おいしいパナマ 

駆け足のパナマ滞在でしたが、
なかなかに楽しくて、もっとゆっくり違うところも見たかった・・・と思ったり。


食べ物ももうちょっといろいろ食べてみたかったなー。
パナマ料理といえば、サンコーチョ!
食べたいと思っていたのですが、ホテルで注文する気にならず、
他のところでは他の食べ物に目移りがしてしまって、食べ損ねたー!!!
というのが大きな悔いであります。


サンコーチョ(Sancocho)は肉と野菜の煮込みで
パナマ料理というよりはコロンビア料理かな?
キューバやドミニカ共和国といったカリブの国でも食べるところがあるそうで、
それぞれの地域で若干中身が違うらしいのですが、
パナマのサンコーチョ、おいしいって聞いてたので残念。


その代わり、と言ってはなんですが、
カスエラ・デ・マリスコスってのを食べまして、これがおいしかった!
私たちが宿泊したホテルの近くにコスタ・アスル(Costa Azul)というレストランがありまして、
そこに行ってみたんですよね。
テラス席というか、道路に面した屋外の席もあったのですが、
少し肌寒い夜だったこともあって、屋内の席に。
相変わらず冷房がガンガン効いていまして、
どっちが良かったのかは不明ですが(笑)


中には外国人もいましたが、パナマ人が多く、
かなりの席が埋まっていて、ウェイトレスさんたちも大忙し。
注文するまでにちょっと時間がかかりましたが、
テーブルにあるペーパーナプキンにさらさらと注文を書いていくのにびっくり!とか
そんなことしている間に注文の品が到着。


小僧と父は鯛の唐揚げだっけ?何か忘れたけれど頼んでいたのですが、
出てきたのがまた大きなお頭付で、これがホントに美味しそうだったんですよねぇ。
私のカスエラは魚介をトマトベースのソースで煮込んだもので、
平べったい耐熱のお皿で料理したのがそのまま出てきたのですが、
これ、本当に美味しかったです。
写真撮っておけば良かったんですが、お腹が空いてたものですっかり忘れた(笑)


カスエラは南米大陸の北の方で食べられる料理らしいですが、
これもやっぱり地域によっていろいろとバリエーションがあるようです。


いろんな民族が入り乱れている国だけあって
他にもいろんな国の料理が楽しめるんだそうで、
アレックスはこのコスタ・アスルの他、
レバノン料理のレストランを教えてくれてたな・・・。


まあそんなわけで、パナマの思い出なのか
アレックスの思い出なのか、段々わからなくなってきたところで(笑)
この旅行記もようやく終わりを迎えるのでありました。


ふー、やっと終わったー!



[ 2012/01/31 22:17 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

カスコ・ビエホ 

カスコ・ビエホはまだこの地がスペイン領であった頃、
パナマ・ビエホが海賊により壊滅した後、1671年に建設された町です。
当時の面影を残す町並みはユネスコの世界遺産に指定されており、
ぶらぶらと歩くのにちょうどいい感じ。


と表現するとグアテマラのアンティグアっぽい雰囲気ですが、
これが全然違うっていうのもまた面白い。
純スペイン風というよりはイギリスっぽくカリブっぽくて、
私には目新しい感じでした。


当時のままの建築物もありますが、カスコ・ビエホは再築ブームのようで、
昔の建物を一旦壊して別の建物を建設しているのが
あちらこちらで見られました。
そうして新しく建てられているのが瀟洒な建物。


36 Casco Viejo

こんな感じの建物はグアテマラにはないぜ・・・。


37 Casco Viejo

左側が新しく建て直された家、右側は現在工事中。
家の間の通りは車が1台通れる程度でした。
2階建てバスとか通ったらバルコニーにつっかえるかも。


38 Casco Viejo

右側手前の家、煉瓦が見えているのが古い建造物。
海に近いところですから、家なんかも傷むの早いのかもしれないですねぇ。


カスコ・ビエホの突端辺りから見えるパナマ湾。
パナマ運河の順番待ちをしている船が何隻も。
干潮で岩場が見えていますが、
この辺りは埋立予定地なのだそうです。


カスコ・ビエホを歩いていると、
あちらこちらに ”RelleNO!” と書かれたポスター?が貼ってありまして、
思わず「座布団一枚!」と心で喝采した私でしたが、
埋立(relleno)と反対(no)を掛け合わせた、簡潔な意思表示が素晴らしい!
写真撮っておけば良かった・・・と今頃後悔したりしてますが。


埋立に反対する運動もかなり活発なようですが、
政府は埋立をすると譲らず、
両者の対立は続いているようです。
パナマシティって全体的に人工的な感じのする町ですし、
観光客がゆったり歩ける今の雰囲気がいいと
通りすがりの観光客である私は思うのですが・・・。


埋立完成後の予想図はこちら。7分超のビデオです。


これを見ると、都市整備(交通渋滞の緩和なんかも含めて)が
主目的なんだってことはわかるし、
新しくてきれいで快適で景気も良さそうでいいことづくめ!
実際既に埋立された部分はこんな感じになってましたが、
まだ町並みにフィットしていないような違和感がありました。
まあ、あちらもこちらもそんな感じになれば、それはなくなるか・・・。


それでもそんなパナマじゃなくて、
今ある町並みを大切にしたいという人がいるのも当然。
何年かしたらまたパナマを訪れて、
どう変わっていっているのかを見てみたい気がします。


またカスコ・ビエホはちょうど独立の月に当たることもあって
パレードやってたり、公園に舞台を作ってダンスなどをやっていたり、
なかなかの賑わいでした。
写真の家に飾られているようなパナマ国旗、私達も道で貰ったので
ありがたくお土産に持って帰りました(笑)。


ゆっくりできたら良かったんですが、飛行機の時間も迫っており、
車に戻ってきた時は出発時刻の2時間前を切っているという・・・。
そこからは猛スピードで空港へ向ったわけですが、
高速道路を猛スピードで走行中にアレックスの携帯電話が鳴って
ひとしきり楽しそうにおしゃべりなんかしやがって、
乗ってる方がヒヤヒヤするというシーンもあったりしたのですが、
お陰で30分程で空港着、グアテマラへと戻ってきたのでありました。


サービス精神の旺盛なアレックスのお陰で
自分たちだけじゃ行かなかったようなところにも行けたし、
お陰で楽しい旅でありました。ありがとー!


さて、次回はパナマ編最終回(ってまだあったのかよ!)



[ 2012/01/27 11:58 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

エル・チョリーヨ 

またちょっと時間が空いてしまいましたが、またパナマの話に戻ります。
さすがにもうそろそろ終わりですけれどね・・・。


アメリカがパナマ運河を管理していた頃、
運河地帯に含まれていたアンコンの丘は、当然パナマ人が立ち入りできない場所でした。
丘の天辺には運河地帯の責任者(提督?)の家や米軍の南方基地があったとか。


運河地帯がパナマに返還された時、
運河地帯がパナマのものとなった象徴としてアンコンの丘に立てられたのが巨大なパナマ国旗でした。


そんな事情があるからこそ、アンコンの丘、そしてそこに堂々と掲げられているパナマ国旗は
独立とか愛国心とかそういうものすべてまとめた象徴であり、
だからこそアレックスが熱く語ってくれたのだなー、と
まあこれは後になってからわかったわけですけれどもね。


こうしてアンコンの丘にまつわる話はおしまい。
行ったわけでもないのに話なげーよ・・・(笑)


ちなみに、アンコンの丘に行かなかった理由というのは
「独立記念日の月だし、ひょっとして何か行事やってて通行止めになってるかもしれないから」
というアレックスの判断でありました。


自然保護区で野生動物がいるし、パナマシティや運河が見渡せるスポットとして人気あるようですが
一方で強盗とか出るから危ない、という話もあるみたい。
まあでもちょっと行ってみたかったな・・・という気はしています。


さて、その後カスコ・ビエホに行ったのですが
その途中、エル・チョリーヨと呼ばれる地区を通りました。
アンコンの丘の南側(太平洋側)にある地区ですが、
ここはアレックスが「危ないところ」と言ったように
グアテマラシティのセントロの裏通りに似たような雰囲気がそこはかとなく漂っており・・・。


運河建設当時、カリブ諸国からやって来た労働者が住み着いてできた地区なのだそうで、
現在でもその子孫達が多く、カリブ料理なんかもあるそうです。

運河返還後の1989年12月20日、
マヌエル・ノリエガが大統領だった当時のパナマにアメリカが侵攻した時、
米軍はこの地区にあったパナマ軍の参謀本部に侵入、エル・チョリーヨは壊滅。
一般市民の死者については未だに公式な発表はなく、
1000人とも5000人とも言われています。


現在のエル・チョリーヨはその後建てられた家やアパートが並ぶのだそうで、
エル・チョリーヨ全体を撮った写真はこちら


写っている小高い丘がアンコンの丘で、その奥に運河が見えています。
新市街はこのずっと右側。
アパートが写っていますが、このアパートが何というか。


言葉では説明しにくいので、写真探してみました
ちょっと日本の昔のアパートを思わせるような、
中の部屋は多分小さいんだろうな・・・という感じのアパートでしたが、
とあるアパートの2階のベランダに、
子供用の自転車がひょいっと引っ掛けてあったのが記憶に残っています。
公共スペースに置くと危ないので中に入れたいんだけれど
屋内が狭いのでこうやって収納しているのかな?と思ったのですが、
まあひょっとしたら子供が勝手に乗って出て行かないように
こうして掛けてあっただけなのかもしれないですね。


明らかにカリブ系と思われる人が多く、
ちょっと他の地区の明るさとは別の空気が流れていましたねぇ。
まあアパートのペンキ塗りなおせば良いだけかもしれないですが(笑)
アレックスは白人系なので余計居心地悪かったのかもしれないですが、
実際に犯罪率ではパナマのトップをいっている地区なのだそうです。


そしてそのエル・チョリーヨの隣にあるのがカスコ・ビエホでありました。
ちょうど独立記念日の行事関連であちらこちらが通れなくなっており、
そんないきさつもあって通ったエル・チョリーヨでしたが、
個人的にはちょっとゆっくり歩いてみたい気分になるところだったりして・・・



[ 2012/01/25 23:19 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

ペレス大統領の就任式 

いつまで経っても終わりそうで終わらない
パナマ旅行の話は今日はお休み。
というのも、今日は大統領就任式があったから。


今日大統領になったばかりのオットー・ペレス、Wikipediaによると
グアテマラの独立以降「大統領」という肩書きを持つ人物としては48代目、
グアテマラ共和国になってからだと45代目になるらしいのですが、
クーデターで大統領を名乗った人物やら何やらいるわけで、
あんまり何代目という言い方はしないのがグアテマラだったり致します。
ちなみに民選の大統領としては18代目。
再選不可で任期は4年です。


オットー・ペレスは1950年生まれの軍人。
士官学校を卒業、
パナマのアメリカ陸軍米州学校(US Army School of the Americas)を経て
グアテマラの陸軍では、悪名高い情報部の責任者などを務めていたことから
内戦時代には人権侵害事件に関わっていたのではないかという指摘はありますが
情報将校らしくその当時のことはあまり伝わってこない人物でもあります。


一方でクーデターで政権を取ったエフライン・リオス・モントの独裁政権打倒のために
クーデターを起こした将校グループの中にいたのだそうで、
ナルホド、だからリオス・モントとは仲良くないのか(笑)。


また民選大統領のホルヘ・エリアスが1993年に自己クーデターを行った時には
自己クーデターを違憲と主張して支持せず、
エリアスを亡命に追いやった立役者ともされ、
その年には地元新聞社が選ぶ「今年の10人」にも選ばれています。


その功績もあって1996年の和平合意には
軍を代表して署名を行っており、
その後は米州機構の米州防衛協議会のグアテマラ代表に転出、
2000年にその任を退くと同時に軍の方も退役。


その後政治家に転身して愛国党を挙党、
国会議員を一期務めた後、大統領選挙に参戦。
2007年総選挙ではアルバロ・コロンに敗れて次点となったものの
2011年総選挙でマヌエル・バルディソンを押さえて当選、
そして今日1月14日の就任式となったのでありました。


大統領就任式は1時間遅れで始まりましたが
式そのものはつつがなく終了。
宣誓の後、大統領のタスキ(これはラテンアメリカの風習らしいですが)、
憲法の鍵、バッジ、軍最高司令官のバトンを身につけると
無事に新大統領の出来上がり。


その後の就任演説は多分50分くらいの長いものでしたが・・・、
前任の方が演説下手だったので(拍手のタイミングも難しいくらい)、
久しぶりにも活力ある歯切れのいい演説を聴けて
なんか明るい気持ちになってしまいました(笑)


個人的に印象に残ったのは内戦に触れた部分でした。
「自分の世代の人が皆そうであるように、私も内戦を体験した。
 (我々の世代は)内戦を引き起こす原因となったことが
 今もまだ解決されていないことを理解している。
 対決の姿勢を捨て和解することによって、
 人権を尊重する国家を築くことができる」。


聞く人によって受け止め方が全然異なると思うのですが、
ここが一番言いたかったことではないのかな、と。
「虐殺事件への関与を疑われている人物だから和解なんて言うんだ」、
と言う人がいることを十分承知の上での言葉でしょうからね。
和平調印に係わった人物らしい矜持を見せたなと感じた部分でした。


早速6ヶ月で治安を改善してみせると公言していますが、
それが容易ではないことは誰もが理解しているところでもあり。
まずはお手並み拝見ですが、
何とかうまいことこの荒波を乗り切って欲しいと願っています。


さてどうなることやら。


[ 2012/01/14 21:04 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

独立後のパナマ 

パナマの歴史、続きまして第二部。


共和国として独立したパナマは、
早速アメリカと運河建設に関する条約を締結します。
このヘイ-ブナウ・バリーヤ条約(日本語ではパナマ運河条約と言われてるようですが)により
レセップスが断念した運河工事が再開され、1914年に完成します。


アメリカが永久租借地とした運河地帯は
運河流域に10マイルの幅で設定されており、面積は1432km2、
香港の面積が1104km2だそうですから、それより大きな地域を
アメリカが海外領土のように所有していたことになります。


パナマとしては独立したものの、
自国領土の真ん中を分断して他国の支配地域があり(しかも首都のすぐそば)、
何かあればアメリカ軍が出動できるという状態でしたから、
言ってみれば植民地のようなもの。
運河条約の見直しの声も高まり、1914年には当時の大統領が条約の見直しを申し入れています。


条約の内容は、1936年のアリアス-ルーズベルト条約にて
パナマの内政にアメリカが軍事介入できるという部分が無効とされ、パナマの主権強化が、
1955年にはレモン-アイゼンハワー条約により
運河の使用料としてパナマ政府に支払われる金額が引き上げられています。


時代は冷戦真っ只中の当時、
ラテンアメリカでも左傾化の動きがあり(グアテマラがその代表例ですか)
両大陸の真ん中に位置するパナマに自国領と軍事基地(南方基地)を確保すること
大西洋と太平洋を繋ぐ運河を支配下することがアメリカにとって重要だったのは容易に想像できます。


ちょうどその頃スエズ運河の管理を巡ってスエズ危機が起こり、
アメリカのアイゼンハワーは大統領は
イギリス、フランス、イスラエルの3ヶ国に対してエジプトの肩を持ち、
3ヶ国が停戦に追い込まれるという出来事もあったことから
パナマでも「パナマ運河をパナマ人の物に」という動きが出てきており、
アメリカとしては「お金払うからこのままにしておいて」という
ダブルスタンダードで対応せざるを得なかったのでしょうが
さすがにお金だけで片付くような問題ではなかったようで。


1958年にはパナマ大学の学生グループが運河地帯に忍び込み、
パナマ国旗75本を「植え」、国歌を歌うという出来事が起こったのを初めとして
その後も運河地帯にパナマ人が忍び込み、国旗を掲揚するという出来事が度々起こります。


1963年1月、運河地帯でアメリカ国旗が掲揚されているすべての場所にパナマ国旗も掲揚する、
という合意が締結されます。
同じ年の12月には運河地帯の責任者であったロバート・フレミング将軍が
翌年1月1日より米国国旗の隣にパナマ国旗を掲揚することを発表したわけですが、
一方、運河地帯のアメリカ人(ゾーニアン)がこの決定を心良く思うはずもなく。
まあ、なんつってもパナマ運河はアメリカが造り上げたものですからね。
作業したのはパナマ人を初めとするアメリカ人以外の人だったようですが・・・


そうして1964年1月。やっぱりあちらこちらでこの決定に違反して
パナマ国旗が掲揚されないまま、米国国旗が掲げられているところがあったようです。
その一つがバルボア高校。
ゾーニアンは審議会を開き、
バルボア高校でのパナマ国旗の掲揚を行わないという学生達の行動を全会一致で支持、
学生やその家族らは、当局が介入してパナマ国旗を掲揚することのないよう、
星条旗の周りで監視活動を行い始めます。これが1月9日。


一方、決定を守れとばかりにパナマ国立校の学生グループ約200人は
運河地帯の当局からパナマ国旗掲揚の許可を取り付けてバルボア高校に向かいます。
17 :30頃、一団は運河地帯の警官に止められますが、
学生の代表5人がバルボア高校に向かい、国旗の掲揚を行うという許可を貰います。
バルボア高校で待ち受けていたのはゾーニアンの約2000人。
ブーイングや投石に加えて旗を奪おうとして引きちぎると踏みつけて侮辱。
パナマの学生らは退却しますが、その後をバルボア高校の学生らと運河地帯警察が追いかけます。


このニュースはあっという間にパナマ人の間に広がり、他の市民や学生らが
国立校の学生らの応援に出動、双方に負傷者が出始めたのが18 :30頃。
負傷者を助けて安全な場所に移動させようとしていたパナマ人が死亡したのはこの頃で、
運河地帯警察が事態鎮圧のために市民に銃を向けたのが原因です。


これ以降は双方がヒートアップ、ゾーニアン側が銃を使えば
パナマ人は石や棒で応戦しながら運河地帯に大挙したため、
運河地帯警察の手に余る事態となり米軍の出動を要請。


米軍は射程の長い重火器でパナマ人を攻撃したため、
死者・負傷者の数はあっという間に膨れ上がってゆきます。


事態を憂慮したパナマのチアリ大統領は22時頃運河地帯の当局に
非武装のパナマ人への殺戮行為を停止するよう要請したものの受け入れられなかったため
国交の断絶を発表。


両者間のにらみ合いは翌々日まで散発的に続き、
コロンでもパナマ人学生と米軍の衝突が発生します。
この事件による死者は21人、負傷者は約500人と言われています。
(この事件が「国旗事件」と呼ばれ、1月9日は「殉教者の日」として記念されています)


同年4月、アメリカのジョンソン大統領は
両国間のトラブルを避けるために条約の見直しのための対話を行うことを明らかにし、
両国間は国交を再開。
条約の見直しの方はなかなか進展せず、政権は代わって1968年。
この年の10月、パナマでは軍事クーデターが起こり軍事評議会が政権を握ります。
翌年最高司令官となり、
憲法を改正した1972年にはパナマの最高指導者となったオマール・トリホス将軍は、
強権的な独裁政治家であり、亡命や暗殺が相次いだものの
一方で自由経済の信奉者でもあり、パナマが金融地帯へと変貌したのもこの頃のこと。


同時にアメリカ資本が押さえていた電力、通信、バナナ農園などを国有化してアメリカに圧力をかけ
国連に圧力をかけてパナマ運河の返還を国際問題化することに成功、
1977年には1999年12月末にパナマ運河をパナマに返還することを定めた
トリホス-カーター条約が締結されます。
一方パナマは民主化を求められ、亡命者の帰国や報道の自由が認められるようにもなりました。


その後アメリカの干渉がなくなったかと言えばそういう訳でもなく、
マヌエル・ノリエガ将軍に関連してアメリカ軍がパナマ侵攻を行ったのは1989年のことでした。


そういう紆余曲折はあったものの1999年末、パナマ運河はパナマの管理下におかれ、
運河地帯も廃止され、パナマ人の手によるパナマができたのは20世紀末。


ある意味、パナマには3回の独立記念日があると言ってもいいのかもしれません。
最初がスペインからの独立で1821年11月28日で大コロンビアの一部として、
次がコロンビアからの独立で1903年11月4日でパナマとして、
最後がアメリカからの運河地帯返還で1999年12月31日。


独り立ちしてから10年ちょいしか経ってない国でありながら
逆に庇護してくれた国の影響力やら経済力を利用してうまいことやったよなぁ~、
とグアテマラなんぞにいる私は思うわけですが、
パナマ人的には恐らく、抑圧との戦いの歴史のように感じるのではないかなぁ。


パナマ運河の建設にはアフリカやカリブ諸国などからやってきた労働者もおり、
中米としては珍しくいろんな人種の混じっているパナマですが、
そうやって独立を勝ち取ってきた歴史の中で
一つの国家を築いてきたのだという自負があるのだろうと、
例えばアレックスがアンコンの丘の話を語る口ぶりなんかからも感じたわけです。


日本には愛国心について語ることはタブーのような空気がありますが、
戦って勝ち取った国家ではないからかもだな・・・。


あ、もちろん戦って勝ち取る方がいいよね、って話ではないですよ。
日本の歴史はそれはそれで内戦に次ぐ内戦で分断したり統一されたり、
そして統一のシンボルとしてあるのが天皇なのかな・・・と思ったりしますが。


長々と書き連ねてしまいましたが、駆け足というか書きなぐりパナマの歴史はこれでオシマイ。


それにしても長かった・・・(ぼそっ)


[ 2012/01/10 22:04 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

パナマの歴史 

アンコンの丘の話を続ける前に、スペイン侵略以降のパナマの歴史について触れておこうと思います。
ネットで調べた情報が主なので、間違いや読み違いもあるかもしれません。
そういうところがあったらご指摘頂けるとありがたいです。


パナマは元々コロンビア領で、スペインから独立した時もコロンビアの一部でしたから、
中米というよりは南米という方が文化的には近いのだろうと思います。
南米の解放者として名高いシモン・ボリーバルの指揮下、
大コロンビアの一部として独立したのが1821年11月28日。


とは言えシモン・ボリーバルはやがて失脚、大コロンビアも
現在のエクアドルやらベネズエラやらが分離していったために段々小さくなり、
19世紀半ばに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、
更にはカリフォルニアのゴールドラッシュに沸くアメリカが
喉から手が出るほど欲しがっていたパナマ地峡の通行権を差し出すことで
やっとヌエバ・グラナダ共和国としての主権を認めてもらうという有様。
そのアメリカがさっさと現在のパナマの地に太平洋側と大西洋側を結ぶ鉄道を建設したのが1855年。
でも国防上それだけでは十分ではないと考えたアメリカは
20世紀に入るとともに既に通行権を有しているパナマに運河の建設を行うことを決定したのでありました。


それとは別に、1881年にはスエズ運河を建設したフランス人のレセップスが
コロンビア政府より運河建設権を買い取り、建設に当たったものの失敗しています。
(技術的な問題、マラリアなどの伝染病、資金不足などが主な理由とか)
(またこれとはまったく別に、運河建設の場所としてニカラグアとパナマが競ったという
  なかなかおもしろい話もあるのですが、 ここでは全然関係ない話なので、やめておきます。
 これも例のアレックスが楽しいお話にしてくれたのですよー)


またヌエバ・グラナダ共和国は1863年にコロンビア合衆国となり、
やがて1886年にはコロンビア共和国へと変遷したものの
1899年には千日戦争と呼ばれる内戦が勃発、
なかなか落ち着かない政情であったようです。


そんな時にアメリカ大統領となったのがセオドア・ルーズベルト。
まだコロンビアの内戦の終わらない1902年にレセップスのユニバーサル・パナマ運河会社から
運河建設権を買い取ることを決定。


ここで特筆しておくべきなのは、
このパナマ運河会社がコロンビア政府から運河建設権をゲットした際に、
運河建設権を外国政府に譲渡してはならないとの条項があったこと。


これはつまりレセップスの会社が建設し、運営はコロンビア政府・・・という意図であったわけですが、
アメリカ政府としてはこれじゃあ、おいしいところがないじゃないかと。
そんなわけでアメリカ政府はどさくさに紛れてコロンビア政府とエラン-ヘイ条約なるものを交わします。
曰く、コロンビアはユニバーサル・パナマ運河会社の運河建設権をアメリカ合衆国に売却することを認める、
曰く、運河地帯の排他的管理権等をアメリカ合衆国に付与する、
曰く、アメリカ合衆国は補償金として1000万ドルを、運河地帯の使用料として年25万ドル×9年を支払うこと等。
この合意に至るまでに1年以上かかったようですが、
争点になっていたのは常に金額だったようで、
パナマ側は当初補償金$1000万(キャッシュ)、使用料年額$100万×15年を要求してたといいますから
結構安く済んだのかもしれないですね、アメリカとしては。


しかし、コロンビア国会は
「自分とこの領土なのに他国に排他的管理権をやり、天然資源をタダで使わせるなんてもってのほか」
などとまことにごもっともな理由でこの条約の批准を拒否。


こういうコロンビア政府の態度に業を煮やしたのが
独立推進派のパナマのコロンビア人であり、アメリカ政府であり、
両者の算盤勘定が一致して、やっとパナマの独立にこぎつけるのであります。


先ほどのエラン-ヘイ条約が最終的にボツとなったのが1903年8月。
その頃からコロンビア共和国のパナマ方面で、不穏な動きが始まります。
独立推進派はアメリカ政府や一部軍人の協力を得、
コロンビア政府が遂に派兵を行ったのが同年11月3日。


ここで登場するのがパナマ運河鉄道。
兵士らは太平洋側を船で北上し、
鉄道でパナマシティ入りすることになってたらしいのですが、
運河鉄道は実は独立推進派の味方で、
軍隊まるごとではなく、将軍ら将校クラスだけを乗せていったんだそうです。
パナマシティの方では念入りに用意した兵士の一団が待ち構えており
丸腰同然な将校たちは、当然あっさり取り押さえられたんだとか。


こうして同日パナマシティで独立宣言が行われ、
翌11月4日にはとりあえず新政府なるものが樹立。


慌てたコロンビア政府はパナマ政府(と名乗る)当局に必死の引きとめ工作、
エラン-ヘイ条約も批准する、コロンビアの首都もパナマシティにするから、
何とか独立だけは思いとどまってくれ、と泣き落としを図るかと思えば
今度は軍隊を送って脅してみたりと、あの手この手を使ったもののいずれも失敗。
同時に、パナマを国家として承認する国がラテンアメリカ、北米、ヨーロッパに広がり、
コロンビアとしてももうどうすることもできなくなってしまったのでありました。


最終的には1922年、アメリカより$2500万の補償金と
コロンビア戦艦のパナマ運河の無料通行権なんてものを貰って
コロンビアもパナマを国家と承認。
一方のパナマは運河地帯をアメリカに丸ごと渡してしまって、
アメリカの傀儡のような状態で独立国家としての歩みを始めることになります。


と、ここまでが第一部。
いつまで経っても終わらないパナマの話、一体いつまで続くんだろう・・・。



[ 2012/01/06 00:34 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

アンコンの丘 

長々と続いたパナマ旅行もそろそろ終わり。
3日目、ミラフローレス・ビジターセンターを訪問した後、
「アンコンの丘とカスコ・ビエホとどっちがいい?」と聞かれたのですが、
結局カスコ・ビエホに行くことになりました。


行ったのはカスコ・ビエホだったのですが、
ガイドを務めてくれたタクシー運転手のアレックスが話していたアンコンの丘のことは
彼の祖国への誇りと共にちょっと印象に残ったので
その後ちらりと調べたことも付け加えて書いておきたいと思います。



(GFDL: Photo by Dozenist


パナマシティの西側、運河に近い方は割と平坦な地形ですが、
そこにひときわ目立ってそびえるのがこのアンコンの丘。
高さは199mで、何よりも天辺に巨大なパナマの旗が掲げられているのが目立ちます。


運河ツアーに行った時、この丘の麓を通ったわけですが、
いやでも目につくのですよね、巨大な旗が。
そうしてアレックスの説明が始まるわけです。


「運河地帯がアメリカの支配下にあった時、
 アンコンの丘もその中に含まれ、頂上にはアメリカの国旗が掲げられていた。
 パナマ人はアンコンの丘に立ち入ることができなかった。


 1964年、学生達が丘に入り込み、アメリカの国旗を降ろして
 パナマ国旗を掲揚した。」


もう2ヶ月くらい経っているので忘れた・・・けれど
概略としてはこんな話だっと思います。
このエピソードを、それはそれは大切な、大事な話のように語るのですよ。
話の内容よりも、アレックスの語り口とか、
パナマ人であることの矜持とか、そちらの方を覚えています。


実際、この出来事は運河地帯をアメリカに召し上げられていたパナマ人の愛国心と
アメリカへの反感に火をつけることとなったようで
この事件があった1月9日は「殉教者の日(Día de los Mártires)」と呼ばれており、
(宗教じゃないので正確には「殉教」じゃないのでしょうが、そういうニュアンスの言葉が見つからなくて~)
やがて運河地帯のパナマへの「返還」を盛り込んだ1977年のトリホス・カーター条約へと繋がってゆきます。


ちょっと時間が押してきたので続きはまた後日。


[ 2012/01/05 00:20 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

ミラフローレス・ビジターセンター 

またしてもしばらく日が開いてしまいましたが、パナマ旅行の話が続きます。


3日目、アレックスのタクシーに乗って半日のシティツアーです。
とりあえずはまず、ミラフローレス・ビジターセンターへ。
このビジターセンターはパナマ運河のミラフローレス水門のところにあり、
水門を通る船を見られるようになっているのみならず
運河博物館も一緒にあります。
入場料は展望コーナーのみと博物館+展望コーナーの2種類。
まず最初に展望コーナーへ行ったのですが、かなり満員。


ちょうどその頃、中米カリブ学生スポーツ大会なるものが行われていて、
大会に参加している選手たちもちょうどここに来ていたこともあって、
余計に人が多かったのかも。
ちなみにベネズエラとエルサルバドルの代表団も
私達が泊まっていたホテルに宿泊していました。
お陰でエレベーターがメチャ混みだった・・・・・・という話は置いておいて。


30 Miraflores Locks

その展望コーナーから眺める船の様子。
太平洋側からやって来た船が閘門に入って来たところ。
船の手前に船を引っ張る電車が見えていますが、
この船の場合、右舷と左舷に3台ずつ、6台の電車が引っ張っていました。
ちょうど急坂が写っていますが、この坂の高さの分だけ閘門で水位が上がるのであります。


31 Gate

閘門。
閘門の左側はまだ水位が低い状態ですが、注水して右側の部分と同じ高さに調節します。
水位が同じになったら閘門が解放され、船は電車に引かれて前進。


では、先ほどの船がどの辺りまで上昇したかというと、次の写真。


33 After

目の前で見ているとあんまり感じないのですが、
こうやって写真で比べるとびっくりするくらい上昇しているのがわかるという。
しかし、いろんな人の頭が邪魔だ・・・(笑)。


34 Cargo ship

通過中。
このサイズがいわゆるPanamax(パナマックス)、
パナマ運河というか正確には閘門の間を通過できる最大サイズで、
長さが294m、幅32.3m、喫水12m。
閘室のサイズは長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8mだそうですから
本当にギリギリですよね。
ついでに高さはアメリカ橋の下を通れるサイズと決まっているのだそうで、最大57.9m。
普通のビルにすれば19階くらいの高さですか。
船が水門のどっかにぶつかったりしないのかしら?なんてのは無粋な質問か・・・


35 Bulk ship

別の船が電車に引かれて静々と閘室に入って来るところ。
これは貨物船ではなくてバルク船ですが、やっぱりパナマックス。
ずっと眺めているだけでも楽しそうなビジターセンターですが、
この後大急ぎで博物館めぐりもしました。


運河の建設の歴史やら、現在の運河の状況やら、
建設中の第3レーンの話やら、
加えて周りの植生やら動物のことまで、盛りだくさんな内容でした。
工事してた当時の写真とか、なかなか興味深かったですね。
館内の案内板はスペイン語と英語でしたが、
入り口のところには日本語のリーフレットも置いてありました。


博物館に展示されている写真なんかはここで見られます。
展示されていない写真もこのサイトにはあるようで、
そんな1枚、アンコンの丘からパナマシティを撮った写真
1913年と2006年の両者を比べると、アタリマエなんですが同じ町かと思うくらい違っていたり。
向こうの方、写真では何にもない荒地のようなところが、
今では高層ビルの林立する都会になっているんですよね。
過去の写真が整理されていて、とってもありがたいサイトです。


当時の建設の様子なんかを見ると、現在のような重機がない時代に
多数の労働者の手作業を基本に、あれだけ大掛かりな建造物を造れたんだと
あらためて感心してしまいます。


機械や管理システムが進んでいるはずの現代の建造物の方が
見た目は奇麗だけれどよっぽど軟弱で貧弱なのはどうしてなんだろう?


理由はいろいろありそうですよね。


[ 2012/01/03 00:54 ] 旅行記 | TB(0) | CM(0)

あけましておめでとうございます! 



新年あけましておめでとうございます。
すっかり怠け癖がついてしまったブログですが、
今年もそれなりに更新していけたらと思っています。


グアテマラでは1月に新大統領の就任式があり、
12月にはマヤ暦の一区切りがつくこともあって
ひょっとしたら激動の年になるのかも?なんて期待もあったりします(笑)。


いい方での激動であるといいんですけれどもね・・・。


さてでは、今年も引き続きよろしくお願いいたします。


[ 2012/01/02 21:33 ] 雑談 | TB(0) | CM(0)