ペテン県のはなし 

モノカルチャーの話をさらっとおさらいした後で、話は再びペテン方面に戻ります。


ユカタン半島の根っこに位置するペテン県では
数多くのマヤの都市跡が見つかっていますが、
マヤ文明がその地で栄えたのは紀元前250年から西暦900年頃のことでした。


大都市群は放棄されたものの、マヤ族がその地からいなくなったわけではなく。
ペテン・イツァ湖の周囲には小規模ながらいくつものイツァ族の町があったことが知られています。


そのイツァ族の町の一つ、現在のフローレス島にあったノー・ペテン(Noh Petén、大きな島の意)は
メキシコを征服したコンキスタドールのエルナン・コルテスらの攻略にも屈することなく
1697年まで抵抗を続けます。
(一般に最後まで抵抗を続けたのはタヤサルと言われていますが、
 タヤサルの町はフローレス島の北の半島部分に位置しており
 フローレス島にあったのはノー・ペテンであった模様)
そういうこともあってスペイン人が入植して来た時期も遅かったのですが、
ペテンへの入植者らは広大な土地を利用して牧畜を始めたのだそうです。


1821年にグアテマラが独立しますが
ペテン地方に移住しようとする人はまだ少なかったといいます。
何しろ首都から遠い上、
熱帯の密林で、マラリアやデング熱みたいな病気もあるし、
スペイン人にとっては決して生活しやすい環境ではなかったでしょうねぇ・・・。


マホガニー等の高級材の伐採が始まったのも独立以降のことで
20世紀になると輸出材としてのチクレ、ゴム、木材、それから石油といった天然資源の採取が盛んになります。


それでもペテンはまだまだ北のはずれの遠い地方でしかなかったのですが
豊富な資源や広大な土地に着目したのが1945年に大統領となったフアン・ホセ・アレバロ。
アレバロは国策による入植を進めようと、ポプトゥンに農業入植者のための町を作ります。
そうやって器は一応できたのですが、
肝心の道路がまだ整備されていなかったりして、どうやって辿り着けというんだか・・・。
ま、そんなわけで当時もまだ移住する人は少なかったのだそうです。


そんなペテンが大きく変貌していくのは
国営ペテン経済開発推進会社(FYDEP: Empresa Nacional de Fomento y Desarrollo Económico de Petén)が設立された1959年以降のこと。


次回はそのFYDEPについて触れてみようかと。



[ 2012/11/02 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

モノカルチャーと土地問題 

農業及び資源環境研究所(Instituto de Agricultura, Recursos Naturales y Ambiente: IARNA)は
私立ラファエル・ランディバル大学の研究機関の一つです。


その名の通り、天然資源や環境について、
特に農業の状況と照らし合わせながら研究調査を行う機関で
自然や環境を保護しながら農業生産を進めていけるバランスを模索するという
崇高な使命を負っているっぽいところであります。
これ以上書き続けるとボロが出そうなので、IARNAの話はこの辺にして。


そのIARNAのリサーチャーであるラウル・マアスは
この地域のモノカルチャーは植民地時代に端を発していると指摘しています。
以下、マアスへのインタビュー記事を元にしながら、一部補足したものです。


植民地時代、スペインはアメリカ大陸の先住民を自らの臣民と定義づけ、
先住民を植民者に委託するエンコミエンダ制を導入します。
先住民は労働力の提供と貢納を義務付けられ、
植民者は先住民のキリスト教化を引き受けることで魂の面倒をみる、
というのがこのエンコミエンダ制。


スペイン人の宣教熱というのは
イベリア半島がイスラム教徒に征服され
後に取り戻したという歴史的事実によるところも大きいのでしょうが、
悪意がないだけに却って性質が悪いという典型例ではなかろうか・・・。


というのは本題とは関係のない話ですが。


さて、労働力を提供することとなった先住民はやがて奴隷化し、
酷使された末、疫病などで人口が激減。
持ち主がいなくなった土地は植民者が自分の物としていったのでした。


グアテマラがスペイン領から独立した時、
土地を持っていたのは植民者の子孫であるスペイン人、
クリオーヨ(アメリカ大陸生まれの白人)、
ヨーロッパ系の血を引くメスティソ(混血)らだったそうです。
当時の労働法では、先住民はエンコミエンダ制の時代そのままに
「自分の土地ではないところで無償で労働力を提供すること」が義務付けられており、
これが廃止されたのは何と1945年のアレバロ政権時代のことでした。


その間約350年!


インタビュー記事にはマアスの言葉として次のように書かれています。
「セベロ・マルティネスは『(インディヘナよりも)奴隷の方が恵まれている』と言っている。
 なぜなら奴隷は財産であり、投資に見合うよう食事を与えたりしなければならないが、
 インディヘナにはその必要さえなかったから」。


エンコミエンダ制は時とともに少しずつ姿を変え、
やがて土地は植民者に配分されるようになります。
先住民らはその一画に土地を与えられ、住居や畑として利用することが認められます。
先住民の共同体ができあがり、その中のリーダーが土地の配分や、
植民者の土地へ作業に行く順番を決めたりしていたのでした。


この方法は、若干姿を変えてはいますが、現在でも引き継がれています。
サトウキビでもアブラヤシでもコーヒーでもバナナでも、
労働者はその一画に住み込んで労働力を提供する。
その報酬は最低賃金にさえ満たない程度であることもまた多々なのですが。


なぜそうやって他人の土地で働かなければいけないのか。


グアテマラ独立時、それまではスペイン王室領とされていた土地は
グアテマラ政府の土地となり、
カトリック教会が保有していた土地は、後に国有地となります。
これらの土地の大半は移民としてやってきた外国人に払い下げられます。
確か、当時グアテマラは移民促進政策を取っていて、
移民として来た外国人には安価で土地が提供されていたのだったと記憶しています。
ベラパス地方にコーヒー農場が増えていったのもこの頃ではなかったでしょうか。


1970年代にペテン県の50万ヘクタールの土地が国有地化されますが、
和平合意により避難民に払い下げられており、
現在では、農地として使用可能な国有地はほとんど残っていない状態です。
新たな農地を入手するためには、誰かから購入しなければならない。


一方プランテーションをやろうとすればとまった土地が必要。


こうして、土地を巡る交渉が始まります。
「あんたは土地を持ってる。そいつを買おう」
「いや、この土地は売らん」
「あんたが売ってくれないのなら、あんたの未亡人から買うしかないな」
というのが序の口。


それでも粘ると
「ま、実際のところ誰の土地でもかまわん。
 今度ウチの兵隊何人か連れて来て、この辺りに住まわせるわ」
と実力行使に発展してしまうという。


そうでもしないことには農地はない、ということなのでしょうが。


ここの土地を買う、って狙いを定めると後は実践あるのみです。
通常はQ1,000程度の土地をQ4,000の現金一括でポンと買い上げ、
売ろうとしない人の土地はぽつーんと離れ小島状態にされてしまう。


取り残された土地の所有者はにっちもさっちもいかなくなって売却を決意、
でもその時にはもっと安い値段になってしまう。
サン・マルコスではこうして買い上げられた土地が
後に金鉱として開発され、
売った人達はQ4,000なんかで売るんじゃなかった、騙されたと地団太を踏んでいるとか。


こうして和平合意の遂行のために払い下げられた土地はエリートのものとなり
土地を売った人達は住む土地も耕す土地もないまま
受け取ったお金で買った車の中で生活し、
わずかに残された自然保護区などに侵入することになるのです。


共同体は散り散りとなり、
残されるのは広大に広がるサトウキビ畑だったりアブラヤシ畑だったり・・・。


グアテマラはその内サトウキビやアブラヤシのジャングルの中に埋没してしまうのかもしれないな。


なんてちょっと本気で考えてしまいました。


[ 2012/10/31 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

モノカルチャーの歴史 

グアテマラの伝統的農業と言えば、トウモロコシとフリホール。
これに野草や果物を加えた物が食生活の中心だったのでしょうが、
それっていかにも豊かな熱帯ならではという感じですよね。


スペインの植民地となって間もなく、カカオの栽培が行われるようになったのが
グアテマラでのモノカルチャー(単一栽培)の始まりとされています。
もちろんカカオは以前から自生していたわけですが
それの商品作物化を目指したわけですよね。


グアテマラのカカオはスペインの他、メキシコやペルーにも送られていましたが
1620年代末には栽培できる土地がなくなり(多分病害虫にやられたって意味)、
カカオ生産国の地位をエクアドルとベネズエラに奪われてしまいます。


現在のグアテマラのカカオ生産量は年間1000トン程度なのだそうで
世界的に見るとほんのわずか。
多分、国内消費がメインなんだろうな・・・。


カカオの次に登場するのがアニル(インディゴ)。
藍色の天然染料のアニルは、17世紀と18世紀にはグアテマラ総督領の名産品となっていました。
もっとも、生産量が多かったのは現在のサン・サルバドルとサン・ビセンテ(以上エル・サルバドル)、
そしてニカラグアの辺りだったのだそうで、
現在のグアテマラ国内の生産量はさほどでもなかったようですが。
それでもエスクイントラ、サンタ・ロサ、チキムラ、サカパ辺りで栽培されていたそうです。
輸出を独占するようになった大生産農家がアニル長者となったのもこの頃の話。


スペインに輸出されたアニルは、そこから更にフランス、オランダ、イギリスへと渡ったのですが、
アニルがアジアやアメリカ諸国でも生産されるようになるとグアテマラからの輸出量は激減。
こうしてアニルの時代は終了したのであります。


第3の作物となったのがコチニール(エンジムシ)。
コチニールは赤色の染料となる、ノパールサボテンに寄生する虫のこと。
グアテマラではアマティトラン、アンティグアが主な産地でしたが、
モタグア川流域、サカパ、チキムラ、ケサダ、フティアパ、アティトラン湖周辺といった
結構あちこちで生産されていたそうです。


グアテマラが独立して間もない1840年頃からコチニールの輸出が始まり、
いい価格で売れたそうですが
やがて化学染料が作られて安価に入手できるようになったため、
1853年頃からコチニールの価格はあっけなく急落。
当時のグアテマラ経済はコチニールに支えられていたので、
深刻な経済危機を迎えたという話です。


そこで登場した救世主がコーヒー。
コーヒーがグアテマラにもたらされたのは1773年のことで、
それ以降国内各地で栽培されるようになっていましたが、
輸出されるようになったのは1854年。


この後、ヨーロッパからの移民がコーヒー栽培を始めるようになり、
品質も上がっていきます。
この時以来、コーヒーは常にグアテマラの輸出作物となり
20世紀の数々の危機を乗り越えて現在へと続くのであります。


20世紀の後半にはモノカルチャーの多様化が始まります。
サトウキビ、綿、ゴマ、バナナ、果物、野菜、カルダモンといった商品作物が
大規模に栽培されるようになったのがこの時代。
その陰にはフアン・ホセ・アレバロ政権(1945~51)の
輸出推進政策なんてのもあったらしいです。


モノカルチャーに共通するのは、国際市場がターゲットだということ。
国際市場で価格が上昇しているものが次の商品として選ばれ、
栽培が行われるので、
国際価格が上がっている間はいいけれど
下がりだすとポイ捨てされて次の作物へ。


そして現在はアブラヤシの時代ということなのかな。


この項、続きます。


<参考>



[ 2012/10/29 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

サン・ロマン農場 

前回の記事で出てきたサン・ロマン農場について補足しておきます。


ActionAidという国際NGOが2008年に出した
「グアテマラにおけるバイオディーゼルのプランテーションと食物生産のための土地の減少」
Valle del Polochic(バイエ・デル・ポロチク)というサイトに掲載されている資料の内、
「アルタ・ベラパス県の農地の再配分」を参考にしています。


サン・ロマン農場、と呼びますが、グアテマラの場合fincaと表記されるのは
何も実際に農業が行われている農地だけではなく
自然林などもfincaと表記されていたりします。


「農場」と言うよりは「広大な土地の名称」として使われているようで、
実際の土地登記を見ると、その土地の登記名としてfincaが使われていたります。
アウロラ空港がある地域もその一つで、あそこはFinca La Aurora。


人が住むようになったり、集落として開発されるようになると別の名前ができるのですが
そんなわけで、サン・ロマン農場は元々は単なるジャングルであり
農地として開発されていた土地ではないようではあります。


そのサン・ロマン農場の面積は約9万ヘクタール。
内戦時にはアルタ・ベラパス県の各地から逃れてきたケクチ族が住み着いたそうですが、
その中には1978年にパンソスで起こった虐殺事件の生存者も多数いたそうです。


1983年、この農場は政令91-83号により国防省に移管されます。
自然も野生生物も豊かな土地柄だったため、
1995年には生物多様性の保護のための自然保護区と国会で決議されました。


さて、時の経過とともに、この自然保護区に34の共同体が出来上がります。
この内14は和平合意により内戦の国内難民と認定され、
グアテマラ国内難民審議会(CONDEG)を通して土地の取得手続きを開始します。


最初に行ったのは国防省が有する権利を抹消することで、1998年12月2日に実現。
サン・ロマン農場の大部分は農地移行機関(INTA)の管理下となり、
残った部分が再び国防省の管理下となりました。


1999年、サン・ロマン農場はINTAの後を継ぐこととなった土地基金(Fontierras)の管轄下となり、
緩衝地域(保護区に隣接する地区)を共同体の農民に払い下げることが決定します。


2001年にプロセスが終了し、
Fontierrasは2113世帯に土地の権利書を渡します。
自然保護区の中にあった3つの共同体は他へ移転せざるを得なかったのですが、
これにはCONDEGが立ち会っっています。


こうして念願の農地が得られた農民だったのですが、
土地を得て間もない頃から、土地取引が多数発生したのでした。
中には農民に権利書が渡されているセレモニー会場にでさえ
土地を買い付ける人の姿が見かけられたという話もあります。


念願の土地は得たものの、土地以外に何もないとか
技術指導をしてもらえなかったとか、
そういう状況で放棄される土地が増え、
土地を売却する人が続出したのでした。


更には1999年の土地基金法によりが可能になったことも大きいです。
1962年に制定された農地改良機関では、
国から払い下げを受けた土地は10年間売却停止となっています。
その規定を取り払い、土地を自由経済の流れに任せたのが1999年のことでした。


こうしてサヤスチェでは次の共同体で多くの人が土地を失う結果となったのでした。
  1. ラ・トーレ 100%売却
  2. エル・ロサリート 100%
  3. エル・アレナル 98%
  4. エル・ポルベニール I 98%
  5. サン・ラファエル 80%
  6. ラス・ポサス 75%
  7. ラス・カルメリタス 45%
  8. サン・フェルナンド 35%


そしてこれらの土地を買い、急成長を遂げたのはアブラヤシ企業だったのでした。


[ 2012/10/26 06:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

恐怖と曖昧さと沈黙と半分の真実の狭間で (3) 

アルセの記事の続き。これが最後の部分です。




IV. 代替策は存在するか。生き残るためのジレンマ


「農民らは自ら罠にはまった。一旦売った土地は二度と取り戻せない。
 今できることは教育だ。
 土地が唯一の問題解決策ではないことを伝えて
 将来他の仕事にもつけるよう準備してやること。
 問題を引き起こした者自らが解決策の一部になることだ」。
一言たりとも触れてはいないが、これはアブラヤシ企業で働くという意味だ。
ポップの言葉は敗北宣言であるとも言える。
そして彼は代替策を探す。


サヤスチェ市の税収の16%はこれらアブラヤシ企業に依存している。
「前の市長時代には正当な課税が行われていなかった。
 現在支払われているのは正当な額の5%に過ぎない。
 アブラヤシ会社は市の最大納税者であるべきなのに、そうなっていない」。
(注:ここで指摘されているのは市が徴収すべき固定資産税のこと)


市長の指摘は重大である。
各企業が納付している税金の領収書を見せてもらえないか、と市長に尋ねてみた。
「そういう場合じゃない。企業も誠意を見せるべきだ。
 対話が進まなければ法的措置を取る」。


2011年の農業・土地問題研究所(Idear)や
NGO及び協同組合コーディネーター(Congecoop)の報告書は
サヤスチェのアブラヤシ企業3社(Repsa, Naisa, Tikindustrias)が労働搾取をしており、
所有する土地にかかる固定資産税を支払っておらず、
脱税額は年額Q300万にも及ぶと告発している。
財務省の記録によれば、2011年の納税額の最高はQ433,067.84であった。


この市民活動家出身の市長と話をしたのは2012年1月で、
市長となってまだ15日しか経っていない時であった。
「この職についてまだわずかだが、
 この仕事を溝の中に横たわって終えたくないと思ったら
 何について戦うべきかは考えないと」。


サヤスチェには市長の姿勢を心良く思わない者もいる。
平和のためのマヤ協会のアルトゥーロ・チェンは
「ロドリゴ・ポップはケクチ族だから市長になっただけだ。
 誰もポップが市を変えられるなんて思っていない。
 アブラヤシ企業がもう市長に接近しているという噂もある」と話す。
「多くの人が彼は親政府で親企業だと思っている。
 前回の選挙でも勝てなかったので、2年前から労働者に近づき
 彼らの状況改善を手助けすれば票を得られると考えた」。


おそらく軍についても同様の取り決めがあるのであろう。
権力とは交渉し、自然な関係を保つことが大切だ。


全員に教育が必要だという点に戻ろう。
「市長がアブラヤシ企業にサン・カルロス大学のキャンパスを建設するために
 土地の提供を求めているという噂がある。
 会社はポップの提供なら呑むだろう。
 そして民間の資本で建設して、再選を確実にする。
 誰もが利益を得られるからだ。
 もっとも税金については、誰も払うつもりもないだろうし、話にも上らないだろう」。
とチェン。


共同体の代表であるドミンゴ・チョクは
市政と土地問題と共同体の活動に係る困難さを実感している。
その中で生き延びるためには忍耐と戦略が必要だ。
彼の人生は常にそうであった。
内戦時には軍務委員を務めた。
「19歳で軍務委員になった。
 ゲリラから情報を得て軍に渡すのが私の任務だった。
 幸い、共同体の人とも軍ともうまくやっていくことができた。
 どちらにも、何かしら役に立つことができた」。


例えばこうだ。
「ある日、自分が働いていた倉庫にゲリラがやってきて
 商品を数千ケツァル分持って行った。
 ゲリラは代金を払ってくれるので、全部記録した。
 軍は払ったりなんかしない。
 その買い物リストを軍に渡した。
 何の役にも立たないけれど、満足してもらえた」。


語られた権力と語られなかった権力が混在する。
サヤスチェは極めて脆い地元の力というゲノムに宿った
真実の告発とわずかばかりの事実と
語られない現実と深い沈黙と生き残るための策略があい混じった格好の見本である。
そして彼らは自分達で行く道を決めることができるのである。(完)




「蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」という聖書の言葉をふと思い出します。
ポップが企業寄りだと批判する人はきっと少なくないのでしょう。
農場での低賃金がありますから、なおさらのこと。


読み書きができない人は農業以外で従事できる仕事も少ないため、
安い労働力として酷使されるという一面もあり、
以前に書いたサトウキビのプランテーションと全く同じ。
植民地時代から延々と続く図式なのですよねぇ。。。


と言うわけで、次回はモノカルチャー全般について触れてみる予定です。


[ 2012/10/24 00:00 ] ニュース | TB(0) | CM(0)