ジェノサイドか否か (7) プラン・デ・サンチェス III 

プラン・デ・サンチェスの虐殺事件、
もう一人事件の被害者の証言を取り上げておきたいと思います。
先のベンハミン・マヌエル・ヘロニモの証言の中にも名前が出てくる
エウラリオ・グラーベ・ラミレスは、
証言当時56歳、事件当時は28歳くらいでありました。
プラン・デ・サンチェスで生まれ、現在もこの村に住む彼は、
農業を営むアチー族の住民です。





当時、10日ごとに国軍の兵士ら30人のグループが
プラン・デ・サンチェスを訪れておりました。
それとは別にラシュフト、コショハバフ、プラン・デ・サンチェスには
24時間住民を監視するPAC(自警団)もありました。
また、軍コミッショナーもいて、住民にPACのメンバーとなり、
その地域を監視するよう強要していました。
兵士らは住民のことをゲリラだと言っていました。


1982年7月18日の日曜日、この日はラビナルの市の日だったので、
証人は生活用品を買うためにラビナルに行く途中、
兵士らがあちらこちらの村の住民を集め、
プラン・デ・サンチェスに向っているのを見かけました。
午後5時頃、プラン・デ・サンチェスに戻ってくると、
兵士らが暴力を使いながら、村の住民と近隣の住民を皆、
ロサ・マヌエル・ヘロニモの家に集めているのを見ました。
15歳~20歳の女性についてはギジェルマ・グラーベ・マヌエルの家に連れて行くと、
レイプし、脚や腕を折って、その後殺しておりました。
その後、もっと多くの人々を殺し、家に火をつけました。
子供達は床に叩きつけられ、それから両親と一緒に火の中に投げ込まれました。


午後8時になって家に入ることができましたが、
そこで妻と3人の子供が死んでいるのを見つけました。
娘の1人は、兄弟2人の遺体に埋もれていたため、
生き延びることができました。
証人は彼女を連れて逃げ、その夜は山の中に潜んで過ごしました。
その後、親戚の家に隠れていて難を逃れることができた
他の2人の息子をも見つけました。


その日、約280人が亡くなりました。
この虐殺は国軍の兵士、PAC、司法警察、軍コミッショナーによって行われたものでした。


1982年7月19日の朝9時、プラン・デ・サンチェスに戻り、
火をつけられた家からまだ煙が出ているのを見ました。
フアン・マヌエル・ヘロニモと出会いましたが、彼は家族を皆失っていました。
生き延びた他の人たちとも手を合わせて遺体を焼いていた火を消しました。
真っ黒焦げになった遺体もありましたが、他のものは火傷を負った程度でした。
若い女性の遺体の多くは別のところにあり、裸で横たわっておりました。
午前11時、軍コミッショナーとPACが
2時間で遺体を埋めるようにという国軍からの命令を持ってやってきました。
そのため、マヤの慣習に則って家族の遺体を埋葬することはできませんでした。


虐殺事件の後、全てはグアテマラ国軍によって破壊され、略奪されておりました。
家も所有品も失ってしまったため、
証人は5ヶ月にわたって子供達と山中に逃げ込まざるをえなくなりました。
生存者らは夜は山に逃れ、昼はプラン・デ・サンチェスに戻り、
順番に見張りをして、
兵士らが近づいてきたら逃げるようにしました。
このような生活を送らざるを得なかった時期は、
証人の人生の中でも非常に辛い時期でした。
子らは厳しい気候と空腹のため、病気にもなりましたが、
医者の手当てを受けることはできませんでした。


軍コミッショナーが許してくれなかったので、
プラン・デ・サンチェスには戻りませんでした。
もし誰かがそんなことをしようとしたら、きっと逮捕され、
軍の駐留地に連れて行かれ、そこで処刑されていたでしょう。
山の中で2年間を過ごした頃、軍コミッショナーは
PACに加われば、コショハバフに住まわせてやると言いました。


1984年の中ごろ、軍の駐留地は
虐殺事件の生き残りである約15家族のグループに対し、
プラン・デ・サンチェスに戻ってくることを許可しました。
家族統合センターは家を再建するためのトタン板などを提供してくれました。
虐殺事件の前は、貧乏ではありましたが共同体の住民の中には
調和と団結がありました。
事件の後はすべてが変わり、皆、更に貧しくなったのでした。


プラン・デ・サンチェスへの帰還は厳しいもので、
農業活動を始めるのは大変困難でした。
1990年以降、現在は自分の土地でコーヒーを栽培し、販売しておりますが、
国は証人らの財産を返してはくれませんでした。


生涯を共にするはずであった家族を失ったことは大変辛いものでした。
住民の多くは鬱状態となり、
家族を失ったので自分も死にたいと嘆いておりました。
中には、このために亡くなった人もおりました。
これらのことは決して忘れることができません。


マヤの儀式を司る老人らは虐殺で亡くなっており、
彼らの死と共に伝統も失われました。
若者には誰も教えてくれる人がおりませんでした。
更に、軍コミッショナーやPACはあらゆる集会を監視していたため、
宗教儀式を行うことには皆恐怖を感じておりました。
この抑圧された暴力的な状況について、誰も公に話すことができませんでした。
PACと軍コミッショナーが村人を厳しくコントロールしていたからです。
1995年か96年頃から、PACの活動はなくなりましたが、
彼らの存在が住民を脅かしておりました。


国がインディヘナのことを考慮してくれたことは
かつて一度もありませんでした。
教育や、住居や、保健や、政治などへのアクセスを
容易にしてくれたこともありませんでした。
虐殺事件の前も後も、誰も自分たちのことを考えてくれたりしませんでした。
グアテマラの他の人たちにとっては、私達は存在していないからです。
プラン・デ・サンチェスの虐殺事件では、
インディヘナが死んだだけで、
誰も事件について知りたくもなかったし、知ろうともしない。
もし私達がラディーノであったならば、殺されることはなかったでしょう。
実際に、ラディーノの共同体には何も起こっていないではないですか。
証人はラジオでリオス・モントが
「インディオは皆死ぬべきだ」
と言っていたのを聞いた時のことを覚えております。



[ 2008/03/30 18:36 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

麻薬カルテル間の抗争? サカパの虐殺事件 

グアテマラは北米と南米の間に位置することから、
南米から北米に向う麻薬の通り道ともなっており、
国内には麻薬カルテルが複数存在し、北米へ向う麻薬の輸送のみならず、
国内での流通をも担っています。


数年前、そういう麻薬カルテル間の抗争が派手にあった時もあったのですが、
最近は派手なドンパチはあまりなかったと思うんですけれどもね・・・。


先日25日、グアテマラ東部のサカパ県リオ・オンドにあるホテルの前で、
派手な銃撃戦があり、11人が亡くなるという事件がありました。


この事件で押収された武器はピストル14丁、
AR-15やらM-16といった、戦争に使用されるアサルトライフル16丁。
現場に残された弾丸の数はなんと460個。


・・・・・・ここは戦場か・・・・・・。


で、現場から車で逃亡しようとしたグアテマラ人&メキシコ人の6名が逮捕されております。


さて。
亡くなった11人の中にフアンチョことフアン・ホセ・レオンという人物がいたのですが、
農業を営むフアンチョ、地元ではアンタッチャブルな人物としても知られ、
常に24人のガードマンを引き連れて、防弾車で移動していたんだとか。


で、ここからは未確認情報ではありますが、
フアンチョ、麻薬の取引をするサカパ・カルテルの親玉だったという噂が。
この一帯、以前はエル・ゴルフォ・カルテルが勢力を持っていたところなのですが、
サカパ・カルテルが勢力を伸ばしてきたことから、
エル・ゴルフォ・カルテルがメキシコのシナロア・カルテルに泣きついて
この事件を仕掛けたのではないか・・・・・・という仮説もあれば、
もっと単純にフアンチョがシナロア・カルテルの麻薬を盗んだんで仕返しされたとか、
フアンチョがシナロアに質の悪い麻薬を掴ませたんじゃないかとか、
麻薬じゃなくて武器の取引で相手を怒らせたんじゃないかとか、
出てくる出てくる、勝手な憶測。


にしても、アサルトライフルやら手榴弾が使われているところを見ると、
(どちらが用意したのかは不明ながら)
最初っから相手を殺すつもりでいたのではないかなぁ・・・と。


この麻薬カルテル、イサバル県やペテン県の
自然保護地域の土地不法占拠事件とも係わっているという説まで流布しており、
状況は益々複雑になっていくようではあります。


コロンが大統領に就任して2ヶ月半。
この事件のみならず、
治安は坂を転げ落ちるように悪くなっている気がするんですけれど。


まあね、サイレン全開の白バイ警官+車2台のガードマンに守られて
混雑する道を救急車のように通過していく大統領には、
関係ない話なのかもしれないな・・・・・・。


この事件についてのPrensa Libreの記事。


[ 2008/03/27 23:19 ] できごととか | TB(0) | CM(0)

グアテマラは永遠に不滅です! - 国歌のこと 

何だか突然ですが、今日はグアテマラ国歌だ!


と言うわけで、Gaby Morenoが歌ってるバージョン、
まずは聞いてみるべし。





オリジナルのバージョンを若干アレンジしておりまして、
情感たっぷりに歌い上げるガビーちゃん。
ちょっとくどすぎるよなぁ、と思うのですが、
背景の絵がとてもきれいなので、許す。


グアテマラ人が「世界で一番美しい国歌」と言うこの国歌、
通常、全曲歌うと4分位かかります。


内容はまた勇ましいもので、概略は
「幸いなるグアテマラよ、
 汝は決して屈することがない、奴隷になることがない、
 誰かが侵略してきたら、汝は勝利か死を呼ぶ旗を風にはためかせるのだ、
 民は奴隷になることよりは死を選ぶであろう。
 ある日父たちは祖国のために戦い、血を流さずしてそれを勝ち取った。
 子らも国と家族を守るためなら、戦いを避けることは決してない。
 汝の紋章に生きるケツァルは大地を守る盾だ、
 ケツァルよ、コンドルよりもワシよりも速く高く飛べよ!
 空に向けて掲げる翼のように、
 グアテマラよ、汝の名は不滅である!」


え~、実を言うと、ざっと読んでわかるところだけ
適当に訳しました。だってむ、むずかしいんだもん・・・・・・。


まあそれにしても、ゆったりとのんびりと、
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
と国の繁栄ではなく君主の繁栄を願う国歌を持つ国の人間にとっては
えらくまた好戦的な国歌だと映るわけですが、
作詞はホセ・ホアキン・パルマ、
作曲はラファエル・アルバレス・オバイエで
1896年に国歌コンクールに優勝して国歌と制定されました。
1934年には一部改訂されているそうですが、
どこをどう変えたのか、私は良く知りません。
てか、改訂後バージョンしか聞いたことないからね・・・・・・。


実は、小僧が小僧人生で最初に歌えるようになった歌、というのは
このグアテマラ国歌だったりします(笑
まあ、私もこの国歌、結構好きです。
ただ、歌詞がなかなか覚えられないのが欠点なんですが。


長いですけれど、歌詞も一緒にご紹介しておきます。
ガビーちゃんと一緒に歌ってみてくださいねぇ~!




¡Guatemala feliz...! que tus aras
no profanen jamás el verdugo;
ni haya esclavos que laman el yugo
ni tiranos que escupan tu faz.

Si mañana tu suelo sagrado
lo amenaza invasión extranjera,
libre al viento tu hermosa bandera
a vencer o a morir llamará.

(合唱)
Libre al viento tu hermosa bandera
a vencer o a morir llamará;
que tu pueblo con ánima fiera
antes muerto que esclavo será.


De tus viejas y duras cadenas
tu forjaste con mano iracunda
el arado que el suelo fecunda
y la espada que salva el honor.

Nuestros padres lucharon un día
encendidos en patrio ardimiento
y lograron sin choque sangriento
colocarte en un trono de amor.

(合唱)
Y lograron sin choque sangriento
colocarte en un trono de amor,
que de Patria, en enérgico acento,
dieron vida al ideal redentor.


Es tu enseña pedazo de cielo
en que prende una nube su albura,
y ¡ay de aquel que con ciega locura,
sus colores pretenda manchar!

Pues tus hijos valientes y altivos,
que veneran la paz cual presea,
nunca esquivan la ruda pelea
si defienden su tierra y su hogar.

(合唱)
Nunca esquivan la ruda pelea
si defienden su tierra y su hogar,
que es tan solo el honor su alma idea
y el altar de la Patria su altar.


Recostada en el Ande soberbio,
de dos mares al ruido sonoro,
bajo el ala de grana y de oro
te adormeces del bello quetzal.

Ave indiana que vive en tu escudo,
paladión que protege tu suelo;
¡ojalá que remonte su vuelo,
más que el cóndor y el águila real!

(合唱)
¡Ojalá que remonte su vuelo,
más que el cóndor y el águila real,
y en sus alas levante hasta el cielo,
Guatemala, tu nombre inmortal!




オリジナルバージョンを聞いてみたい!という奇特な方は、
国立劇場で国立オーケストラが国立こども合唱団(いや、そんなのはなかったぞ)と演奏しているのがありますので、どうぞ。





[ 2008/03/25 23:41 ] グアテマラ基礎知識編 | TB(0) | CM(2)

過去記事を更新しています 

このセマナ・サンタの休暇、あれやこれやとあったりで、
(まあ、メインはサッカーのオリンピック予選だったんですが)
ちょっと落ち着いて文章を書く気になれなかったんですが、
その代わり、この前livedoorからお引っ越しさせてもらった
大昔の記事を少しずつ手入れしています。


ただし、順不同。


過去記事のタイトルを見て、おもしろそ!と思ったものから適当に。
まあ、メインはフォントの訂正と
カテゴリ分けだったりしますので、大したことじゃあありませんが。


今、メインにアップデートしているのは「グアテマラの住人たち」シリーズ。
わああ、そう言えばこんなことやってたよな、
私って、超オマメさんだったよな、
とわずか3年前のことが大昔のように思えたりするんですが・・・。


ま、そんなわけで、サイドバーにもこのカテゴリーができております。
今後、どんどん増殖していくかも・・・・・・。


文中のリンク先、もしリンク切れなどありましたら、
ご一報頂けるとありがたいです。


[ 2008/03/23 23:23 ] お知らせなど | TB(0) | CM(0)

セマナ・サンタをオンラインで 

セマナ・サンタも真ん中の聖水曜日となりまして、
グアテマラはなぜか聖水曜日の午後(12:00)から祝日で、
聖木曜日、聖金曜日と続きます。
国によってはイースター明けの月曜日まで祝日のところもあるようで、羨ましい限り。


まあ、セマナ・サンタまるまるお休みのところもたくさんあるけれど・・・、
その代表は学校とお役所!
学校はともかく、役所まで休みってのはね・・・、
労組が強いところの特権なのかも。
お役所いいよなぁ~、と横目で見ながら、
私もやっと今日の午後から日曜日まで休みです。


さて。グアテマラのセマナ・サンタは国外からの観光客も押し寄せる時期ですが、
有名なのはスペイン植民地時代の首都であったアンティグアのプロセッション。
最近はセマナ・サンタのサイトもあるので、
興味のある方は是非ご覧下さい。


  • Cuaresma y Semana Santa en Guatemala(グアテマラの四旬節と聖週間)
    http://www.cuaresmaysemanasanta.com/index.html


  • Semana Santa en Línea(セマナ・サンタ・オンライン)
    http://www.semanasantaenlinea.com/index.php

    どちらもスペイン語のサイトですが、
    トップページから写真(Fotos)やビデオ(Vidéo)のところに行けますので
    いろいろクリックしてみてください。


  • Guate 360°
    http://www.guate360.com/

    過去のセマナ・サンタの写真ギャラリー。
    プロセッションもあれば、おがくずで作られた絨毯もあり。
    手軽にご覧になりたい方は、こちらがお勧めです。




[ 2008/03/19 23:45 ] 風物詩 | TB(0) | CM(0)

リビングストンが危ない 

グアテマラの北、イサバル県はガリフナと呼ばれる黒人系の住民の住む、
グアテマラの中では異質の地域です。
バナナのプランテーションも多いところなのですが、
イサバル湖、ガリフナ文化、カリブ海、といった観光ポイントもあって、
のんびりゆったりとした雰囲気のなんとも素敵なところ。


そこでしばらく前から不穏当な事件が立て続けに起こっています。
ことの起こりは2月14日。
マヤ自然保護区の中で、違法行為をしたとして、
ラミーロ・チョクという人物がリビングストンで逮捕されました。
地元の留置所に入れられたのですが、
住民らがチョクを救出?に来るという噂があったため、首都に移送されたのでした。
ここまでが前段。


2月21日。
チョクの逮捕に抗議する住民らが裁判所に火をつける、という噂があったため、
警官14名が現場に派遣されました。
ところが。そこに待ち構えていたのは住民約1000人。
14名の警官なんて役立たず。飛んで火にいるなんとやら。
この警官たちが逆に人質に取られてしまったのでした。


そこへ15人の警官も応援に派遣されて来たのですが、
それが15人だろうと25人だろうと、この住民の敵にはならず。
騒ぎを大きくしないため武力は使わず、大人しく人質になったそうです。


人質となった警官ご一行様は、リビングストンから22kmのところ、
と言えばそんな遠くないように聞こえるけれど、
ランチャで川を45分、その後森の中を30分歩いて到達するんだとかいう村へ移動。
いやいや、好きで移動したんじゃなくて、
いやいやながら移動させられたんだというわけです。


そのクリーク・マヤという村の小学校で29人の警官がお勉強。
じゃなくて軟禁状態。
新聞に人質となった警官たちが大人しく椅子に腰掛けてる写真が出てたし、
とりあえず、人質の皆さん、手荒なことはされなかったようです。


住民の要求はチョクの解放。
この時は人権擁護局(PDH)が介入して、
住民の要求を検討するよう担当当局に伝えるから、ということで話がまとまり、
警官たちは解放されておりました。


なお、この「警官誘拐事件」に係わったのは、
リビングストン市の中心部ではなく、近隣の村の住民だったようです。





その後、リビングストンには表向き静かな日が戻ってきたのですが、
3月14日金曜日。またしても人質事件が発生。
しかも今度はリオ・ドゥルセを訪れていたベルギー人観光客。
人質になったのはベルギー人4人、グアテマラ人2人の6人。
グアテマラ人は観光ガイドとランチャのオーナーの模様。
この方々も昨日の夜、PDHの介入で解放されたようですが・・・・・・。





で、どうしてこの人たち、チョクの釈放を要求するのか。
チョク、この住民グループのリーダーらしいのですが、
この辺り、マヤ自然保護区とかチョコン・マチャカス自然保護区とかありまして、
アタリマエですけれど、家の建設は不可、
畑だってつくっちゃいけない場所にあたります。


そこに彼ら、家を建てちゃったんですよね。
故意なのか知らずに、なのかは不明ですが。
で、彼らは土地の私有化とチョクの釈放を要求。


できるわけないでしょー!!


そんな前例作るわけにいかないでしょうが。
大体、一般の人たちの理解を得られないような行動しちゃ絶対にダメ。
このグループのリーダー、本当にトンマだよなぁ。


でもこういういきなりの実力行使が多いのもまた事実。
まだまだ何だかこういう事件が発生するかも?です。
それにしても、誰かを拉致しても刑法に問われないって、どういう国よ。


解放された方々は直ちに首都へ移動し、
その後、ベルギー大使館のあるコスタリカへ移動するようです。
(グアテマラにあるのは領事館)。


リビングストンとかリオ・ドゥルセ、いいところなのにね。
残念。



[ 2008/03/16 23:14 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

お引っ越し 

何やらFC2で無料お引っ越しサービスを始めたとか。
いや、家の引越しではなくて、ブログのお引っ越し。


まだライブドアとアメブロ限定のようですが、
ブログの中身を持ってくることができるんだとか。
というわけで、ライブドアだった旧ブログで早速試してみました。


すごっ。
ちゃんと全部の記事がやってきましたよ。
写真とかもそのままです。
まあ、カテゴリーなんかはぐちゃぐちゃになってしまうけれど
それくらいなら全然OKです。
少しずつ整理してみようかと思ってますが、
さてそれは一体いつの日のことになるやら。



[ 2008/03/16 15:06 ] カスタマイズ | TB(0) | CM(0)

ジェノサイドか否か (6) プラン・デ・サンチェス II 

この裁判で提出された書類の中には、この虐殺を生き延びた人の証言もあります。


ベンハミン・マヌエル・ヘロニモはその1人で、
証言を録った2004年には50歳、事件当時には22歳くらいですか。
プラン・デ・サンチェスで生まれ、事件当時は農業と織物を生業としていた
マヤ系アチー族の人で、アチー語を話します。
少し長いですが、全文です。




1981年から軍の兵士がプラン・デ・サンチェスにやって来るようになりました。
若者や成人の男性を連れて行っては兵士になるよう強制していました。
その当時、村には10人からなる自警団(PAC)のグループが10あったのですが、
PACは村で起こったあらゆることを監視したり、捜査したりしていました。


虐殺事件のあった1982年7月18日の日曜日、
兵士らは午後2時ごろ村にやって来ました。
私はその時、姉の家から75mほど離れた山の中に隠れていました。
しばらくしてから、兵士らは私の姉の家に向かい、
そこに村人や途中で捕まえた人を連れてきましたが、
子供たちや、15歳~20歳くらいの若い女性は別にされました。
それから虐殺が始まりました。
最初に、年配の人たちをゲリラだと言って拷問し、
その後手榴弾を2発投げた後、一斉射撃をし、
最後にガソリンをかけて、家ごと燃やしました。
別のところに集められていた女性たちは、レイプされ、拷問されました。
女性、男性、老人らを殺害した後は子供たちの番でした。
1人1人、床に投げつけたり、火の中に投げ込んだりしていました。
兵士が村の出入口をふさいでいたので、誰一人として逃げることは不可能でした。


この虐殺を行ったのは国軍、PACと司法警察のメンバーでした。
プラン・デ・サンチェスやその近くに住む人たち約284人が、この日、亡くなりました。


私の母と妻、姪と3人の姉妹はこの時に亡くなりました。
姉妹たちのうちの1人はレイプされておりました。


翌日、私は潜んでいた場所から出て、何が起こったのかを見に行きました。
エウラリオ・グラーベ・ラミレスと
その兄弟のフアン、ブエナベントゥーラ、エステバンらと共に
まだ遺体を焼き続けていた火を消しました。
まだ黒焦げになっていなかった遺体には、拷問された痕が見られました。
裸のままの若い女性達の遺体もありました。


その後、PACの連中と軍コミッショナー達がやって来ました。
彼らは軍の駐屯地から、
遺体を2時間ですべて処理するようにという命令を持ってきていました。
そうしなければ、村の上を飛んでいるヘリコプターから銃撃して殺す、というのです。
それでPACと軍コミッショナーの監視下、
大きな溝を掘り、そこに遺体を全部放り込みました。
ですので、マヤの慣習にのっとった、聖なる土地への埋葬はできませんでした。


兵士らは村人の家々から物を盗み、
金目の衣装は彼らの間で分けるために持って行きました。
生き残った人たちは空家にもぐり込み、
兵士らがやってこないかどうかを交代で見張ることにしました。
日中はそうやって家に残り、夜になると山へ逃げ込みました。
私は、2年間を山の中で過ごしました。
殺されるのが怖くて、プラン・デ・サンチェスには戻れませんでした。
国軍に属する司法警察は「ブラックリスト」を持っており、
私達を見つけたら殺せという命令を受けていました。


故郷を追われた生活は非常に苦しいものでした。
希望もなければ、誰も守ってくれる人がいないように感じました。
飢えと、寒さと、渇きに苦しみ、
病気になっても、手当てを受けることができませんでした。


1984年の1月、1983年に発効となった恩赦の話を聞いて村に戻りましたが、
軍コミッショナーは私たちがプラン・デ・サンチェスに戻って家を再建することも、
仕事をすることも許してくれませんでした。
私たちは他の村に住まざるを得ませんでした。
加えて、PACに入ることも強制されました。
男達は全員、14歳の少年から老人まで、
全員がPACの一員となることを義務付けられました。


1984年11月、家族統合センターが、最低20人がいれば、
家を建設するというプロジェクトを始めました。
私と、フアンとブエナベントゥーラの兄弟はラビナルの軍コミッショナーに
プラン・デ・サンチェスに戻り、家を再建する許可を求めました。
こうして、他の生存者らと同様に村に戻ることができました。


村に戻った後は、ラシュフトの軍コミッショナーらが
それぞれ3日、8日、15日毎にやって来て、
私たちのことをゲリラだと言い、しょっちゅう脅迫しては
厳しいコントロールを敷くようになりました。
PACの役割には変わったものもありましたが、
リーダーたちは相変わらず、
私たち、生き延びた者らはゲリラで、
彼を殺しに来たのだという誤った考えを持っていました。
軍コミッショナーとPACは、大体1995年~96年頃になくなりましたが、
その後も村の住人にプレッシャーを掛け続けていました。


虐殺事件で、家族だけではなく、所有していた物をもすべて失った上、
時の経過と共に土地は痩せ、
収穫した物を売れるようになるまでには、数年が必要でした。


村に戻ってきた時、苦痛、無力感、怒りを感じましたが、
仕返しが怖くてそれを自由に表現することができませんでした。
証人らは、言われた通りにするより他になかったのです。
無理矢理仕事をさせられたりもしました。


プラン・デ・サンチェスの軍事化のため、
祖先伝来の慣習を続けることは不可能となりました。
虐殺事件以前は、個人やグループのディヴォーション(礼拝)が行われていました。
これを執り行なっていた老人らは何人かおりましたが、
その多くは事件で亡くなり、
その知識は次の世代に引き継がれないままとなってしまいました。
加えて、軍からのプレッシャーと若者を軍務につかせるようにという要求に
祖先からの信仰も、慣習も、知識も失ってしまい、続ける気持ちをも失ってしまいました。
虐殺事件は、マヤの儀式の中で時折行われていた宗教行事を行う自由を奪ってしまいました。
軍コミッショナーは、それは自分たちの敵に対する黒魔術で、
悪知恵をつけるものだからと言って許してくれなかったのです。


恩赦が出て、もっと自由に話すことができるようになった後でも、
宗教行事を行うためにはまだ軍コミッショナーの許可を求める必要がありました。
行事の際にはPACが交代でずっと見張りをしていました。
1994年6月から始まった遺体発掘以降、
私達はやっとマヤの行事を行う自由を得ることが出来たのです。


プラン・デ・サンチェスの虐殺事件以来、知識の伝達も変わってしまいました。
両親を失った子供たちには、祖先たちからの教えを
両親から受けることができなかったからです。


常に管理下におかれ、あらゆること、
特にプラン・デ・サンチェスの虐殺事件については、
話をすることができませんでした。
1996年、和平が調印されてやっと、
公に虐殺事件と誰にその責任があるかを話勇気をえることができました。


私達はインディヘナであり、
コミュニティーのリーダーであり、
村の発展を求めてきたという理由で差別されてきました。
その上、私達はゲリラで、虐殺を引き起こしたのは私達だとも言われてきました。



[ 2008/03/16 08:10 ] 内戦 | TB(0) | CM(2)

ジェノサイドか否か (5) プラン・デ・サンチェス I 

国内の刑事裁判が遅々として進まない一方、
国の責任を追及する訴えも起こされています。


代表的なのがプラン・デ・サンチェスの虐殺事件。
リオ・ネグロと同じくバハ・ベラパス県のラビナル市にあるプラン・デ・サンチェスでは
1982年7月18日、国軍及びPAC(自警団)らによる住民の虐殺事件がありました。


当時の大統領は、3月に就任したばかりのエフライン・リオス・モント将軍。
有名な「豆と鉄砲(Frijoles y Fusiles)」作戦や
「荒らされた大地(Tierra Arasada)」作戦を導入した人物で、
プラン・デ・サンチェスの虐殺事件はこういった文脈の中で起こったものです。


幸運にもこの虐殺を生き延びた人たちは、あまりの恐怖に村を離れ、
しばらく沈黙を守るのですが、
92年頃になってようやく、焼かれ、掘られた溝の中に捨てられたとみられる
被害者らの遺体の発掘と当局の責任を追及する声を上げたのでした。


当局からの様々の妨害を受け、
国内法ではにっちもさっちもいかなくなった原告は
米州人権委員会(米州機構に属する委員会)にこの件を提訴、
それが認められて米州人権裁判所(コスタリカ)で裁かれることとなり、
2004年にやっと、国の責任と損害賠償を認める判決が下されます。


この判決文、英語版でもスペイン語版でも100ページ以上ありますが、
原文を米州人権裁判所のサイトで見ることができます(英語版スペイン語版)。


折角なので、この判決文を読みながら、話を続けていこうかと。
なので、この項、続きます。



[ 2008/03/15 11:57 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

サマータイム 

コロンが大統領に就任して間もなく、
エネルギー大臣が「今年はサマータイムやるよぉ~」と言い出して、
4月27日から1時間早くなる、ということが決定していました。


歓迎したのが財界、でも巷の人はブーイング。
あ、そう言えば、新聞の投稿欄でこんな貴重な意見も読みましたねぇ。
「先進国を見て御覧なさい。皆サマータイムやってるでしょ。
 グアテマラだって倣わないでどうするの!」


丁寧にそれに回答する投稿もありました。
「いやぁ、全然知らなかったよ、
 サマータイムってのは緯度によるんじゃなくって、
 先進国がやるものなんだってね。
 すごい勉強になったよ、ありがとう」。


なかなか楽しいサマータイム談義だったんですが、
一昨日、コロン大統領、
「治安という面から検討した結果、
 サマータイム辞めた方がいいよ、という提案を受けたんだよね。
 なわけで、サマータイムよしとくわ」と発表。


治安問題、ってのはサマータイムの話とセットで出てくる話題なんですが、
朝の早いグアテマラ人、5時くらいから仕事に行く人たちが結構多数。
ウチの小僧だって、朝6時には既にスクールバスに乗っかっております。
なわけで、1時間早くなったら、この時間帯まだ真っ暗なんですよね。
というのが反対する人たちの意見。


夜が明るくなるわけだから、夜は安全になるじゃん。
とは誰も考えないんでしょうかね・・・?


まあでも、個人的には時計を進めたり、パソコンの設定変えたりとか面倒くさいし、
加えて1年中、暗いうちに起き出して小僧を送っていくのは辛いよ~。
というわけで、私もサマータイム反対派です。


加えて、「サマータイムやると電気代が節約できる」という大宣伝の根拠が
どうもイマイチよくわからないし。
そりゃあ、企業はいいんでしょ。
でも、一般家庭は朝の電気代がかかるから、変わらないよ。
と一般の人たちが言い出したら、庶民の大統領を標榜するコロンさん、
サマータイム廃止しないわけにはいかないでしょう。


というわけで廃止です。
それにしても理由がね・・・、治安問題かい。
そちらを解決するぞ!ってな景気のいい話じゃないところがグアテマラらしい。
サマータイムはなくなり、物価はますます高くなり、治安はますます悪くなり。


なんだ、何も変わらんじゃん。





[ 2008/03/13 22:59 ] 雑談 | TB(0) | CM(0)

パノラマ写真 

またしてもお手軽ネタで申し訳ないのですが、
ちょっとおもしろいものを見つけたので・・・。


いろいろ写真がありますが、どれかを選んでクリックすると、
360度のパノラマ?写真が見られます。
あんまりくるくると回るんで、ちょっと目が回る~!!!


と思ったら、写真にマウスを合わせて右や左に動かすと、
ゆっくりになったり、逆回りになったりします。


たくさん写真があるので、目を回さない程度に遊んでみてくださいね。



[ 2008/03/11 23:19 ] 雑談 | TB(0) | CM(0)

鳥の歌 

南米の方でなにやらきな臭い雰囲気が漂っておりますが・・・・・・。
そりゃあウリベさん、たとえFARC退治だろうとなんだろうと
国境を越えて入っちゃ、そら、その時点でアウトだよ。
おまけに他国の国土内で武力を行使しちゃうって、何事!?


でもって逆ギレしてチャベスやらコレアやらを非難するのもなんだかねぇ。
チャベスがFARCに資金援助してる、って指摘にしたって、
「人質解放のためだ」って言われたらオシマイじゃん。


ニカラグアのオルテガまで、コロンビアと国交断絶。
なんだかいや~な感じです。
大丈夫なんだろうか、ウリベさん。


と言う訳で、ちょっと気分転換にこのビデオを。
パブロ・カザルス(Pablo Casals / Pau Casals – カタラン語表記)と言えば、
前世紀の偉大なチェリストであり、偉大な魂であった人物です。


1930年代にスペインで起こった内戦は、
フランコ率いる共和国軍が勝利し、
各国が次々とフランコ将軍の政権を承認してゆくのを、
亡命先のフランスのプラドで苦い苦い思いで見守らざるを得なかったカザルスが、
フランコへの抗議の思いを込めて演奏したのがこのビデオ(らしい)。


曲は、内戦で多くの犠牲者を出したカザルスの故郷、
カタルーニャの民謡である鳥の歌 (El Canto dels Ocells)
カザルスの演奏で一躍有名になった鳥の歌、
1971年に国連本部でこの曲を演奏した時、
「私の故郷の鳥は、ピース、ピース、と鳴くのです」と語ったという逸話は有名です。
音質はあまり良くありませんが、カザルスらしい、
平和への思いの詰まった演奏を是非、お聴きください。





[ 2008/03/06 23:46 ] monjablancaのお気に入り | TB(0) | CM(0)

ジェノサイドか否か (4) リオ・ネグロのこと 

グアテマラの内戦で、今まで罪を問われた人はいなかったか、
というと実は国内で有罪判決が出て懲役刑になっている人もいたりします。


グアテマラシティーの北にあるバハ・ベラパス県のラビナル市に
リオ・ネグロという村があります。
1982年、国軍及び自警団(PAC)により住民が虐殺されるという惨劇の舞台となった村でした。


話は少し遡るのですが、1978年、この地域に水力ダム建設の話が持ち上がります。
世銀、米州開発銀行などの援助を得て進められたこの計画、
現在のグアテマラの電力供給に欠かせないダム及び発電所となっているのですが、
建設には、当時その付近に住んでいたアチー族住民の立ち退きが必要でした。


しかしながら、政府から割り当てられた土地は
以前の土地ほど豊かではなかったことなどから、
多くの住民が故郷に戻って来ておりました。


その住民たちを殺害したこの事件、
後にリオ・ネグロの虐殺事件と呼ばれるようになります。
とは言え、全員が一度に殺害されたわけではなく、
1982年の3月13日に177人、5月に82人、9月に92人が殺害されたとか。
生き残ったのはわずかばかりの子供たち。
彼らは兵士らに引き取られ、奴隷のような生活を送ることになります。


その中の一人がヘスス・テクー・オソリオ(Jesús Tecú Osorio)。
1971年生まれのヘススは、虐殺事件で家族のほとんどを失い、
PAC隊員の家に連れて行かれましたが、
幸運なことに、やはり虐殺事件を生きのびた姉が
2年後にヘススの親権を主張、奴隷生活から逃れることができました。


そして1993年。まだ内戦の終結しない頃に、
ヘススはこの虐殺事件の責任者3人を告発、
虐殺された人々が埋められている場所の発掘を要求します。


現在ですら、グアテマラでは力を持っている相手に対抗しようとする時には
常に自分の身に危険が及ぶ可能性が存在します。
当時も、一時ほど激しくなくなったとは言え、暗殺はまだまだ続いておりました。
そのようなリスクを犯してまで真実を語り、正義を求めた彼には、
1996年、リーボック人権賞が授与されております。
リーボック人権財団のサイト(英語)。


そしてヘススが告発した元PACの3人には、
「人道に対する犯罪を犯した」として98年に死刑判決が下りました。
この判決は99年に懲役60年に減刑されましたが、
この36年の内戦に関連して国内で有罪判決が出たのは、
このリオ・ネグロの虐殺事件と95年のシャマン事件くらいではなかったか・・・。


ヘススはその後、賞金を元に新しい希望の財団を創設、
学校を建設したりして、ラビナルの人々のために活動しています。


リゴベルタ・メンチュさんほど有名ではないですが、
グアテマラの内戦を語る時に忘れてはならない人だと私は思います。



[ 2008/03/04 20:25 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

グーグルマップ その後 

いやあ、こちらの話題で「その後」を書くつもりはなかったんですが。


結構気に入って、少しずつ追加データをアップしたりしておりますので、
お暇な時にでも、左のプラグインのところからアクセスして見てやってくださいね。


で、ですね。
結構お勧めの使い方がPanoramioの写真を重ねるヤツ。


まず、グーグルマップのページに飛んでください。
プラグインの「グアテマラ・マップ」をクリックすると
今読んでいらっしゃるこのページはそのままで、グーグルマップのページに飛びます。


で、左側に検索結果と書かれたタブとならんでマイマップってタブがあるのでそちらをクリック。
注目の地図、というタイトルでいくつか並んでいると思いますが、
Panoramioの写真てののチェックボックスをオンにしてください。


すると、あ~ら不思議、いろんな写真が表示されるではありませんか!


って、Google MapやGoogle Earthを愛用されている方ならご存知だと思いますが、
一般ユーザーが自分の写真を公開することができるんですよね。
その公開された写真が地図上に表示される、というだけのこと。


でも、これだけで相当な数の写真がありますし、
私なんぞがカメラを持って突撃できないようなところの写真もアップされてますので、
これ見てるだけでも結構楽しいですよねぇ~。


グアテマラシティーから離れても、いろんな写真があります。
写真をメインにご覧になられたければ、Panoramioのサイトから入られた方が良いかも。


で、これ見始めると、あっという間に時間が経ってしまうのが欠点です。
やばっ、もう寝なくては。


[ 2008/03/03 23:51 ] 雑談 | TB(0) | CM(0)

バス事故 その後 

この事故、結局死者54人(内46人が現場で死亡が確認された)、
負傷者27人という大惨事となり、政府は3日間の喪を宣言しております。


事故のあった29日、バスは17:40に第4区のターミナルを出たらしいですが、
この日は月末の給与支払日であったこともあって、市内はかなりの渋滞。
フティアパ行きのこのバス、
超満員の乗客75人を乗せていたそうです(定員は48人)。
そして問題のエル・チレロ・カーブにさしかかったのが19時過ぎ。


救助された乗客の話。
「バスはものすごいスピードで走ってて、道は真っ暗だった。
運転手が『ブレーキが効かない!つかまれっ!!』と叫んだかと思うと
ものすごい音がして、まず後ろに、それから前に大きく揺れた」。
またしてもブレーキが効かなかったのか・・・・・・。
バス事故の理由って、これ以外に何かありましたっけかね?


それにしてもこの事故は、いろんな問題を明らかにしてくれたのでもありました。


まず、路線バス側の問題。
時間が経ってくるにつれ明らかになってきたのが
運転手は乗り合いバスの運転に必要なプロフェッショナル・ライセンスを有しておらず、
以前にも無免許で検挙されたことがあり(罰金刑)、
ついでに一般自動車の速度違反でも検挙されたことがある(やっぱり罰金刑)。


加えて、事故車は法律で定められている保険に入っておらず
(10月に切れたまま、延長されていなかった)、
つまり、営業してはいけない状態でありました。


・・・・・・まあ、そんなことを言い出すと、
営業できるバスなんて数台になっちゃうかも、ですが。
確認された情報ではないですが、国会議員がこのバスのオーナーだったという噂もあり。


そしてまた、こういう状態を放置した当局。
これもいつものことと言えばいつものことですが、
無免許の人物にバスを運転させるバスオーナーまたはバス会社と共に、
責任を免れるものではないと思うわけですが、
実際に責任を追及されることはまずない、んだろうな。


更に救急救命体制。
この事故の被害者は、すべてグアテマラシティーの国立ルーズベルト病院に搬送され、
ルーズベルトは30人を超える重傷者を一度に受け入れることとなりました。
明らかにキャパを越えた重傷者数で、7人が他の病院に転送されたようです。
(5人はもう1つの国立病院へ、他の2人は社会保障病院と軍病院へ)


てか、いかな救急病院だったとしても、明らかにキャパオーバーでしょ。
こういう時に受け入れられる病院が国立病院しかない、じゃあ助かる患者も助からない・・・。
せめてヘリで、他の地域の国立病院へ搬送するとかできないんだろうか。


ちなみにルーズベルト、バスの出発地であったターミナルよりももうちょっと先で、
事故現場からは約40kmですか?
まず、首都圏から駆り出された救急車が現場にたどり着くまでに時間がかかり、
崖下の被害者を助け出し、病院に運ぶまでにも時間がかかり。
救急隊の人たちにとっては困難の多い作業だったとは思いますが、
大事故の際の救急体制としては、いかにも脆弱な感じです。


悪条件が重なって救助が間に合わずに亡くなった方もいるのではないかと思いますが、
何よりも、この類の事故、頻繁に起こっているのですよね。
その度ごとに今回とまったく同じようなことが繰り返されている。


まったくいつになったら・・・・・・。
とタメイキしか出ないですよね、やっぱり。



[ 2008/03/02 18:47 ] ニュース | TB(0) | CM(2)