク地方のこと 

ポロチク地方の土地利用の資料です。多分2007年当時のもの。
クリックすると拡大します。




緑が自然保護区域、
赤がアブラヤシのプランテーション、
黄色がサトウキビのプランテーション、
その上にくねくねと青っぽいのがポロチク川で
右側(東)にはイサバル湖。
オレンジ色は市街地(住宅地)で、パンソスやテレマンの他、
小さな共同体がいくつか書き込まれているのが見えると思います。


自然保護区は南側(下の方)のラス・ミナス山脈と
ポロチク川がイサバル湖に流れ込むデルタ地帯と2ヶ所あります。
このポロチク川口、ボカス・デル・ポロチクは
ラムサール条約にも登録されている湿地帯。
その境界線まで押し寄せるアブラヤシプランテーション・・・。


これらのプランテーション、以前は牧畜をメインにした農場が多かったそうですが、
この地域は米の生産に向いていることから、
米作をやっている農家もあったそうです。
ただし現在残っているのは2つの農家だけだとか。


そういう農場を買ったり、または土地をレンタルしてどんどんプランテーションを増やしたわけですが
もちろんそこにはもっと小さな規模の自作農も住んでおり、
小さな共同体の人たちのささやかなトウモロコシ畑なども混じっているのであります。


もうちょっと続けようと思っていたのですが
眠くて頭が働かないので、中途半端ですが今日はここまで。


[ 2012/04/26 22:51 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

アブラヤシとサトウキビの間-ポロチク地方のこと 

ポロチク地域の土地紛争が最近始まった問題ではないのは事実です。


しかし、2005年にインヘニオ・チャビル・ウツァフがこの地にやって来て以来、
地元の農民との諍いが増えていたようで。


また、チャビル・ウツァフだけではなく、
スイス系のメグリ(またはマエグリ)一族が経営する
アブラヤシ農場の方も、同様の問題を起こしています。


メグリさんはスイス系移民の一族で、
コスタスールのコーヒー農場経営から始め、
やがて農業や建設用機械・重機の輸入販売を行うテクンという会社を持つようになり
現在ではアフリカ椰子、カルダモン、ゴマ、コーヒー等の輸出も扱えば
小売りもするし、宝石だって売っちゃうと
まあとにかく、非常に手広くやっている一族なのであります。


余談ながら、グアテマラにはヨットでオリンピックに出場した
フアン・イグナシオ・メグリという選手がいるのですが、
この一族のご出身っぽいですね。


さて、メグリさん一族は1960年にポロチク地方に進出、
70年代初頭に政府が畜産推進政策を取っていた時期に
エル・エストールの農場5つ、約4500ヘクタールを購入、
その後もエル・エストールやパンソスの農場を次々に購入し
付近に住んでいたケクチ族の農民は家を追われて農場労働者となっていったのでした。


メグリさん経営のINDESAがアブラヤシの栽培を始めるのは90年代半ばで
これから取れるパームオイルは、
カプーヨという商品名の食用油として販売されている他、
バイオディーゼルにもなっているのであります。
グループ内で機械や重機を扱っている会社があるわけですから一石二鳥系ですよね。


という事情で、このポロチク地方、
アブラヤシとサトウキビという商品作物を生産する大規模農場が同居する、
伝統的マヤな生活とはまったく趣の異なった、
「コスタスール風味」な地域に変貌してしまったらしいです。


インヘニオ・チャビル・ウツァフ、Chabil Utzajは「良いサトウキビ」という意味らしいですが、
こちらの方は土地紛争やら思ったよりも生産量が上がらないやらで、
中米経済統合銀行(BCIE)からの融資を返済できなくなり、2008年に操業停止。
しばらくはさりげなくサトウキビが生産されていたようですが、
昨年初めにニカラグアのグルーポ・ページャスがチャビル・ウツァフの救済に乗り出すと発表。


でこのグルーポ・ページャスてのがまたタダモノではない会社なのであります。
何と言っても中米最大規模のサトウキビ由来のエタノール生産・輸出企業であり、
ニカラグアにはNicaragua Sugar Estate Ltd.という大それた名前の会社の他、
車のディーラーやら病院やら銀行やらいろいろ持っていて、
ホンジュラスにはサトウキビ農場と製糖工場を
グアテマラにはIBMの代理店を持つなどなどしているわけですが、
多分一番有名なのはニカラグアのフロール・デ・カーニャっていうラム酒ではないかな。


そんな超巨大企業を味方につけてというか身売りをして、
(背景には上流階級の姻戚関係やらお仕事関係やらがぞろっと並んでるようですが)
チャビル・ウツァフの再生を図ろうというのが会社側の意図。
こうして昨年から土地紛争が更に激しくなって来たのでありました。


ポロチクの人たちの様子を映したビデオがあったのでここに貼って今日はおしまい。
どうもモルモン教の宣教師さんたちのビデオみたいだけれど・・・。
好奇心丸出しの子供達が可愛いけれど、しかし皆裸足ですね・・・。





[ 2012/04/24 23:10 ] ニュース | TB(1) | CM(0)

人にはどれだけの土地が必要か-ポロチク地方のこと 

ポロチク川はチャマ山脈とラス・ミナス山脈に源流があり
タマウ、トゥクル、テレマン、ラ・ティンタ、パンソスといった町を通り、
パンソスでカアボン川と合流し、イサバル湖に流れ込む水量の豊かな川です。長さは194km。


パンソスと隣のエル・エストール付近は北をチャマ山脈、南はラス・ミナス山脈に挟まれた低地で
ポロチク川が大きく蛇行しているこの地域は
Valle de Polochic(バイエ・デ・ポロチク)と呼ばれています。
Valleと言っても谷間でも盆地でもないし(東側はイサバル湖)
谷とか渓谷とか言うのはちょっと違うんじゃ・・・と思うので、
とりあえずここではポロチク地方と無難に呼ぶことにします。


パンソスの標高は18m。
アルタ・ベラパス県の県都であるコバンとよりも
ポロチク川をランチャで往来できるイサバル県の町々との方が縁が深そうな土地柄です。
以前は電車の駅があって、
アルタ・ベラパス県各地で収穫されたコーヒー、ゴム、綿花等を
大西洋側の港に送る中継地だったのだとか。


guate.jpg

地図はクリックで拡大します。
黄色のピン、Panzósと書かれているところがそうです。
白い線が県境なので、ほとんどイサバルなのがお分かり頂けるかと。
左の方の小さい飛行機マークがコバン、
左下の黄色いピンがグアテマラシティのアウロラ空港の辺りです。
Google Earthなどで探される場合は北緯15度23分、西経89度38分付近になります。


住民はケクチ族が多く、若干ポコムチ族がいるそうです。
ラディーノは多分少数派でしょうね。

 
首都から陸路で行こうと思うと、コバン経由かイサバル経由になりますが、
どちらもやたらと時間がかかる上、パンソス付近を通る道路はあまりいい道路ではないようで、
先月でしたか、知人がイサバルの方から車でパンソスを通りコバンまで行ったのですが
「すごい道だった」ってこぼしていました。
SUVでも通るのが大変なら、ウチのウサギの耳号ではとても通れないだろうな・・・。


さて、この付近の土地、以前は悪名高きユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFCO)のものだったそうです。
マヌエル・エストラダ・カブレラが大統領だった頃、UFCOがグアテマラに上陸、
UFCOが来れば国内のインフラ整備も進めやすいし、経済も発展する、
そう考えたカブレラは1904年、同社に対する税の優遇措置を与え、
建設途上で頓挫していた鉄道の建設をやってもらう代わりに運営を一任、
更には土地も提供したのでありました。


加えて、第2次世界大戦時、アメリカの圧力を受けて
当時の大統領であったホルヘ・ウビーコはドイツ人の土地を接収。
最初のドイツ人移民は1844年にグアテマラ入りしたそうですが、
それ以降、かなりの人数が移住しており、
アルタ・ベラパスのコーヒー農場など、ドイツ人が経営していたものが多かったのでした。
ポロチク地方についてはよくわからないのですが
その辺りも接収されてなぜかUFCOのものになったという話もあり、
そんなこんなで広大な土地を手に入れたUFCOですが、
一説ではポロチク川流域では1500カバジェリーアの土地を所有していたとか。
1カバジェリーアは大体45ヘクタール、つまり67,500ヘクタール、
だとすると675平方キロで、琵琶湖よりちょっと大きい面積。
てか、パンソスの面積が638平方キロだそうですから、それより大きいぢゃん・・・。
この数字、マジなのか(かなり疑わしい気がする)。
ちなみに隣町、イサバル県のエル・エストールは2,896平方キロ。
ここにPolochic Banana Companyが出来上がったわけですが、
土地の大半は使用されないまま、休耕地になっていたのだそうです。


そこに目をつけたのがハコボ・アルベンス大統領。
1954年の農地改革でこの土地を接収して国有地とし、
それを農民に分けていくのですが
この時かなりの土地を手に入れたのがフラビオ・モンソンという人物でした。
6期市長を務めており、その地位を利用したのだろうと思われます。


そんなポロチク地方にコスタスールでサトウキビ栽培をしていた
インヘニオ・グアダルーペが引っ越してきたのが2005年。
コスタスールでは競争が厳しく、小さなインヘニオでは太刀打ちできないというのが理由でした。
ポロチク地方は生産量こそコスタスール程ではないものの
土地の利用料や原料となるサトウキビ(多分人件費込みの数字のような)が安価に入手できるだろうという計算で、
ポロチク地方の37の農場、計3600ヘクタールを購入したのでありました。


・・・というところからこの物語は始まります。


インヘニオ・グアダルーペが購入して設立したのは
チャビル・ウツァフという会社と同名のインヘニオ。
インヘニオ・グアダルーペはウィドマン一族が経営していますが、
ウィドマン一族は19世紀末にドイツから移民として来た
カール・ウィドマンとスサナ・ルナ夫妻に端を発します。
コスタスールでのコーヒーやサトウキビ農場の経営で財をなした一族で
カールの孫のウェンディは元大統領オスカル・ベルシェの配偶者でもあります。
伝統的オリガルキーではないものの、
オリガルキーとも姻戚関係にあり、
そこに近い、つまり権力の周辺にいる人たち。


その一方で、土地の登記とか何も気にせず
先祖伝来の生活を守って畑を耕してきた人たちがいます。


何となく想像がついてしまうと思うのですが、
「権力者が農民の土地を取り上げてしまって、
 農民は耕す土地がないから農場で低賃金でこき使われ、
 自分たちの耕す土地が欲しいと主張、
 一方権力者は土地の権利書をもってここは自分の土地だと主張する」
という、かなり不毛な紛争が始まるのであります。


不毛と表現しては不謹慎だと怒られそうですけれど。


書きながら、
トルストイの「人にはどれだけの土地が必要か」という民話をふと思い出してしまうテーマではありますね。


というわけで、ポロチクの土地紛争の話、
多分これからしばらく続きます。



[ 2012/04/22 22:06 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

農民の行進 

コバンから214kmの道のりを9日間歩き続けて首都にやって来た農民のデモ行進。
先月もありましたが、今月もありました。


わざわざ農民を集めて嫌われ者のデモ行進をやるのは、
もちろん主催団体が自分たちの力を見せるためでもあるのでしょうが、
それだけ切実な問題を抱えているということもまた事実。
雨季直前の今は農閑期でもあるので、やるなら今のうち!
(何と言っても政府からもらえる肥料の配布がまだ行われていないことだし)
富者のような政治的圧力をかけられない貧者には
貧者らしく、でも世論にわかりやすい行動を起こす必要があるということらしいです。


ただ、近年やたらめったらデモ行進が多いので、
どこのだれが何のためにデモ行進やってるんだっていう
肝心のところが曖昧になりつつある気がしますが。。。


今回のデモ行進を組織したのはCUC(農民統一委員会)で
代表者が土地問題の解決などを求めて大統領や閣僚と昨日話し合い。


かなり長い時間、あーだーこーだと話し合いをしていたようですが
話しあえばすぐ解決するという問題なわけはなくて。
今回は両者間の合意には至らなかったことの方が多いのですが、
来月また話し合いが行われることが決まっており、
これを第一歩にして農民の土地問題が改善されれば良いとは思います。


CUCの要求は:
1. 和平合意の後政府機関より土地を購入した農民の債務返済の猶予
2. 鉱山開発、水力発電ダムの運用の見直し
3. ポロチク渓谷の土地紛争の解決
4. サンタ・マリア・シャラパンの土地紛争の解決及び空腹ゼロプロジェクトへの編入
5. チナハ山脈の土地紛争の解決
6. キチェーとベラパスの県境の確定
7. サンタ・マリア・シャラパン、サン・フアン・サカテペケスなどトラブルのある地域からの軍隊の撤退


中でもポロチク渓谷の話は昨年辺りから度々ニュースになり
深刻な様相を呈しており、
昨年3月に同地域を占拠した農民らの強制撤去が行われた時
農民が1人亡くなっており、
現場で警官隊の指揮にあたっていたペドロ・ゴンサレス(FEP隊長)が昨日自首しています。


内戦終わってもこの問題は全然進捗しないんですよねぇ。。。


グアテマラの近代史というのは、
どこかで必ず内戦の話に行き当たるようになっていて、
だからって内戦について調べてみると
今度は先住民の歴史や文化にぶち当たって
どんどんドツボにハマっていく仕組みになっています(笑)。


まだまだ私には理解できないことも多々あるのですが
機会を見てポロチクの土地問題の話も触れてみたいなぁ~と思っています。


とりあえず今日は予告編でした(笑)


[ 2012/04/20 23:58 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

グループ学習 

小僧も中学になって3ヶ月が経過。
そろそろ学校の授業や大量の宿題のペースにも慣れてきたような感じです。


そんな頃に出たのが生物のグループ課題。
テーマ毎にグループになってレポートをまとめ、皆の前で発表する、
ってとこまでは以前もあったわけですが、
今回はなぜかドレスコードが「正装」。
ドレスとかタキシード来てこいってわけじゃないですけれど、
制服のない小僧の学校は普段は皆Tシャツとジーンズとか、そんなラフな格好ばかり。
それが発表当日にはシャツと真っ当な(?)ズボンはいてこいってことで、
人前できちんと話す練習も兼ねているのかしら・・・と思ってました。


卒業式用に買った洋服の2度目の出番ができて良かった、と思ったのもつかの間、
着てみると既に小さくなっているではありませんか!
そりゃあ成長期だし、大きくなるのはいいことだけれど、でもね。
6ヶ月で同じ服が着れなくなるなんてのは、赤ん坊時代以来のような気がして
しばし感慨にふけってしまったのでありました。


という話をしたかったわけではなくて。


肝心の課題の方はグループ毎に違っていて、小僧グループは「依存症と性」担当。
これが生物なの?・・・と思わないでもないですが、
他のグループは「性行為感染症」とか「バイオテクノロジー」とか「ワクチン」とか、
わかるようなわからないような、わからないような、やっぱりわからないような・・・。


小僧グループの課題だと私なら「依存症による妊娠リスク」とか
「依存症と次世代への影響」とかを考えちゃうわけですが、
子供たちは依存症は依存症、そして性は性として調べた模様。
ちょっとユニークなのは依存症にポルノってのが入ってた(笑)。


「ポルノ依存症の害って何?」と聞いたら
「え?よくわかんないよ、でも良くないんじゃない」という返事。
本人達が納得してるのならそれでいいっか・・・。


性については妊娠・出産・中絶を取り上げていて、
そろそろ思春期の子供達なので、これは関心もあるところかも。
グアテマラは中絶禁止の国ですから、
尚更おおっぴらには語られないテーマでもあります。


ちなみに小僧は「アルコール依存症、ニコチン中毒」を担当。
比較的とっつきやすいテーマではあるものの、
突っ込めばいくらでも深くなっていくテーマを
どうやってまとめるか辺りに知恵を使っていた模様。
配布資料は簡潔に、発表ではパワポを使って丁寧に。
正装でのプレゼンの仕方もいつの間にか覚えてしまえる、
なんか一石二鳥系の課題でありますな。


1ヶ月近く準備期間をかけた課題も無事終了して曰く「まあまあだった」。
最近は何を聞いても「まあまあ」しか言わなくなってきた小僧ですが、
何がまあまあなのかと聞くと、どうやら言い忘れた個所があったらしい。
それでも自分なりに満足のできる物だったようで、
できることならその正装での発表も見てみたかった、
どうせならビデオに撮っておきたかったー、とか
親バカな私は思うのでありました。


[ 2012/04/19 22:41 ] 中学校 | TB(0) | CM(0)

責任の所在 - リオス・モントのこと 

リオス・モントが大統領になった頃の
アメリカの大統領はロナルド・レーガンでした。
前大統領のジミー・カーターがラテンアメリカの左傾化に比較的寛容であったのとは対照に
レーガン・ドクトリンを掲げて、ラテンアメリカ諸国への介入を進め、
左傾化を防ごうとします。


当時、グアテマラは既に内戦中でしたが
エルサルバドルは1980年に内戦突入、
ニカラグアは1979年にニカラグア革命が起こり、親米であったアナスタシオ・ソモサが倒され、
サンディニスタが政権を取ります。
サンディニスタ政権に対してはアメリカが資金を提供して
反政府組織(コントラ)を結成して内政干渉したのは有名な話ですが、
そういうアメリカの姿勢がこの地域の内戦を激化させたのは言う間でもありません。


実際にどの程度の関与があったのかは明らかではありませんが、
おそらく軍事顧問がいて、CIAスタッフがいて、
国及び国軍のオペレーション策定に参加していたのではないかと思うのです。


もちろんそれを実行するのがグアテマラ政府で
故に軍事行動において虐殺行為が起これば責任を取るのは政府あるいは軍幹部となるわけです。


記事中に出てきたプラン・デ・サンチェスは、米州人権法廷に提訴され、
国に責任があることが認められた、数少ない虐殺事件の一つです。
判決には被害者への賠償と加害者の責任追及が盛り込まれており、
そういう流れも後押しして国内での裁判が行われ
3月には加害者5人に懲役7710年の判決が出ています。


ここで加害者と呼ばれているのは、プラン・デ・サンチェスの軍務委員と
国によって組織された市民警備パトロール隊(PAC)の4人で、
正規軍の兵士は一人も含まれていません。
多分、4人とも地元の人であったために身元がわかったのだと思うのですが
これでいいのかという気がするのもまた事実。


プラン・デ・サンチェスに関して付け加えておくならば、
この村では男性はPACに入れという軍からの指示があったのに対し、
住民らがそれを拒んでいたことから「ゲリラの味方」とみなされ、
事件当日までに村から逃げた人も少なからずいたのだそうです。


軍務委員やPACの隊員らは以前から住民に嫌がらせをしていたのですが、
7月に入ると村の上空を飛行機が飛び、村はずれに爆弾を落としていくという
警告のような出来事もあったのだそうです。
7月15日には国軍の短期駐留地ができ、村人に特定の人物の消息を尋ねるなど、
不安な感じは高まっていったのでした。


そして7月18日の午後、軍務委員やPAC、兵士ら60人ばかりのグループが村に到着。
村の出入り口となる道をふさぐと、住民を一ヶ所に集めます。
男らが隠れたのに女達が残ったのは「兵士は女性や子供には何もしない」と思われていたから。


後は記事中に書かれていた通りです。


「住民の友、保護者であれ」とされた国軍が一度住民の敵となった後、
堰を切ったかのように虐殺の波が押し寄せ、
まるで止まることが不可能であったかのようでした。


この間に何があったのかは不明。
この辺りをクリアーに説明できるような資料を私は見つけていません。


私はリオス・モント自身が虐殺を命令したことはないのだろうと考えますが、
リオス・モントが告発されたことで、
どうしてこれほど多くの虐殺事件が起こってしまったのかなどが明らかとなり
責任の所在がはっきりしてくれればいいと願っています。


なお、数回に分けてアップした「戦いを好まなかった将軍」、
誤字、誤訳等を訂正した後、
PDFにしてアップしてみましたので、宜しかったら見て下さいね。
Issuuのサービスを使ってみたのは始めてなので、今一つ使い勝手がよくわかってませんが。
タイトルは「戦おうとしなかった将軍」に変更しています。
http://issuu.com/xiroro/docs/001


Worse than war - リオス・モントのこと 

ホセ・エフライン・リオス・モントが権力の座についたのは1982年。
前任者であったフェルナンド・ロメオ・ルカス・ガルシアもやはり士官学校出身の将軍で
その前任のケル・ラウヘルド大統領時代には
1976年の大地震後の支援活動に当たったり、その後国防相を務めた人物です。


ルカス・ガルシアの大統領在任中にはスペイン大使館焼き討ち事件の他、
野党勢力などの暗殺事件(コロン前大統領のおじ、マヌエル・コロンが暗殺されたのものこの頃)が相次ぎ
グアテマラの内戦が血まみれとなっていった時代でもありました。


1982年3月7日に行われた総選挙で与党のアンヘル・アニーバル・ガルシアが当選します。
しかしこの選挙結果は不正なものだという指摘が各方面から相次ぎ、
このような背景で若手将校がクーデターを決行(CIAがバックについていた模様)、
担ぎ出されたのがリオス・モントでした。3月23日のことです。


政権を取った当初はオラシオ・マルドナド・シャド将軍、
フランシスコ・ゴルディーヨ大佐との三頭政治が行われていました。
ゲリラ勢力FARのリーダーであったセサル・モンテスは
ゴルディーヨを「信頼できる人物」と評していますが、
この三頭政治は3ヶ月しか持たず、リオス・モントが単独で政権を率いるようになります。


ルカス政権の抑圧政治下、ゲリラ勢力はむしろ増強し、
リオス・モントが政権を取った頃は、ゲリラの最盛期と言っていい時代だと思います。
それがリオス・モントの在任期間に徹底的なゲリラ対策により大きなダメージを受け、
同時に取り返しのつかない非戦闘員の虐殺事件が多発するようになっていった。


その辺りの事情は内戦の証言を集めたカトリック教会の歴史的記憶の回復プロジェクトを邦訳した
岩波書店の「グアテマラ 虐殺の記憶」の第1章に
詳しく記載されているので、関心のある方は是非ご一読頂きたく。


そういう事情からリオス・モントは常に「大量虐殺を指揮した独裁者」と呼ばれるわけですが
一方でカリスマを持った信心深い牧師であり、良き指導者であり、まだまだ支持者も多く、
「血なまぐさい独裁者」だけではないようで。


ホロコーストや虐殺を研究しているダニエル・ゴールドハーゲンは
Worse Than Warという本を書いた人ですが、
同名のドキュメンタリー番組も作成されています。
ゴールドハーゲンはグアテマラでの虐殺事件にも触れており、
ドキュメンタリーでは国会議員時代のリオス・モントにインタビューする部分が出てきます。


115分というドキュメンタリーですが、この部分は是非ご覧下さい。
1時間28分~34分の部分がそれに該当します。英語。



見ててちょっとおもしろいのは、ゴールドハーゲンを案内する
オティリア・ルス・デ・コティという国会議員が出てきますが、
この方、内戦終結後にはCEHで人権侵害事件を調査する立場にあった人でしたが、
ポルティーヨが大統領だった時は文化スポーツ大臣であり、
FRGが「マヤ系先住民を大切にしている」というイメージを作るために取り立てられた人物でした。
2007年の選挙では別の政党から国会議員に当選して
ビデオに出てくる通りリオス・モントと対峙する座席につくようになったわけです。
彼女自身が言っている通り
「政治家ってのは神とも悪魔とも取り引きをするものなのよ」ってことなのかもですが
おいおい、って感じは否めず。


ゴールドハーゲン自身は「相手は虐殺の責任者」という先入観以上のところに踏み込めていないですが
国会の片隅で気さくにこのようなインタビューに応じ
20分以上時間を取ってくれるリオス・モントを見て、
なぜ未だに支持する人がいるのか、ちらりとわかるような気になってしまいました。


「あなたがジェノサイドを命じたのですか」というゴールドハーゲンの問いは
どんな返事を期待していたのだろうと思ってしまいます。
「その通り」と答える人などいるわけない。
また、そんな簡単に答えられる質問でもない。
それをわかっていて番組用にわかりやすい質問をし
相手の反応を見たのだろうと思うのですが
もう少し違う質問をして欲しかった。。。


ちょっと長くなったので今日はここまでで。
この項、もうちょびっと続きます。



戦いを好まなかった将軍 (その5) 

5回でやっと完結となるこのリオス・モントのバイオグラフィー、
最終回は政権を追われてから現在まで。


全部をアップした後、明日以降、少しコメントしてみます。








共和戦線のリーダーとして


2度権力に手を触れた。
その内1度は504日間も我が物とした。
しかしリオス・モントのような人物にとっては、それはわずかに過ぎない。
大統領の座を追われて5年後の1990年、
彼は再び挑戦した。5つの小さな政党からなるプラットフォーム90という連立が彼を擁立した。
副大統領候補はハリス・ウィトベクであったが、
この時は憲法裁判所がクーデターに加担した者は大統領候補になれないという
1986年に制定された憲法の規定を理由にこれを阻止したため、何もできなかった。
グアテマラ共和戦線(FRG)の創立者の1人であるフアン・カジェーハスは
「もし立候補できていたら最初の投票で勝っていただろう。
 それについては疑いの余地がない」と考えた。


次の選挙では別の戦術をとった。
国会議員として立候補し、身内の人物を大統領候補するというものだ。
「彼はいかなる方法でも構わないから権力を取ろうとした。
 自分が立候補できないのなら、コントロールできる人間を代わりにしようとしたわけです」とカジェーハス。
党内では将軍の参謀であったフランシスコ・ビアンチに信望があったが、
将軍は別の計画を練っていた。
若手の国会議員でカリスマのあるアルフォンソ・ポルティーヨである。
しかしポルティーヨを取り立てたことで党の創立者の間には不満が広がった。
「権力への野心のために自分の理想や周囲の人間を裏切ったのです」とカジェーハス。
「多分、彼はビアンチをコントロールすることは不可能だとわかっていたのでしょう。
 でもポルティーヨなら大丈夫だと」。


1999年、彼はその目標を達成した。
ポルティーヨが選挙に勝ち、彼は国会議長となった。
初めて合法的に勝ち取った職である。
しかしそれだけでは満足しなかった。
その次の選挙では大統領候補として立候補することが認められ、選挙を争ったのである。
結果は3位で大統領には届かなかった。
しかし、奇妙なことに内戦が最も激しかった地域で票を得た。
ネバフでは将軍が6600票を獲得したのに対し、URNGはわずかに800票であった。
ベンハミンが住んでいたラビナルでは2704票でトップであり、URNGは314票であった。
これが最後の公的生活となった。
そしてまた再び、彼の意志とは関わりのないところで注目が集まっているのである。


被告席の老人


1982年7月19日の早朝、ベンハミンは震えながら山を降りてきた。
彼の後には甥が続いた。
鳥肌が立ち、母親と兄弟らの叫び声は耳に残ったままだった。
まだ煙の立ち上る家にたどり着いた。
生き延びた人たちが少しずつ戻って来た。
村人のほとんどが殺されたので、何が起こったのか誰にも理解できなかった。
女性は1人として生き延びられなかった。
ベンハミンは母や妻、姉妹、姪たちを探した。
しかし見つかったのは拷問された痕の残る遺体だけであった。
ほどなく軍務委員がやって来て、
ただちに遺体を埋めて後は口をとじていろと軍が命令している、
「言うとおりにしなかったら、戻ってきて今度は残った者も殺されるだろう」と言った。
ベンハミンと甥は沈黙と恐怖の内に、大急ぎで家族全員を埋めた。
11歳の子供には、どうして二度と彼の母親が眠る前に額を撫でてくれないのか、
どうして二度と兄弟たちと遊ぶことができないのか、
どうして二度とおばあちゃんからお話を聞かせてもらえないのかを理解することはできなかった。


ベンハミンと甥は近くの村に引っ越し、時間の経過とともに立ち直っていった。
ベンハミンは再婚し、3人の子供をもうけた。
子供の1人は町で民間の警備会社に勤めている。
恐怖や苦しみを忘れようとしたが、できなかった。
現在、ベンハミンはプラン・デ・サンチェスと他の11の村で起こった虐殺事件の1000人以上の虐殺について、
エフライン・リオス・モントを告発する正義と和解の協会の会長である。
裁判は既に始まっており、リオス・モントは自宅拘禁となっており、
弁護士らはこの決定を覆そうと準備をしているところである。


将軍が権力にあった504日の後、多くのことが変わった。
税金について言えば付加価値税が導入され、経済は大きく成長した。
内戦もまた変化した。ゲリラ戦力は減少した。
グアテマラ人のメンタリティーも変化した。盗みをしない、嘘をつかない、
横暴を働かないを働かないというのがスタンダードになった。
しかし恐らくもっとも変化したのはペテンの小さな土地であろう。
子供らが走り回り、女達がトルティーヤを作り、男達が働いていた、
トウモロコシ畑のあるその土地。ドス・エレスと呼ばれたその村は、
リオス・モントが権力を引き渡した時にはもう誰一人残っていなかった。
住民全員が亡くなったのである。
もしその村が消滅してしまったことが、
軍の指揮官として彼がいたことと関係があるのであれば、
裁判所がこれを判断し、その決定がこの物語の終末に書き込まれなければならないであろう。(完)



戦いを好まなかった将軍 (その4) 

リオス・モントのバイオグラフィーの4回目。
大統領に就任してから失脚するまでの1年半、
当時勢力を増していたゲリラをものすごい勢いで掃討したのがリオス・モントでした。
勢い余ってゲリラに留まらず、
一般市民まで掃討することになってしまった、などと一言で片付けてはいけないのでしょうが。






全員に武器を


権力を握った日、将軍はテレビで叫んだ。
「武器は兵士のみ、兵士のみが武器を持つのです。
 武器を持っている人は、それを捨てて下さい。
 屋根の機関銃は引き渡して下さい。
 腰のピストルを捨てて、仕事のためのマチェテをつけなさい」。
しかしこの方針は長続きしなかった。
10ヶ月も経たない内に、市民に武器を捨てろという代わりに自ら手渡すようになった。
更にはアメリカに不要な武器をくれと頼むようにまでなった。
12月5日の日曜日の演説では、レーガン大統領と会見し、
不要な小銃を譲ってほしいと依頼したことを得意気に披露した。
「市民警護団をつくるために不要な銃があったら、とお願いしました。
 最先端の武器ではなく、アメリカにとってはもう不要の武器があったら、と」。


マーク・ドロウインの研究によれば、
市民警護団は約80万人が参加したが、その大変は先住民であった。
CEHは山中に逃げ込んだ多くの農民の証言を集めたが、
彼らはもう武器がなかったので逃げたのだと言っている。
残った住民は強制的に武器を握らされた。
武器が歴史に誕生した瞬間から、発砲は避けることのできないものだとチェーホフは言った。
グアテマラの歴史でも、それは発砲された。しかも何度も。


一方、ゲリラ側にも将軍の新しい方策のニュースが届いた。
セサル・モンテスは大統領官邸に送り込んだスパイからこういう話を聞いた。


側近の一人が
「将軍、あなたが武器を与えているのは先住民です。
 ゲリラもまた先住民です。問題になるとは思われないのですか?」と尋ねた。
それに対し大統領はこう答えた。
「好都合だ、奴らの間で殺しあえば良い」。


スパイはこの会話は事実だとモンテスに保証したが、
もちろんそれを証明することは不可能である。
なんといってもテレビカメラの前では、
将軍はマヤ系先住民への尊敬と愛情以外に何もコメントしていないからである。
「グアテマラ化」について話し、住民が自分の出自を誇りに持つようと言った。
「誇りを持ちなさい。国を愛しなさい。グアテマラ人でありなさい。
 キチェー系マヤだということに満足しなさい。
 それともロシア人だった方が良かったとでもいうのですか?(・・・)
 グアテマラの住民の65%以上は今まで無視され続けて来た先住民ですが、
 私達は490年もの間、社会のこういう現実から目を背けていました」。


将軍がその演説をしていたちょうどその頃、
何十人もの先住民の農民が軍の手を逃れて山に逃げ込もうとしていた。
軍隊がネバフのペシュラー村にやって来て近所の住民を虐殺した時、
マリア・テラーサ・セディーヨの赤ん坊はわずかに2ヶ月であった。
母親は自分と娘の命を救うために逃げたが、生き延びれなかった。
空腹と寒さで亡くなったのである。
この2人はCEHの報告書にある長いリストの中の、わずか2つの名前に過ぎない。
将軍はテレビで語った。
「フランス人やイギリス人、ドイツ人ではなく、
 特にイシル、キチェー、マムの皆さんを招待しています」。
社会学者のデーヴィッド・ストールによれば、
イシルの住民15%近くがこのゲリラ対策キャンペーンにより亡くなったという。
CEHによれば、キチェー県のイシル族のコミュニティーの内、70~90%が完全破壊、
あるいは一部破壊されたという。
イシル語で話す人々が何人も殺されている状況で、イシル語を話し続けるのは容易なことではなかった。


ソフィア82作戦とビクトリア作戦が作成されたのはこの頃である。
ゲリラにとって、これは大きな脅威であった。
カルシュミットは次のように説明する。
「政府の政策は、上からは一般市民への恩赦、サービスの提供と保護でした。
 ソフィア82作戦の中にそう書かれていますし、
 戦闘地帯で民間人を捕らえた司令官らが残した多くのメッセージを解読した結果からも明らかです。
 一般市民は別の居住地へ移され、そこで面倒を見てもらっていました」。
そのメッセージの1つ、ネバフで書かれたものには
「ゲリラ勢力に協力していた39家族の男性31人、女性30人、子供81人、合計142人」を保護したとある。
司令官は、81人の子供たちは「自らの意志で」ゲリラに協力していたと思ったようである。
ソフィア82では「女性と子供の命は可能な限り尊重すること」とされている。
カルシュミットはこれに付け加えて言う。
「ゲリラは正規軍ではないのです。
 男、女、子供達からなる家族全員が戦闘員だったりしたのです。
 この文脈において、死者が出さないようにするのは無理があります。
 戦闘は残虐で、暴力的なものです。
 ゲリラ側の司令官、国軍将校のいずれの立場にあっても、
 残虐行為を行なってしまうのは完璧にあり得ることです。
 しかしそれは戦術下、戦闘という状況の中で、
 その場の感情や仕返しを動機としたものであるわけです。
 政府の政策ではありませんでした」。
ウィトベクの意見も同様である。
「戦争だったわけですから、死者がいなかったとは言いません。
 しかし、将軍の側にいた私が見た限りでは、人を殺せというのは彼の政策ではありませんでした」。


実際のところ、殺人は彼の政策ではなかったのであろう。
しかし彼の指揮下で多くの人が命を落としたのもまた事実である。
調査員のマーク・ドローウィンはビクトリア82作戦について
「西部高地、北部低地での兵力増強を予定したもので、
 30の歩兵中隊、5310人が既存の兵士の補強のために再配置されることになっていた。
 この中で更に特殊部隊3隊も展開することになっていた。
 ロバート・カーマックはキチェー県には15,000~20,000人の兵士がいたと見積もっている。
 CEHが軍によるものと記録した626件の虐殺事件の過半数がこの県で起こっているのは興味深い事実である。
 ジェニファー・シーマーの推測が正しければ、犠牲者の数は大きく跳ね上がることになる。
 ルカス・ガルシア政権末期には毎月800人の死者が発生していたが、
 リオス・モント政権下ではこれが月6,000人以上になったというのである」。


4月30日の演説で、将軍は「組合は大いに尊重する」と言った。
10月16日、ケツァルテナンゴのエル・アト農場と
ラス・アニマス農場の労働者によって結成された組織の指導者を兵士らが探していた。
最初に見つかったのは組合長のエミリオ・レオン・ゴメスで、
彼の遺体には30発以上の弾丸が残されていた。
次に副組合長の家に行ったが、当人は不在で妻と2歳の娘がいただけであった。
兵士らは娘の頭部に発砲し、小さな体は母親の腕の中に崩れ落ちた。
母親もその後殺された。
将軍の言葉と実際の出来事の間には大きな相違があることが明らかとなっていった。
リオス・モントが血なまぐさい人物であったのか、無能であったのか、
あるいは最悪の犯罪行為を命令する力があったのか、それを阻止するだけの力がなかったのか、
その辺りは定かではない。


テレビでは、将軍は多分におぼろ気な形ではあったが、
それ以上のことはできなかったと認めたことがあった。
1983年4月10日のことである。
「私には起こっているすべてのこと、
 それが起こるようにしてしまったということについては責任があり、
 その点では謝罪します。
 しかし、聞いて下さい。
 私に何ができると言うのでしょう。
 例えば、税関の職員が私の言うことを理解できるようにできなかったとしたら?
 その人物は私の命令に従わず、嘘をつき続け、盗みや横暴を働くかもしれません。
 軍曹が殺すなという私の命令を理解できなかったとしたら、私に何ができるでしょう?
 理解してもらうために私が取るべき法的手段は存在しているのでしょうか」。


「誰が指揮を取るのか」。権力を握る前、彼は3度尋ねた。
そして3度とも、答えは彼であった。


ムニョス・ピローニャの答えは明確である。
「命令したのは常に彼でした。
 もちろん私たちが圧力をかけたというのは事実ですが、ささやかなものです。
 私は大尉でしたが、将軍に対して何を言うことができるというのでしょう」。


「もし私が国軍をコントロールできないなら、
 私は一体ここで何をしているというんですか?」。
1982年6月、新聞記者のパメラ・ヤデスに将軍はそう言った。
実際のところ誰が命令していたのかは、今のところ正解のない問いである。


神は与え、神は奪う


市内の電話回線はすべて不通となった。
1983年8月8日、グアテマラでは連絡を取ることが困難になっていた。
オスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレスが軍の司令官を全員招集したというニュースがあったため、
大統領官邸では誰もが落ち着かなかった。
「将軍、彼らは名誉警護隊本部にいます。取り囲んで逮捕すべきです」、側近が進言した。
「将軍、これはクーデターになります」、
別の側近も付け加えた。しかし将軍は戦うことを好まなかった。


この日はプエルト・ケツァルに停泊しているアメリカの空母を10時に訪問する予定となっていた。
ヘリコプターで現地入りするためには9時半には空港に到着しなければならなかった。
9時になるとクーデターの噂はますます高まり、将軍は何とかしなければならないと考えた。
そこで運転手に空港に行く前に名誉警護隊本部に寄るようにと言った。
30分程でクーデターを押さえ、時刻通りその後のスケジュールをこなすつもりでいたのだ。
しかしそれは叶わなかった。
集まっていた将校らが辞任してほしいと要請する手間すら必要としなかった。
将軍はこの時もまた戦わなかった。


国際的な評判は既に落ちていた。
海外の報道は、既に将軍を告発する論調ばかりであった。
7月、ワシントン・ポストは
「リオス・モントは権力をずっと手中にするつもりだ。 (・・・)
 キチェーやウエウエテナンゴでインタビューした住民らは、
 国軍の兵士らが村を遅い、女、子供、武装していない男らを、
 ゲリラに協力していると言って殺した、と証言した」と書いた。
10月にはニュー・ヨーク・タイムズが
「グアテマラでもっとも危険な反逆勢力は軍の制服を着用している」と書いている。
村には豆よりも銃の方が多くもたらされたのである。


リオス・モントは、戦うべきだという声に耳を傾けることなく、
平和の内に権力を去った。
ムニョス・ピローニャは、クーデターの当日、
カバンを抱えた大尉が将軍に近づいていったのを見た。
「将軍、私達は皆爆死します、でも閣下は権力を手放してはいけません。
 ここを出て下さい、我々は皆閣下のために死にます」。
将軍は彼を宥めた。
「もし私がここにいることを彼らが望まないなら、私は出て行く」。そう言って立ち去った。


彼は以前にも傷を癒したことのある場所、教会に戻った。
牧師は彼を英雄のように迎えた。
「英雄は勲章で飾られているものですよ」、とリオス・モントは言った。
「私はただキリストの血にまみれたいだけです」。



戦いを好まなかった将軍 (その3) 

指揮を取る者


1982年3月23日午後9時30分、ほとんどのグアテマラ人がテレビに注目していた。
画面では軍服を身につけ、迫力のある声をした人物が、これから変化が起きるのだと保証していた。
「主であり王である神が、私を導いてくれるだろうと信頼しています。
 権力を与え、奪うことができるのは神のみです」。
「将校や国民、特に今まで尊重されていなかった人々や、
 裏切られ続けてきた人々を失望させることのないよう、神が助けてくれると信頼しています」。
その声はインスピレーションに溢れており、国民を安心させるのに十分だった。
リオス・モントは熱狂的に迎えられた。グアテマラ人がもう忘れていた希望という一筋の光とともに。


次の数日間、海外のマスコミは新政権の誕生を歓迎する記事を載せた。
ウォール・ストリート・ジャーナルは4月14日付で「死者の数は急激に減少した。
武器取締キャンペーンの結果、何人もの警官がクビになった」と書いた。


「暴力には理解、非暴力、愛情をもって戦います。
 社会に不平等があることは、誰もが知っていますからね」
とリオス・モントは大統領としての最初の頃の演説でそう言った。
「今の内に、もうあなた方を愛していると宣言しておきます。
 ゲリラ行為によって新たに理解できることもあるからです」。


リオス・モントはゲリラ行為を終結させるために新たなアイディアを持っていた。
「魚の水を奪う」というのがそれである。
毛沢東は、魚にとっての水というのはゲリラに食料を与えたり支援をする共同体のことだと言った。
誰もゲリラを手助けしなくなれば、魚は泳げなくなる。
魚のための水を取り上げるために立てられたのが
「銃と豆(Fusiles y Frijoles)」作戦である。住民にとって必要なものを提供し、
軍隊を住民の敵から友人に変化させようという、
兵士らのメンタリティーを180度転換させるものであった。
そのために14の規則を作ったが、村からは釘1本でも奪うな、
礼儀正しく行動しろ、子供や老人には「特別な敬意や愛情」を示せなどと書かれていた。
住民のために真の警備員の役割を果たすことが求められたのである。


将軍は内戦のために村の家を捨てて
山中に逃れざるを得なかった多くのグアテマラ人のことを心配しているようであった。
当時、避難民を支援するNGOで活動していたアルフレッド・カルシュミットによれば、
大統領に就任して間もない頃、リオス・モントが
紛争地域で活動していたNGOの代表と軍事基地の司令官全員を集めたことがあったという。
「彼は私の政権下では残虐行為はなくなる、嫌がらせを排除すると言っていました」。
それから司令官には兵士らが嫌がらせや暴力行為を働くことのないよう監視するよう警告し、
NGOの代表には何か問題があれば報告するようにと頼んだ。


就任後最初の演説で話した「ゲリラへの愛情」の一環として、
5月には恩赦を発表した。
ゲリラであっても武器を捨てれば無罪放免すると言ったのだ。
ゲリラ活動を支持していた何百人もがこの恩赦を受け入れ、ゲリラは弱体化した。
「恩赦によって、ゲリラを支えていた住民たちが驚くような速さで離れていきました」
とカルシュミットは話す。
「ゲリラはベトナムと同様、一般市民を利用し、巻き込んでいたからです。
 抵抗する住民が戦闘要員となり、内戦の間、多くの非戦闘員が死にました。
 そういう人たちが恩赦の噂を耳にした時、
 これが『支援』であって『殺戮ではない』ということに何の疑問も抱かなかったのです。
 これがゲリラの敗北の始まりとなりました」。
カルシュミットは難民キャンプへ助けを求めてやって来た先住民を何人も世話した。
彼らは重度の栄養失調に陥っており、
「NGOではまず健康回復に努め、その後水や最低限のインフラが整っており、
 生活を続けていける村に彼らを住まわせた。将軍はカルシュミットの仕事に大きな興味を抱いていると言っていた。


ハリス・ウィトベクはチマルテナンゴで危険にさらされている住民のために働いていたが、
将軍は彼の仕事にも興味を示した。
将軍は、紛争地域へ支援物質を送る計画の名誉コーディネーターになってほしいと彼に頼んだ。
「将軍とは1年1ヶ月と1日仕事をしましたが、いつも支援してもらいました」とウィトベクは語る。


最初の数ヶ月間の空気は異なっていた。いたるところに希望が漂っていた。
しかし、実際に行われていたことは小さな希望を食い尽くす巨大な怪物であった。
大統領に就任してわずか1ヶ月後、リオス・モントは憲法を廃止し、国会を解散させた。
6月には非常事態宣言を出し、人権が保証されなくなった。
そして特別法廷が設置された。


更に軍事評議会を支えていた2人更迭した。普段通りの朝のことであった。
フランシスコ・ルイス・ゴルディーヨ・マルティネス大佐は大統領官邸へ
ワーキング・ブレックファストに出向いた。
到着したところで、その日は自分の人生を変えることになると気づいた。
廊下にはオラシオ・マルドナド・シャアド将軍が紙を握り締めたまま、
くしゃくしゃな顔をして立っていた。
「見てみろ、辞任しろと言うんだ」。その紙を見た瞬間、
彼にとっても全てが終わったのだと察した。廊下の突き当たりにはリオス・モントがいた。
彼は躊躇う様子も見せずに「将校らが要求しているんだ」と謝った。
しばらく後、武装した男らが最後の合図をした。二人は政府から直ちに立ち去らなければならなかった。


次の日曜日、リオス・モントはこの決定について簡単にテレビで触れた。
「司令官らの会合で、一人に統一する方が良いということになったのです。
三頭政治ではなく、一人にすべきだと」。それが全てであった。


戦いを好まなかった将軍 (その2) 

昨夜は眠い中で書いていたらいろいろとミスがあったようで、
やっぱりそういう時はとっとと寝るべきなのでありますね(^_^;)


なので今日は早い時間にアップしておきます(笑)
2回目は選挙に敗北してから大統領になるまで。







クヘル・ラウヘルー将軍が大統領に就任すると、
リオス・モントは駐在武官としてマドリッドに送られた。
体のいい厄介払いである。


仕えるために仕える者


1981年3月のある暑い日の午後、ジム・デゴヤン牧師は説教台で汗をかいていた。
教会は満員で、暑さはますます耐え切れなくなってきた。
牧師は「エフライン、窓を開けてもらえないか」と頼んだ。
群衆の中から豊かな口ひげを蓄えた人物が立ち上がった。
牧師は急いで付け加えた。
「まだご存知ない方のためにお知らせすると、
 エフラインはこの教会の保守を受け持っています。
 何かあれば彼に伝えてください」。
エフラインの妻は赤くなったが、
本人は牧師の「皆に仕えるために」という提案に満足していた。
その数日後、彼が教会の廊下を箒で掃いているのを、子供たちの1人が目撃した。
他にも将軍が屈んで床を掃除しているのを見てびっくりした人たちもいた。
「仕えるのに使えない者は使えない」と彼は言っていた。


選挙に敗北した後、彼は失意の内にスペインに向かった。
大使館でのポストは新政権からの残念賞に過ぎず、
マドリッドではあと少しで権力に届くところだったのにという失意に身を震わせる日々を過ごした。
真っ暗な谷間に落ち込んだような気がしたであろうが、
そこで「暗い谷間の中から主は私を救った」と歌う祖母の声を思い出したのかもしれない。
そして教会の中で、祖母の隣で感じたと同じ安らぎと温もりを思い出したのであろう。


いつまでも島流しの身に我慢しきれず、1977年に帰国を決意した。
「この次にグアテマラを去ることがあるとしたら、死ぬ時だ」と彼は周囲に漏らしていた。
その頃、アルフレッド・カルシュミット、アルバロ・コントレラス、
フランシスコ・ビアンチといった福音派の信者が、
毎週末集まって聖書について話し合っていた。
ある時、元大統領候補のエフライン・リオス・モントが特別ゲストとして招かれた。
それ以降、ベルボ教会で活動するようになり、
ますます宗教に興味を示すようになっていった。
後にベルボ校の校長に任命されたが、
最初の頃はあまりにも大きな声で話すために生徒が怖がるので、
声を落として話してくれと言われたという。
「ずっと軍の隊長をしてたものですから、そう簡単には変えられないこともありました」。
教会活動には熱心に参加し、
当時を知る人によれば教会への献身度は完璧なものであったという。
信仰に身を捧げるために生きていたのである。


当時のエフラインを知る人によれば、彼は常に幅広く忠言に耳を傾けるタイプであり、
大抵の場合、教会の長老に相談せずには何事も決められなかったという。
1981年10月、彼の元に数人の政治家がやって来てプロジェクトを持ちかけた。
政党を作って連立し、大統領候補にならないかというのだ。
リオス・モントはその場で返答せず、数日考えさせて欲しいと言った。
教会の仲間とともに断食と黙想をすれば正しい答えにたどり着けるだろうと考えたのだ。
祈りの中でビアンチに「主はお前に別の扉を開かれるであろう」という啓示が示された。
「これはお前のためのものではない」と。
他の仲間達もこれに同意であり、この時点で政治活動に戻るのは価値のないことだと言った。


しかしながらリオス・モントは疑問を抱いた。
その日の午後、彼はバレーボールをしに出かけたが、
ジャンプをした時に踵を挫いてしまった。
ギプスをはめて戻ってくると「主は政治家の道には進むなと仰っているようだ」と
教会の仲間達に冗談口をきいた。
ビアンチは正しかった。ちょうどその時別の扉が開かれようとしていた。
選挙運動も投票すらも必要のない扉が。


選ばれし者


まさか自分の思考が一瞬の内に突き抜けて別の場所を彷徨うことになろうとは、
エフライン・リオス・モントには予想だにしなかったに違いない。
その日は午後に父母会が予定されており、以前から心の中で準備を行なっていた。
しかしその日、彼の頭の中はもっと重要なことで一杯になった。
政府の先頭に立つこと。
学校の指導者から国の指導者になることで。


エフライン・リオス・モントは学校の執務室にいた。
父母会の準備をしていた時、秘書が慌てた様子でやって来た。
クーデターが起こったので子供を迎えに来るという電話があったというのだ。
将軍は驚いた。
しかし数分後に秘書が戻って来た時にはもっと驚くことがあった。
「ラジオではあなたに大統領になって欲しいと言っていますよ。
 中央公園に来て欲しいと」。
それを聞いた時に電話が鳴った。
その日、3月23日は彼の人生を大きく変えることとなった。


その頃、ポルタル・デル・コメルシオでは
フェルナンド・ロメオ・ルカス・ガルシアから権力を奪い取ったばかりの青年将校らが集まって
バリケードを築いていた。
グループのリーダーであったロドルフォ・ムニョス・ピローニャもその中にいた。
彼は指を鳴らしながら、どうしてこんなに時間がかかるのかと落ち着かなかった。
グループの1人が入ってきた時、新大統領がやって来たとロドルフォは興奮したが、
彼がもたらしたのは悪いニュースだった。
「大尉、リオス・モント将軍は来られないそうです」。
ロドルフォは椅子に崩れ落ちると大きなため息をついて言った。
「なんてこった。何と厄介なことになってしまったんだ」。
一番大変なところはもう終わった、そう思っていたのだ。
ルカスには勝利した。
しかし実際には、問題は始まったばかりであった。
青年将校グループは疑問を抱くことなくリオス・モントを選んだのであった。
何と言っても選挙に一度勝ったのであるし、既に政権構想や協力者もいるはずであった。
加えて士官学校の校長であったこともあり、
学校の中では既に指導者であると考えられていた。
しかも外部である国民からも指導者として尊敬を得ていた。
しかし、リオス・モントはやって来なかった。


学校では、混乱した電話がかかってきていた。
リオス・モントは教員としての生活に慣れていたところで、
用意もできていないのに
学校の指導者から国の指導者になる生活に飛び込むなどというのは予定にはなかった。
将校には10分待ってくれ、こちらから電話をかけるからと伝え、その間に忠告を求めた。
学校では誰もが全知の神に祈り、助けを求めた。
最終的に将軍は決意した。
「恐れも感じるが、同時に心の平和も感じる」。
そして赤いフォルクスワーゲンのバンを発車させると指令本部を目指した。
指令本部では、これからどうなるのか、誰にもわかっていなかった。
ムニョス・ピローニャは希望を失い、将校らを集めて言った。
「おい、リオス将軍はやって来ないようだ。どうしたらいいだろう」。


その場で名前の上がった人物については、皆がそれに賛成というわけではなかった。
別の人物については、信用がならないと指摘する大尉がいた。
こうして候補者の名前は次々に消されていった。
終いには将校の1人がムニョスを見て進言した。


「大尉、今指揮を取っているのは誰なのですか」。

「私だ」とムニョスは答えた。
「それならばごちゃごちゃ言わずに、あなたが指揮を取られるべきです。
 あなたが大統領になるのです」。

「私は既に自分の身の丈に不相応な仕事をやっている。
 これよりも大きな仕事は私には無理だ。軍事行為を率いることと国を率いることは別物だよ」。


それから間もなく、遂にリオス・モント将軍がやって来た。
リオス・モントが来るのを見たムニョス・ピローニャは、全身の力が抜けていくのを感じた。
興奮のあまりに抱きつきたいほどであった。
将軍はしっかりとした足取りで彼のところにやって来た。
ロドルフォは起立し、踵を打ち合わせて敬礼した。
「将軍、クーデターがあったことを報告致します。次のグアテマラ大統領は閣下です」。


「誰が指揮を取るのだ」と将軍は尋ねた。

「閣下、あなたです」とムニョスが答えた。

「誰が指揮を取るのだ」、将軍は再び、声を荒げて尋ねた。

「あなたです、閣下!」ムニョスが応じた。

「誰が指揮を取るのだ」、将軍は三度尋ねた。

「閣下、あなたに指揮を取って頂きたいと思ったのでなければ、
 お呼びすることはなかったでしょう。指揮を取るのはあなたです、保証いたします」。
リオス・モントは声を和らげた。
ムニョス・ピローニャはグアテマラに新大統領が誕生したことを理解した。



戦いを好まなかった将軍 (その1) 

時間がかかってしまいましたが3月18日のエル・ペリオディコ紙日曜版に掲載された
エフライン・リオス・モントのバイオグラフィー「戦うことを好まなかった将軍」
少しずつ掲載していきたいと思います。


初日の今日はリオス・モントが大統領選に出て落選するまで。
文中に「将軍」と出て来たら、基本ホセ・エフライン・リオス・モントのことであると思って下さいませ。






遠くに立ち上る煙を見て、悪夢はまだ終わっていなかったのだと悟った。
ベンハミンはその前日、機嫌よく目覚めた。
市場の日で、村は普段よりも彩りに溢れていた。正午近くに公園の方に出かけた。
彼のゴム長靴は濡れた土の道路にめり込み、頭上の帽子は額に小さな穴が開いていた。
途中で姉の家に立ち寄った。
外では4人の甥っ子らがニワトリを追いかけて走り回り、痩せこけた犬が大きく体を揺さぶった。
やがて近所の人が「軍隊が来るぞ」と興奮した様子でやって来た。
ベンハミンは他の村で軍人らがやったことを聞いていたので怖くなった。
「ちょっと見てくる」と姉に言って出かけようとした時、
11歳の甥っ子が彼の腕を引っ張って「僕も一緒に行っていい?」と尋ねた。
ベンハミンは姉に目で尋ねた。
「いいわよ」。
彼女は知らなかったが、この決断が長男の命を救うことになったのである。


ベンハミンは下の道に降り、
武装した大勢の兵士が村人の家に出入りして誰かを探しているのが見えるところまで行った。
その付近を通る者は誰彼なく捕らえられていた。
甥っ子は彼の手をぎゅっと握りしめた。
まるでこれから起こる出来事を隠すかのように濃い霧が太陽を覆い始めた。
ベンハミンは怖くなって、甥っ子とともに繁みの中に潜り込んだ。
何も考えないように努めながらじっとしていた。
何かを考えると、それが音を立てて、隠れていることがばれてしまうような気がしたからだ。
身動ぎ一つしないまま、兵士らが村中の女性を姉の家に押し込んでいくのを見た。
背中の赤ん坊を取り上げて空き地に放り投げるのを見た。
レイプされる女性らの叫び声を聞いた。
沈黙の内に、藁屋根の家に手榴弾が投げ込まれるのを見た。
そうして火がついた。
ベンハミンは泥の中に投げ込まれた子供たちのことを思い、涙に濡れた目を開いた。
その時兵士が彼を見つけ、まるでいなくなったウサギを見つけでもしたかのように、
中尉に連れて行ってもいいかと尋ねた。
しかし中尉は拒否し、
「このくそったれ共は我々の背嚢に小便をひっかけるからダメだ。
 そこら辺の家の中に放り込んでおけ」と命令した。
兵士は直ちにその命令に従った。


プラン・デ・サンチェスの女性は、その日、全員死んだ。
男性は別の家の中で焼き殺され、生きのびた者は暗闇に包まれた山に逃げようとした。
ベンハミンは甥っ子の手を引いた。
肉のやける匂いが鼻をつんざき、目はすでにガラス玉のようになっていた。


最寄りの町であるラビナルでは、
黒い頭髪と白髪混じりの口ひげをたくわえた人物の映像がテレビに映しだされていた。
「たとえばですよ、
 今ちょうどこの時に、5000人の兵士が国民の皆さんの平和のために働いていることを知っていますか?」
彼は視聴者に尋ねていた。
「そう尋ねたのは、いろんな人からこう聞かれます。
 『グアテマラではゲリラと戦っているのですか?』と。
 私はちょっと考えてからこう返答しました。
 グアテマラが戦っているのではなく、戦っているのは兵士です。
 皆さん、ゲリラは軍隊だけの問題ではありません。
 そうではなく、グアテマラの社会問題なのです。
 そう、つまりあなた自身の問題なのです」と映像は締めくくった。
ベンハミンはそれを聞いていることができなかった。
隠れたまま、一人でどうしたら良いのだろう、甥はどうなるのだろうと考えようとしていた。
ベンハミンはテレビに出ていた男のことを知らなかった。
それどころか、28年後に2人の人生が情け容赦なく交差するようになるとは想像だにできなかった。


むかしむかしあるところに


男の子が中庭の土の上で兵隊ごっこをしていた。
兄弟たちを整列させると行進するよう命令した。
この1ダースばかりの子供達は優しい父と厳しい母に育てられていた。
ホセ・エフラインは兄弟の3番目で、
ウエウエテナンゴの生まれ育った村で兵士の一隊が行進していくのを見てから、
兵隊ごっこをして遊ぶようになった。
彼はその時既に、将来は将軍になるのだとわかっていた。


父親のアントニオ・エルモヘネスはラ・コモディダーという商店の店主であった。
その店は安いという評判であったが、それは父親がツケで買う人を断れなかったからであった。
ツケを踏み倒す人があまりにも多かったため経営が成り立たず、この店を売却せざるを得なかった。
新しい店主はアントニオを店員として雇った。
こうしてリオス・モント一家の運命は店主から店員の一家へと、大きく変化したのであった。


30年代初め頃、ホセ・エフラインは好んで祖母が
「主は深い谷間から私を救い、悪から解放した」と歌うのを聞いた。
祖母は熱心なキリスト教徒で、孫たちが教会に親しむようにと心を砕いた。
エフラインには聖書を読めば0.5センターボ、
一緒に教会のミサに行けば1センターボを与えていたが、実際のところ、お金は必要ではなかった。
彼は教会に行くのが好きだった。
子供達の1人、マリオが神父になりたいと言ったので、
エフラインの両親は教会で結婚しなければならなかった。
当時は両親が結婚していなければ、神父になれなかったからである。
こうして一家はよりカトリックに親しむようになった。


エフラインは生真面目で厳しい母親と優しく甘い父親という正反対の両親に育てられた。
母は子供達に罰を与え、父は彼らに飴を与えた。
祖母は奉仕について、母はミサについて話した。


思春期となり、軍隊に入りたいという夢が実現する時が来た。
しかし、彼は乱視であったので、そのままでは士官学校への入学が認められたなかった。
賢い少年であったエフラインは、視力検査表の文字をすべて記憶して検査に臨んだ。
士官学校の仲間らは、エフラインのことを従順で環境に適応することのできる生徒であったと評している。
ある時催された士官候補生のダンスパーティーで、
人生の伴侶かつ3人の子供の母親となるテレサと知り合った。


士官学校を卒業した後は、同校の教官として勤務した。そして数年後には士官学校の校長になった。


校長


ルイス・アウグスト・トゥルシオス・リマ(士官学校出身の軍人、
後ゲリラに身を転じFARの司令官として活躍。1941-1966)は
セサル・モンテス(トゥルシオス・リマの死後FARの司令官となり、後にURNGの司令官の1人となる。1942-)
のところにやって来ると、用件を切り出した。
「クレイジー・リオス・モントの調査をしてくれ。あいつは気をつけないといけない」。
「クレイジー・リオス・モント?」とモンテスは尋ねた。
トゥルシオス・リマは将軍が校長だった頃に学校で起こったエピソードを語った。
「あいつは他人を困らせるのが好きなんだ。
 我々が整列しようとしている時に『気をつけ!』と叫び、
 その後誰も聞き取れないような低い声で命令を出すんだ。
 で、誰も何もしないもんだから、罰としてカンカン照りの中を背嚢と銃をしょって何時間も走らせるんだ。
 それを見て笑っているんだぜ。誰かがひどい目にあっているのを見るのが好きなんだな」。
その時セサル・モンテスは頭で理解したが、後にはそれを身をもって確認することとなった。
将軍はサディストで人間らしい感情に欠けた人物なのである。


一方、ロドルフォ・ムニョス・ピローニャ大尉
(リオス・モントが大統領となった時のクーデターの首謀者の一人)は、
校長について全く別の印象を持っている。
リオス・モントは士官候補生たちの健康をとても心配しており、
ちゃんとした料理が出されているかどうかを確認するために厨房にやって来たりした。
「校長というのは大抵校長室にいて、出入りする時にだけ見かけることができるものだと思っていました。
 でもリオス・モントはスープの中にすら現れました。
 集会で彼が話すとモチベーションが高まると、皆感心していました」。


毎週木曜日に行われる集会での士官候補生への講話はいつもほぼ同じだった。
彼は「右側のポケットにはb1-100を、左側には新約聖書を」入れておくようにと勧めていた。
b1-100というのは士官候補生の規則を記した本であり、
聖書は当時熱心なカトリックであったためであろう。


1972年、リオス・モントは将校に昇級、その後参謀本部長となり権力に触れるようになった。
本部長となって数ヵ月後にワシントンへ教員として送られ90日間を国外で過ごしたが、
以前ちらりと目にしただけであった権力に魅了されていた。


裏切られた大統領


政党は党員を国内各地に派遣していた。
投票用テーブルの近くには情報をチェックしてくれる係の人間も配置できた。
データがわかると急いで「集計センター」という名前ながら、
実際には開票結果をまとめるためにキリスト教民主党幹部らが集まった家に連絡が取られた。
夜の10時には皆勝利を確信していた。
リオス・モントは自宅で家族と共にテレビを見ていた。
もうすぐ大統領官邸に引越しとなるのが確実な情勢であった。


リオス・モントが選挙に出るというアイディアは、1973年終わり頃から出ていた。
権力を厚く守り固めている国軍に亀裂を入れ、独裁政治に終わりを告げるのが目的であった。
それをできるのはリオス・モントだというのが衆目の一致するところであった。
「階級の高く、社会に対する考えを有している人物、
特に軍の幹部とあまり係わりのない人物を探していた」と
アルフォンソ・カブレラは話している。
数日間考えた後、カブレラはワシントンへ代理人を送り、
将軍に候補になるよう説得した。
8月末、リオス・モントは辞任し、再び権力を手中にしようと動き始めた。


1973年9月11日、チリではサルバドール・アジェンデ政権が倒され、
グアテマラでは将軍が大統領候補としての最初の記者会見に臨んでいた。
変化について話し、貧困対策を行うことを約束した。
キリスト教民主党(DC)と革命統一戦線(FUR)からなる全国野党戦線の連立で、
アルベルト・フエンテス・モールが副大統領候補であった。


困難かつ資金不足な選挙活動であった。
支持者がそれぞれ自分の車や時間を提供しなければならなかった。
音響担当であったカブレラは、自分のバスを若者用に提供した。
ウエウエテナンゴでリオス・モントは自分もその車に乗せて欲しいとカブレラに頼んだ。
「若い人たちと一緒に行く方が楽しそうじゃないか」。長い道中を若者たちと過ごし、
 国の問題、深い谷間に落ちていくこの国をどう変えていけば良いのかということを話し合った。
候補者は、若者たちの意見に常に賛成というわけではなかったが、
少しばかり討論をした後はいつも自分の意見を変えた。
「敬礼、直れ、ご意見ごもっとも(Saludo uno, saludo dos y lo que ustedes digan)」。
このフレーズは選挙活動の間に有名になっていった。柔軟で、
自分に欠けている部分については自分が折れる用意があった。


3月3日、国内全域で停電があった。
リオス・モントと家族は暗闇の中で結果を待った。
夜11時には政党の集計センターでは既に祝杯が上げられ、誰もが勝利を確信していた。
しかし電気が復旧し、テレビがついた時に映ったのはその逆の結果であった。
リオス・モントは敗北した。次から次へと「インチキだ」という声が沸き起こった。
党の幹部らは戦うよう頼んだ。
しかしリオス・モントはそれを拒んだ。
将軍は戦うことを好まなかった。
アルフォンソが再度戦ってほしいと迫った。


「将軍、我々は勝ったんじゃないか、勝利を守らないでどうするんだ」と彼は言った。
リオス・モントは視線を落として自分は何もしないと決意したと答えた。
「勝ったと主張したら家族を殺すと脅されたんだ。流血沙汰はゴメンだ」。
しかし仲間達はそれで納得したわけではなかった。
「将軍は戦わないということで
 相手側に暴力を止めろというメッセージを送ったつもりだったのでしょうが、
 向こうはこっちが弱気になったと思い込んでしまった。
 お陰で更なる追い討ちをかけられたのです」とカブレラは続ける。
「そうしてキリスト教民主党のリーダーが500人以上殺されました」。




「コップの水を溢れさせた泥棒」 

ディナ・フェルナンデスは以前はプレンサ・リブレ、
現在はエル・ペリオディコでコラムを書いている記者ですが、
昨日のエル・ペリオディコ紙に書いていた内容が興味深かったので
ここで再掲してみます。


タイトルは「コップの水を溢れさせた泥棒」。
もう少しこなして言えば「堪忍袋の緒を切らせた泥棒」ですかね。


登場するのはディナの友人のエウヘニオ。
ある日の朝9時頃、車でアタナシオ・ツルという通りを通っていた時のこと。
赤信号で停車した時、気がついたら両側にバイクが停車。
うち一人がピストルで車の窓ガラスをコンコンコン。


これはグアテマラで多くあるバイクによる強盗で、
ターゲットは信号停止している車、
狙うものはお金だったり携帯だったり、その場で目に付く高価なものだったり。
そんなわけでエウヘニオは隣のシートに置いてあったiPhoneと指輪を提出します。
ちなみにエウヘニオ氏、携帯を盗まれるのはこれで3度目。


3度目ともなれば少しは慣れたもの?で、
怒り心頭のままオフィスに着いたエウヘニオ、
パソコンを立ち上げると盗まれた携帯の位置をGPSでチェック。
7区のキンタ・サマヨアというコロニアにあるモールで止まるのを確認すると
直ちに追跡に出動したのでありました。


彼のオフィスの近くにはとある長官の家の警護に当たっているパトカーと警官がおり、
エウヘニオはまず彼らに助けを求めます。
警官は快諾して現場へ急行(それでいいのか、警護はどーすんだって気もするけれど)、
GPSを追跡して駐車場に止まっているアウディまで辿りついたのでありました。


今度は警官が車を両側から囲みコンコンコン。
中には男性2人が乗っており、
後部座席にはバイク用のヘルメットやらジャンパーやらが。


肝心の携帯電話と指輪が出てくるまでにはちょっと時間がかかったものの、
無事発見されると二人はお縄、そのまま裁判所の建物に連行されて予審に付されたのでありました。


「後は手続きするだけだし」と気楽な気持ちだったエウヘニオ。
しかしそれは大きな間違いだったと気づくのに時間はかからず。
まず、この種の事件(って窃盗のこと?)を担当する検事が、
グアテマラシティ全体で1人だけ(多分当番制だとは思うけれど)。


でまず、その検事のところで状況などを説明するわけですが、
彼の前に並んでいるのはざっと40人ほど。
エウヘニオの番がやってくるまで実に8時間かかったのだそうで、
でも計算すると1時間あたり5人、1人あたり12分ですから、
このスピードは褒められたものだとは思うんですけれどもね。
てか食事を取ってる暇もないんではないかという気が・・・。


で、その8時間の間、裁判所ビルの地下で
容疑者やら被告人やらと同じ空間を分かち(向こうの方は一応檻の中ではありますが)、
被告人の方はさっさと弁護人を雇って、
この弁護人がまた「いくらいくら払うから、黙っていた方が得じゃない?」とかなんとか
おいしい話を持ちかけてきたりするんだそうです。


ディナにこの話をしたエウヘニオ、
「警察にはよくしてもらって感謝しているよ、でもこのシステムは何とかならんのかね?」
と制度の欠陥に痛くご不満だったとか。


そしてディナはこう続けます。
「彼の話をここで書くのには理由があります。
 その数日後、エウヘニオが強盗にあった場所からそう遠くないところで
 女性から携帯電話を盗もうとしていた2人組のバイクの男を
 別の男性が殺しているからです」。


「このニュースは、殺人を犯した者を称える声に迎えられました。
 それを不思議に思うわけではありませんが、
 その一方で、多くの人がエウヘニオのことをクレイジーだとか無謀だとか言っていました」。


この辺りのコメントは私も痛く感じるところです。
例えば、エウヘニオが突き出したこの2人に仲間がいたとして、
彼の身元を突き止めたらどうなるか。


あるいは、検察官の力不足で2人が無罪放免になったらどうなるか。
有罪だったところで、強盗ですから数年で釈放。
出てきた後で復讐されたりするよな心配はないのか。


更にはエウヘニオのように時間を割くことができなければ
その場で釈放されてしまいますよね。
朝9時に強盗にあったエウヘニオが犯人逮捕までに1時間かかったとして
その後8時間とすると18時。
まるまる一日を強盗を告発するためだけに割くことができる人がどれくらいいるんだろう。


そんなあれやこれやを考えていると、とにかく復讐怖いし、
お金で済むことなら我慢して新しい携帯をゲットした方が楽じゃん!
とマジメに思うわけです。


司法が機能しないと言うけれど、
機能しないまま放置している責任の一端は自分たちにあるというわけですよね。


その一方で、犯人については許せないという感情を抱くわけで、
こんな奴らは殺されてもアタリマエだとか、
リンチにかけてしまえとか、
そういう風潮になっているのがグアテマラの怖いところです。


この、男性に殺された2人の強盗の内、1人は確か13歳の少年でした。
犯人グループは3台のバイク(だったか)に乗っており、
2台が実行犯、残る1台は遠くから監視していたのだったと記憶しています。


13歳の少年が自分の意志で犯行に加わったわけではなく
周囲、特に家族により犯行に加わるようにされたわけでしょう。
(実際、確か一緒にいた兄が何とか弟を救おうとしていた、という話でした)


そういう子供を一人の犯罪人として処刑し、それを良しとする。
あってはならないことなんでしょうけれど、
一方で私達のコップはもう溢れんばかりに一杯なのであり・・・。


ここからどうやったら抜け出せるのだろう・・・(タメイキ)。


[ 2012/04/09 23:48 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

ワカ遺跡のこと 

セマナ・サンタ期間、13区にある3つの国立博物館が無料!と聞いて
喜びいさんで出かけてきました。


国立考古学民族学博物館、私好きなんですけれど
しばらく前から外国人は別料金になってしまって以来、行ってないです。
現在の外国人の入場料金はQ60で、
これって何気に3Dの映画見るより高いんですよ!!!
まあそれ位払っても見る価値はあるとは思うのですが、
やっぱりちょっと足が遠のきますよねぇ・・・。


そんなわけで久しぶりに行った博物館。
張り切りすぎて、どうやら一番乗りだったようでした(笑)。
常設展だけでも十分見ごたえがあるのですが、
ちょうどエル・ペルー・ワカ展をやっていて、これがなかなか素敵だったんですよね。


01 El Perú - Waka'

まずは地図から。
(念のために書いておくと、この博物館写真OKです。フラッシュ禁止)
ペテン県のサン・アンドレス市、ラグーナス・デル・ティグレ国立公園の中に
エル・ペルーと呼ばれる場所がありまして、
ここで発掘された遺跡も当初はエル・ペルー遺跡と呼ばれていたらしいのですが、
その町が昔はワカと呼ばれていたことが近年明らかとなり、
現在ではエル・ペルー・ワカ(El Perú Waka')遺跡と呼ばれるようになっているそうです。


02 Glifo Emblema de Waka'

これがその町の名前を現す文字なんだとか。
私には説明が書かれていてもチンプンカンプンなのですが、
マヤ文字は日本語と同様表音文字と表意文字からなっていて
そのお陰で当時何と呼ばれていたか、またその意味は何か、というのが理解できるんだとか。
で、詳しい説明は省きますがワカはムカデの町、という意味だったと考えられています。


げっ!!!
ムカデは超苦手なんですけれど、あちらの方にはひょっとして多かったんだろうか・・・。
まあそれはともかく以降この町のことはムカデ町、じゃなくてワカと呼ぶことに致します。


ワカではマヤの前古典期後期から古典期末期にかけての建造物が確認されています。
紀元前400年から西暦1000年にかけての、1400年間ほど。
現在確認されている建造物は767個あるそうですが、
70年代に発掘が始まり、詳しい調査が行われたのは2003年以降なのだそうで、
この遺跡の全貌はまだわかっていないようです。


というよりも、マヤの遺跡が多すぎて、全部調査しきれないという方が正しいのか・・・。


そんなわけで、展示されていたのは全体像がわかるものというよりは
発掘品がメインでした。
で、そんな展示品のひとつがこれ。


04 El Rey Muerto y Venado Espíritu Acompañante

05 El Rey Muerto y Venado Espíritu Acompañante

あまりに可愛かったんで、バシバシ写真撮ってしまいました。
土製の小さな人形がたくさん並んでいたんですよね。
元々は着色されていたと思われ、うっすらと色の残っているものも。
でもこのセットのメインはなんと言っても手前の「死せる王と鹿の魂」。


腕を胸の前で組み、跪いているのが死せる王。
短く切った髪の毛はトウモロコシの神に関連しているのだとか。
隣に立ついささか擬人化された鹿は、祈りを唱えているかのように口を開けていますが、
鹿もマヤ的にはトウモロコシの神に関連しており、
特に命やトウモロコシの種や再生をもたらす雨を起こすために必要な犠牲のシンボルなのだそうです。
(雨乞いの儀式で鹿が捧げられたりしたということかしらん・・・)
そういう動物だからこそ亡くなった王が死後の世界へ旅立つ際に導き手として使われている、
ざっとそういう説明が書かれていました。


そう言われてみれば確かに神聖なものなのでしょうが、
それにしては可愛すぎる!
後ろの王やその妻やその周りの人たちや、全部で20体くらいあったでしょうか、
それぞれに可愛らしかったです。
全部まとめてセットにして家に持ち帰って飾りたかったくらい!


中には闘士の人形もあったのですが、
被っている兜がちゃんと取れるようになっているんですよねぇ。
(闘士は雨乞いの儀式に関連して拳闘を披露する人たちみたいです)
本当に素敵でした。


06 Cuenco Policromo con Tapadera

それ以外ではいかにもマヤらしい陶器ですとか。
副葬品として発掘されたものですが、
蓋に描かれている「聖なる鳥(Ave Celestial)」は特別な行事の時にしか使われなかったことから
副葬品として作られたものではなく、別の用途があったのではないかと見られているとか。


07 Cuenco de Ónix

逆にマヤっぽくないのがこれ。
解説に書かれていたónixを信じるなら縞瑪瑙(シマメノウ)なのですが
縞がないよね・・・。
むしろアラバスターの方が近いように思いますが、その辺りはよくわかりません。


どちらにしても、こういう無地の白い器はちょっと目を引きます。
これも副葬品として発掘されたものですが
この墓は王の墓ではないかと見られているそうです。
マヤと言えばヒスイが一番尊まれたわけですが
トルコ石、アラバスター、シマメノウなどもまた大事にされたのだとか。
シンプルだけれど素敵です。


そんな素敵な物が出てきたワカですが、
実はこの町はティカルとの戦いに敗ぶれており、
そのため文字が描かれていた重要な石碑などは破壊されてしまっているのだとか。
まだまだ発掘調査は続いていて、今年は西側の住居跡を調査するそうです。


そんなワカを訪れた方のビデオがありますので、こちらもどうぞ。






[ 2012/04/08 23:59 ] マヤ | TB(1) | CM(0)

パセオ・デ・ラ・セクスタ 

昨日カテドラル付近まで行ったわけですが、
セマナ・サンタのZona 1はあちらもこちらもプロセシォンで通行止めだし
駐車場も開いてないしで、久しぶりにバスに乗ってお出かけ。
我が家からZona 1方面だとトランスメトロという市が運営しているバスが好都合。
おまけにこのバス、交通警察がお守りしてくれるので安全でもあります。


降りたバス停はカルバリオ。
通称プラシータ、正しくはスール・ドスという名前の大きな市場前。
この近くにはエル・カルバリオという大きな教会もあります。

Templo del Calvario

この教会は聖金曜日の午後、死せるキリストのプロセシォンをやるのですが、
私達が通った時間(10時頃)には既にアルフォンブラが作られていました。


02 El Calvario

プロセシォンは教会を出るところから始まります。
なので入り口にはプロセシォン用の階段が作られ、
その階段のところからアルフォンブラが敷き詰められます。
これは松の葉とコロソという椰子の花をメインに使ったもの。
コロソはちょうどこの時期花をつけるのですが
独特の香りがあって、これを嗅ぐと「あー、セマナ・サンタ」という気になるという。
写真の白いところがそうですが、上の方の房になってるのが元の形、
房から外して使われているのがその他の部分です。


03 Alfombra de El Calvario

こうして行列が行く先に敷き詰められていくわけです。
アンティグアだと着色したおが屑によるアルフォンブラが敷き詰められますが
グアテマラシティでももちろんそういうのもあれば、
こういうどちらかというと簡易バージョンもあり。
この教会の周囲は民家がないので、信者さんが作っているのだと思われます。
左側の建物は国立印刷局。


Paseo de Sexta

以前から通りたかったパセオ・デ・セクスタ。
1区の6アベと言えば、両側に物売りの屋台がずら~っと並んで
その間を車が通りぬける、歩行者にとっては何とも雰囲気の悪いところだったのですが、
昨年、市がこの物売りの屋台を撤去して他の場所に移転させ
歩行者用道路として整備、
ついでに電柱まで撤去してしまってできあがったのがこのパセオ・デ・セクスタ。


前日にこの通りをずーっと使ってアルフォンブラのコンテストがあったんだそうで
おが屑がうっすらと積もっていますが
この通り、すっきり爽やかな通りに変身していました。
聖金曜日はほとんどの商店がお休みになりますが、
この通り沿いのレストランやカフェはもちろん、
なぜか靴屋さんもちらほら開いていました。
この通り、実は靴屋さんが多いんですよね。


McDonald's

パルケ・コンコルディア前にあるマクドナルド。
一応この辺り、アンティグアほどじゃないですけれど
街並みが保存されることになっているようで、控え目ながらもオサレな外見。
昔の建物を使っていますので、中は天井も高くて広々とした感じだったと記憶。


Parque Concordia

パルケ・コンコルディアも昔は怪しい感じでしたが
今ではすっきり爽やかになってしまいました。
公園の下が駐車場になっていることもあって、
なぜかここは盛り土されて高くなったのですが、その分見晴らしも良好。


Sexta Avenida

公園からセクスタを眺めるとこんな感じ。
まるでグアテマラシティじゃないような・・・。


El Correo

こちらは割と有名な郵便局の連絡橋。
これはアベニーダではなく11カイエにありまして、
ご覧の通りカイエ側はまだまだ電線が張り巡らされており、
グアテマラシティらしさに溢れております。


Paseo de Sexta

これは旧警察署前にある建物。
緑の部分は天然石(蛇紋岩)が使われている、実は豪華な建物です。
内装がどうなっているのかちょっと見てみたい・・・。


Paseo de Sexta

こちらはいかにもおコロニアルな建物。
1階には中華レストランが入ってると言うと、あの建物!ってわかる方もあるかもですね。
セクスタの中では一番コロニアルらしくて手入れもいい建物ですが
売りに出されているようです。
お金があったらこういう建物一つ所有してみたいもんですね・・・。


まあでも古い建物のメンテってのは結構面倒なようで、
このオサレになってしまったセクスタでも外壁に植物生えている建物もありました。
1軒だけでしたが・・・。


Paseo de Sexta

あちらこちら歩き回って疲れたらふらりと入れるカフェが増えたのも嬉しいびっくりでした。
外はカンカン照りでも、古い石造りの建物は熱をきっちり遮断するので
直接太陽が当たらない限りは、中はひんやりと過ごしやすくなっています。
窓の大きなこのお店は、外の風が入ってきて気持ち良かった。
ここで外を行き来する人を眺めているだけでも楽しいですねぇ。


しかしまあ、すごい人出だな。


こうしてパセオ・デ・セクスタをずーっと歩いて行くと中央公園に到着します。
街並みは素敵と言えば素敵ですが、取り立てて特徴があるわけではないかも。
でも、このグアテマラシティの1区が、
安心して歩けるようになってしまったって、結構すごい気が(笑)。


とは言え、それは今のところパセオ・デ・セクスタに限っての話なので
1区方面に向かわれる方はご注意下さいね(と一応書いておかないと)。


[ 2012/04/07 23:18 ] 街角 | TB(0) | CM(0)

プロセシォン 

久しぶりにセマナ・サンタのプロセシォンを見に行ってきました。


聖金曜日には朝と午後から夜にかけての2つのプロセシォンがありますが、
行ってきたのは朝出発のラ・メルセー教会のもの。
早目に出たおかげでカテドラル前に設置されたスタンドで見られました。


08 Catedral

カテドラルはすっかりセマナ・サンタの装い。
テレビカメラも何台かスタンバっていました。


09 Arzobispo Vian

行列が近づいてくるとビアン大司教も登場。
カテドラル前では行列は一旦止まり、大司教の祝福を受けます。
そんなわけでカテドラル前はあらゆるプロセシォンが通過するのですが、
プロセシォンがいくつも出るような日はぶつからないように
ちゃんとルートも時間も調整されているんですよね。


10 Procesión de La Merced

プロセシォンに参加する人たちはククルーチョと呼ばれる衣装を着用。
教会によってスタイルや色が異なっていますが、メルセーは紫に黒のケープ付。


ちょうどこの時期、ジャカランダなどの紫色の花が咲いていて
セマナ・サンタらしさを醸し出している・・・と言われるんだけれど、
でも紫のトーンが全然違うんだよね。


あ、プロセシォンの最初にやって来たのは聖ペテロでした。
これは車のついた小さな山車。


16 Procesión de La Merced

キリスト像がやって来る前には
ちゃんと旗印があって、もうもうと香が焚かれます。
香炉を持っているのは小さい子だったりすることもあり。


また、聖像によって担ぐ人たちが決まっているのですが、
このプロセシォンでは聖母を担ぐのは女性、聖ヨハネは子供でした。
聖ヨハネはかなり前のめりで、しょっちゅう付き添いの大人が持ち上げていましたが
かなり小さい子達が担いでいたみたい。


この神輿を担ぐのは贖罪のためなわけですが
そんな小さい子供たちが何の罪を償うんでしょうね・・・
って、そんなこと考えてないのだと思われますが(笑)。


15 Jesús Nazareno

普段は教会の中に大切に安置されているナザレのイエス像ですが
聖金曜日にはこうやって担ぎ出されてきます。
この聖像は1655年に作られたもの。
グアテマラにはこの時代の聖像がたくさんあって
なかなか見事な物も多いです。


この神輿は多分80人くらいで担いでいたかな。
神輿の後にはブラスバンドが続き、
その後にはヨハネ、マリア・マグダレーナ、
そして聖母の像とマリア様用のブラスバンドがやってきて
そこでプロセシォンの行列はおしまい。


行列の後にはグアテマラシティのお掃除隊が続きまして、
アルフォンブラなんかがあった場合にはさささっと片付けをしてくれる手はずとなっています。
カテドラル周辺はアルフォンブラなかったですけれど
他のところでは作られているはず。
アンティグアのように街中を埋め尽くすというところまではいかないですけれどね。


久しぶりのプロセシォン、
やっぱり宗教行事というよりはイベント的な雰囲気がしますが
グアテマラのセマナ・サンタには欠かせないものですからね。
来年も見るかと言われるとどうかなーって気はするんですが(笑)




[ 2012/04/06 21:51 ] 風物詩 | TB(0) | CM(0)