セリート・デル・カルメン V 

怪しい光も治まって月日が経ち・・・。
エルミタ盆地はあいかわらずのどかな日々が続いていましたが、
セリート・デル・カルメンにはやがて司祭が常駐するようになり
礼拝堂も少しずつ大きな建物になっていったのでありました。


Cerrito del Carmen


1773年7月29日、当時首都であったアンティグアが大地震で崩壊すると、
首都をどうするかという話し合いがもたれました。
アンティグアのあるパンチョイ盆地にそのまま再建しようという意見もありましたが、
他の土地へ遷都することとなり、
エルミタ盆地とハラパ盆地のどちらかにしよう!ということになったのです。


まあでもパンチョイ盆地からも近いエルミタ盆地になったのは当然の帰結のような。
グアテマラシティへ正式に遷都されたのは1776年5月23日で
その名もLa Nueva Guatemala de la Asunción。
アスンシォンの新グアテマラ、
アスンシォンはセリートの近くにあった地域名みたいなもので
このセリートの麓、アスンシォンの辺りを中心として新しい首都が建設されたのでありました。


以来、236年間にわたって発展を続けてきたのがグアテマラシティで
こうして聖テレサの「この像が置かれたところは大きな町となるでしょう」
という言葉が成就することとなったのであります。


セリートに関する話でもう一つだけ。
スペインからもたらされたカルメル山の聖母の像は
16世紀半ば頃のものと見られる小さな木製の像なのですが、
2001年にセリートから盗み出されるという事件がありました。


その後しばらく杳として行方が知れなかったのですが
2年後の2003年、チマルテナンゴ県テクパン・グアテマラ市(奇しくもグアテマラ最初の首都だった町)の
パンアメリカンハイウェイ沿いに放置されていたのを地元の人が見つけ
家に置いてあったのが見つかったのでありました。


聖母像は一部破損するなどダメージもあったのですが
1年間にわたる修復を終えてセリートに帰り
グアテマラシティの守護者の一人として現在も慕われているのであります。


Cerrito del Carmen



[ 2012/08/30 23:15 ] 街角 | TB(0) | CM(0)

セリート・デル・カルメン IV 

Cerrito del Carmen

この碑文には
「教会建立二百周年
 これはバイエ・デ・ラ・エルミタ、二百周年を迎えた現在のグアテマラシティに
 初めて建設された教会である。
 1976年1月2日 グアテマラ市」
と刻まれておりまして、
1776年1月2日に遷都されたグアテマラシティの二百周年を記念した内容となっています。


この約1ヶ月後、1976年2月4日に大地震が起こり
国内各地で25,000人の死者を出すことになるのですが、
グアテマラシティはアンティグアのように放棄されることなく
中米最大の都市となり、聖テレサの
「この像が置かれたところは大きな町となるでしょう」
という言葉は成就したのであります。
(前々回のエントリーではこの言葉を誤訳していたので訂正してあります)


さて、このセリートにまつわる不思議な話や伝説はいろいろあるようですが、
グアテマラの伝説や民話を集めたエクトル・ガイタンの
「ラ・カイエ・ドンデ・トゥ・ビベス(La calle donde tú vives, あなたが住む街角)」にも
「セリート・デル・カルメンの怪しい光」という話が収録されています。




セリートの付近にまだ粗末な小屋と家畜たちがいた頃のこと。
カルメル山の聖母の信心会の一人が
酒を飲んでいたとは言え、カルメル山の聖母の祝日の前の晩、
聖母の悪口を言っていたという噂が広まった。


その農夫ホセ・マリア・アクシン・コヨクは
信心深く礼儀正しい人物であったが
息子を病で失っていた。


人々は
「チェマ・アクシンのせいで悪いことが起きるんじゃないか」
と心配した(訳注:チェマはホセ・マリアの愛称)。
数年前に旱魃が起こったりコレラが流行ったりしたのも
そんなことがあった後だったからだ。
天罰が下るのも時間の問題だと誰もが思っていた。


カルメル山の聖母の祝日が盛大に行われた。
しかし人々は心配でならなかった。
中にはチェマをリンチにかけるべきだといい出す者までいた。


午後の祈りが終わった後のことである。
セリートの教会の上部から強い光が輝いているのを何人もが目撃した。
この火の玉のような光はセリートの周囲を飛び回り、付近の家に引火した。
人々は驚いて逃げ出し、その光が遠ざかっていくまで隠れていた。
皆、これはチェマ・アスキンが聖母を罵った天罰だと考えた。


チェマは大いに反省し、赦しを求めた。
しかしチェマの話は代々語り継がれることになる。


29年後の1649年4月14日、
再び火の玉のような光が出現した。
チェマが罵ったせいだという者もいたが、
チェマは既に亡くなっていたので、
そうではないと言う者もいた。


1680年の3月25日にも同じ光が出現し
人々をパニックに陥れた。
いつもセリートの近くの民家や牧草を燃やして消え去るのである。
この光は1681年1月20日、
1691年9月18日にも出現した。


事態を憂慮したセリートの司祭らは十字架を建てた。
それ以降、怪しい光は出現することなく現在に至る。


そしてこの光のことは教会の記録に書き記されているのである。




司祭らが建てたと言われるカラバカ十字(一生懸命探したのだけれど、訳語が見つからず・・・)は
今もセリートに建っています。
手持ちの写真がないので、リンクをぺたり


カラバカ十字は、キリストが磔刑にされたその十字架の破片で作られた十字架のことのようで
オリジナルはスペインはムルシア州のカラバカ・デ・ラ・クルスのバジリカに納められているのだとか。
そのレプリカがこのセリートにも建てられて、
それ以降、妙な光は一切出没しなくなったという話。


これ以外にも、幽霊が出るとかヨローナ(泣き女)が出るとか、
いろいろな怪奇現象と縁のある土地のようですが、
日中訪れる分には問題ないはずです!(多分)


ちょっとその光を見たい気もしないではないですが・・・。



[ 2012/08/24 23:58 ] 街角 | TB(0) | CM(0)

セリート・デル・カルメン III 

Cerrito del Carmen

前回の1871年のグアテマラシティの写真に
似たような角度で一枚撮っていたのがこれ。
木と木の間、向こうの方にポツリと見える青い丸屋根がカテドラルで、
右側の木に一部隠れているのがパラシオ・ナシオナル(国家宮殿)。


140年の間に全く変わってしまったのね・・・(まあそりゃそうか)。


Cerrito del Carmen

一番目立つ建物は一際大きいパラシオ・ナシオナル、
てなわけで、そっち方面にズームインしたのがこれ。
右側の教会はサン・セバスティアンかな。


さて、セリートの物語、実はまだ続きます。




聖母像を礼拝所に奉った翌日。
住民が祈りを捧げにやって来たのに、礼拝所はもぬけの殻。
そう、聖母像がいなくなっていたのでした。


誰もが泥棒!と思って方々を探してみたもののどこにも見当たらず。
結局、元のむさくるしい洞窟に「帰宅」されていたのでありました。


「一体どうしたことだ」
「マリア様ともあろうお方が実家に帰ってしまわれるとは」
「でもきっと、あの礼拝所がお気に入らなかったんだよ」
「あんなむさくるしい洞窟の方がいいっていうのか」
「わしらにはわからん」
「マリア様に聞いてみるしかないんじゃないか」
こうしてフアンに、礼拝所を建てるから聖母様にどこがいいか聞いてほしいとお願いしたのでした。


その数日後。
フアンは皆と町の真ん中にある丘に行ってみました。
そしてその丘とカルメル山が似ていることに気づき、
この丘に礼拝所を建てて聖母像を奉ることにします。



私はカルメル山に行ったことないので、
はっきりしたことは言えないのですが
カルメル山って少なくともこのセリートよりはかなり大きいし、
山の上からは地中海が見える!という話。


確かに平地の中にぽこっとできているところは似ているのかもしれないですが
セリートは1,2分で登れちゃうし、
この前帰省した時に行った金沢城址の方がよっぽど大きいわ・・・。


まあでもマリア様が「ここにする!」って言ってくれれば、
大きいとかそんなことはどうでもいいわけで。




セリートは草ぼうぼうの荒地だったのですが、
住民はさささっと草刈りを済ませると小さな小屋を2つ作り、
1つに聖母像を、もう1つをフアン用としたのでした。


ここにちゃんとして礼拝堂が建設されたのは1620年のことで
壁には石材、屋根には瓦が使われ、
フアンが寝起きするための居室も礼拝堂の前に造られていました。


こうしてできた礼拝堂には付近の住民のみならず、
ピヌラ、ミスコ、ペタパといった
現在のグアテマラシティの隣町からも人々が訪れ大賑わい。


そうしていつしかこの付近は
バイエ・デ・ラス・バカスという名前から
バイエ・デ・ラ・エルミタ(Valle de la Ermita、隠者の谷)と呼ばれるようになりました。



まあ、隠者の谷も間違いじゃないけれど、
なんで聖母の谷とか呼ばれなかったんだろう?と思うのは私だけですかね?


現在でもグアテマラシティのあるこの盆地は
バイエ・デ・ラ・エルミタと呼ばれていますが、
その名前の由来はフアン・コルスだったということになります。


この数年後、フアン・コルスは忽然と姿を消してしまい、
その後の行方についてはまったく不明です。


でもフアンがアビラから持ってきたカルメル山の聖母像は
今も大切に受け継がれ、毎年7月16日のカルメル山の聖母の祝日には
プロセシォンは行われるし、露店は出るしのお祭り状態。


Cerrito del Carmen

ま、そんなお祭りのない普段の日にも
ふらりと立ち寄ってぼーっとするのに良さそう。


今度はもう少しお天気の良い日に行ってみたいな。


[ 2012/08/23 23:52 ] 街角 | TB(0) | CM(0)

セリート・デル・カルメン II 

Cerrito del Carmen

セリート・デル・カルメンの一画にたたずむ像が一つ。
この方、名前をフアン・コルスといいます。
今日はこのフアン・コルスのお話を。




イタリア人のフアン・コルス(ってこの名前は全然イタリアっぽくないんですが)は
フランシスコ会第三会の修道僧でした。




突然ですが、いきなりここで用語の解説になります。


カトリック教会の修道会には男子会のみの修道会(たとえばイエズス会)、
女子のみの修道会(たとえば聖心会)もある一方で、
フランシスコ会のように男子会(第一会)、
女子会(第二会、フランシスコ会の場合はクララ会)、
そして在世修道者のための第三会を持つ修道会も存在します。


第一会と第二会がそれぞれ出家した修道者のためのものであるのと対象に
第三会は普通の家庭生活を営みながら、
その会の精神に従って生活することを希望する人たちのためのものです。




さてフアンさんは17世紀の初め頃にエルサレムへの巡礼を行い、
今度は、当時未開の地であった新大陸へ行って隠者となることを決意したのでありました。




・・・物好きな。




そうして港に向って西へ西へと移動中、
フアンはスペインのアビラという町を通ります。



アビラはカルメル会という修道会を改革した聖テレサ(1515-1582)を輩出した町です。


聖テレサと言っても、ピンと来る方はあまり多くないかもしれませんが、
ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」で
トム・ハンクス演じるラングドンがイルミナティを追い求めながらローマを駆け巡っていた時、
「火」のシンボルとして使われたサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会の像、
って言うとピン!と来る方もいらっしゃるかも。


ベルニーニ作の「聖テレサの法悦」という、アレです。
本当に見事な彫刻。
ローマはどこへ行っても美術品だらけでいいなぁ~。


えーと、何の話でしたっけ。




フアンが新大陸へ渡って
隠者として生活しようと考えていることを知ったカルメル会のシスター達は
聖テレサが亡くなる前に願っていたように、
カルメル山の聖母の像を彼の地に持って行ってくれるように頼みます。



カルメル山というのはイスラエルにある山で
預言者エリヤが祈りを捧げたところとも聖書に記されています。
この山に修道院を築いて暮らした修道者がカルメル会の起源ですが、
「カルメル山の聖母の修道会」というのが正式な名前で
カルメル山の聖母というのは多々ある聖母のタイトルの一つであります。
カルメンという名前もこのカルメル山の聖母から派生した名前ですよね。




フアンはその依頼を「合点承知」と快く引き受け、
どんなところに聖像を置くべきかとシスター達に尋ねます。
「それはマリア様が自分でお決めになられるわ」とシスターらしく雲を掴むようなご返答。
もっとも、聖テレサは「大きな町に置いてね」と言っていたのだそうで
聖テレサは「この像が置かれたところには大きな町ができるでしょう」と言っていたのだそうで、
その言葉を胸にフアンは聖像を抱えて船に乗り込むと、大海原へと旅立ったのでありました。
(間違いがあったので訂正しておきます)




Castillo de San Felipe

サン・フェリペ要塞。
あんまり関係ないけれど、
大西洋を渡ってやって来ると、こんな感じのところに着きますよ、ってことで。




35歳になったフアンは新大陸のグアテマラ総督領に上陸します。
現在のグアテマラシティのラス・バカス川のほとりに2つの洞窟があったのですが
1つを住居にし、もう1つに聖母像をまつって隠遁生活開始。
洞窟から出てくるのは年に2度お布施を貰いに回る時だけという
完全なヒッキー生活。


聖テレサの遺言の「大きな町」には程遠いド田舎だったラス・バカス川のほとりで、
土地の人たちも「何かうさんくさい男が住んでいる」と思いながらも
洞窟におかれた聖母像があまりにも見事だったこともあって
度々洞窟を訪れるようになります。


そうするとやっぱり皆、
「こげな粗末なところにマリア様置いとくわけにはいかね」
って思うわけですよね。
フアンの同意を得て礼拝所を建設し、
無事その中に納められたのでありました。


めでたし、めでたし。




話の中に出てくるカルメル山の聖母の聖像、
私は実物は見たことないのですが、写真はこちらで見られます。


そんなに美しい像か?と正直言って思っちゃいますけどね・・・。
(だって二重顎だし、四頭身だし)
ちなみに、冒頭の写真でフアンが手にしている箱の中に
この聖像が入っていたのだと思われます。
そう、小ぶりな像なのですよ。


ついでにもう一枚ペタリ。
さすがにフアン・コルスが来た頃のグアテマラの写真はありませんが、
これは1871年にセリートから撮った写真だそうです。
右の方にカテドラルが見えているけれど、なんとものんびりとした田舎で、
確かに牛がいても全然違和感ないような。


こんな時代もあったんですよねぇ。



[ 2012/08/22 23:46 ] 街角 | TB(0) | CM(0)

セリート・デル・カルメン I 

Cerrito del Carmen

セリート・デル・カルメン(Cerrito del Carmen)は
グアテマラシティの歴史を語る時に必ずといっていいほど登場するところです。


セリートはセロから派生している語句で丘の意味。
その名の通り1区にある小高い丘のことで、2区と6区にも接しており、
私も行ってみたいとは思っていたのですが、
「あの付近は危ない」という評判があったんですよね。


近年、グアテマラシティが1区の歴史的地区の復興作業に励んでくれたお陰で
セリート・デル・カルメンもすっきり整備されて健全な雰囲気となり、
だったら一度行ってみたい!と思っていて
祝日だった8月15日、セリート・デル・カルメンまで行ってきたのでした。


Cerrito del Carmen

セリートの散歩道。
グアテマラシティのお庭部隊の仕事でしょうね。
写生している人なんかもいて、周囲のむさくるしい1区とはここだけ雰囲気違う・・・。


さて、ここを「グアテマラシティの歴史を語る上では欠かせられない」と紹介した以上
歴史を物語ることになるんだろうな・・・と思うのですが、
ちょっと長いし、退屈ですよ!!!(と一応前置き)



むかしむかし、アンティグアがグアテマラの首都だったころ。


華やかな首都であったアンティグアとは対象的に
現在のグアテマラシティは木や草が生い茂る単なるド田舎でありました。
寒い時期には北風がびゅーびゅー吹き降ろし、
トウモロコシの栽培くらいしかできないような土地だったのであります。


そんな田舎のセリート付近を領地としたのはコンキスタドールのエクトル・デ・ラ・バレーダ(Héctor de la Barreda)。
バレーダは「俺様にこんな何もない土地を寄越しやがって!」
と内心では腸がグツグツと煮えくり返っていたこととは思いますが、
その一方で豊かな牧草があるのだから、きっと牧畜に向いているに違いない!と考え、
現在のキューバから牛を連れて来たのでありました。


こうしてグアテマラ最初の畜産農家となったバレーダでしたが
彼の想像以上に牧畜は成功し、
やがてこの地は「牛の谷(Valle de las Vacas)」と呼ばれるまでになったのです。



グアテマラシティにラス・バカス川という、やがてはモタグア川に流れ込む川があるのですが、
その名前って、きっとこの時代に由来するんでしょうね。
ひょっとして牛も流れるほど水かさの多い川なんだろうかとずっと思っていた私・・・。


ま、時々死体が流れているみたいですけれどね・・・(現在)。


コホン。


そのラス・バカス川はセリートよりも東側、低くなったところを北に向って流れています。




牧畜に成功したバレーダ一族は、本国より親戚一族が続々と入植し、
彼らの土地はリンコン・デ・ラ・レオネーラ(Rincó de la Leonera)と呼ばれるようになりました。
ただし、この名前の由来については不明、とWikipediaに書かれています。




ここまでが序文かな。
この後、舞台はスペインへと飛ぶのですが、続きはまた。


[ 2012/08/18 12:07 ] 街角 | TB(0) | CM(0)