責任の所在 - リオス・モントのこと 

リオス・モントが大統領になった頃の
アメリカの大統領はロナルド・レーガンでした。
前大統領のジミー・カーターがラテンアメリカの左傾化に比較的寛容であったのとは対照に
レーガン・ドクトリンを掲げて、ラテンアメリカ諸国への介入を進め、
左傾化を防ごうとします。


当時、グアテマラは既に内戦中でしたが
エルサルバドルは1980年に内戦突入、
ニカラグアは1979年にニカラグア革命が起こり、親米であったアナスタシオ・ソモサが倒され、
サンディニスタが政権を取ります。
サンディニスタ政権に対してはアメリカが資金を提供して
反政府組織(コントラ)を結成して内政干渉したのは有名な話ですが、
そういうアメリカの姿勢がこの地域の内戦を激化させたのは言う間でもありません。


実際にどの程度の関与があったのかは明らかではありませんが、
おそらく軍事顧問がいて、CIAスタッフがいて、
国及び国軍のオペレーション策定に参加していたのではないかと思うのです。


もちろんそれを実行するのがグアテマラ政府で
故に軍事行動において虐殺行為が起これば責任を取るのは政府あるいは軍幹部となるわけです。


記事中に出てきたプラン・デ・サンチェスは、米州人権法廷に提訴され、
国に責任があることが認められた、数少ない虐殺事件の一つです。
判決には被害者への賠償と加害者の責任追及が盛り込まれており、
そういう流れも後押しして国内での裁判が行われ
3月には加害者5人に懲役7710年の判決が出ています。


ここで加害者と呼ばれているのは、プラン・デ・サンチェスの軍務委員と
国によって組織された市民警備パトロール隊(PAC)の4人で、
正規軍の兵士は一人も含まれていません。
多分、4人とも地元の人であったために身元がわかったのだと思うのですが
これでいいのかという気がするのもまた事実。


プラン・デ・サンチェスに関して付け加えておくならば、
この村では男性はPACに入れという軍からの指示があったのに対し、
住民らがそれを拒んでいたことから「ゲリラの味方」とみなされ、
事件当日までに村から逃げた人も少なからずいたのだそうです。


軍務委員やPACの隊員らは以前から住民に嫌がらせをしていたのですが、
7月に入ると村の上空を飛行機が飛び、村はずれに爆弾を落としていくという
警告のような出来事もあったのだそうです。
7月15日には国軍の短期駐留地ができ、村人に特定の人物の消息を尋ねるなど、
不安な感じは高まっていったのでした。


そして7月18日の午後、軍務委員やPAC、兵士ら60人ばかりのグループが村に到着。
村の出入り口となる道をふさぐと、住民を一ヶ所に集めます。
男らが隠れたのに女達が残ったのは「兵士は女性や子供には何もしない」と思われていたから。


後は記事中に書かれていた通りです。


「住民の友、保護者であれ」とされた国軍が一度住民の敵となった後、
堰を切ったかのように虐殺の波が押し寄せ、
まるで止まることが不可能であったかのようでした。


この間に何があったのかは不明。
この辺りをクリアーに説明できるような資料を私は見つけていません。


私はリオス・モント自身が虐殺を命令したことはないのだろうと考えますが、
リオス・モントが告発されたことで、
どうしてこれほど多くの虐殺事件が起こってしまったのかなどが明らかとなり
責任の所在がはっきりしてくれればいいと願っています。


なお、数回に分けてアップした「戦いを好まなかった将軍」、
誤字、誤訳等を訂正した後、
PDFにしてアップしてみましたので、宜しかったら見て下さいね。
Issuuのサービスを使ってみたのは始めてなので、今一つ使い勝手がよくわかってませんが。
タイトルは「戦おうとしなかった将軍」に変更しています。
http://issuu.com/xiroro/docs/001


Worse than war - リオス・モントのこと 

ホセ・エフライン・リオス・モントが権力の座についたのは1982年。
前任者であったフェルナンド・ロメオ・ルカス・ガルシアもやはり士官学校出身の将軍で
その前任のケル・ラウヘルド大統領時代には
1976年の大地震後の支援活動に当たったり、その後国防相を務めた人物です。


ルカス・ガルシアの大統領在任中にはスペイン大使館焼き討ち事件の他、
野党勢力などの暗殺事件(コロン前大統領のおじ、マヌエル・コロンが暗殺されたのものこの頃)が相次ぎ
グアテマラの内戦が血まみれとなっていった時代でもありました。


1982年3月7日に行われた総選挙で与党のアンヘル・アニーバル・ガルシアが当選します。
しかしこの選挙結果は不正なものだという指摘が各方面から相次ぎ、
このような背景で若手将校がクーデターを決行(CIAがバックについていた模様)、
担ぎ出されたのがリオス・モントでした。3月23日のことです。


政権を取った当初はオラシオ・マルドナド・シャド将軍、
フランシスコ・ゴルディーヨ大佐との三頭政治が行われていました。
ゲリラ勢力FARのリーダーであったセサル・モンテスは
ゴルディーヨを「信頼できる人物」と評していますが、
この三頭政治は3ヶ月しか持たず、リオス・モントが単独で政権を率いるようになります。


ルカス政権の抑圧政治下、ゲリラ勢力はむしろ増強し、
リオス・モントが政権を取った頃は、ゲリラの最盛期と言っていい時代だと思います。
それがリオス・モントの在任期間に徹底的なゲリラ対策により大きなダメージを受け、
同時に取り返しのつかない非戦闘員の虐殺事件が多発するようになっていった。


その辺りの事情は内戦の証言を集めたカトリック教会の歴史的記憶の回復プロジェクトを邦訳した
岩波書店の「グアテマラ 虐殺の記憶」の第1章に
詳しく記載されているので、関心のある方は是非ご一読頂きたく。


そういう事情からリオス・モントは常に「大量虐殺を指揮した独裁者」と呼ばれるわけですが
一方でカリスマを持った信心深い牧師であり、良き指導者であり、まだまだ支持者も多く、
「血なまぐさい独裁者」だけではないようで。


ホロコーストや虐殺を研究しているダニエル・ゴールドハーゲンは
Worse Than Warという本を書いた人ですが、
同名のドキュメンタリー番組も作成されています。
ゴールドハーゲンはグアテマラでの虐殺事件にも触れており、
ドキュメンタリーでは国会議員時代のリオス・モントにインタビューする部分が出てきます。


115分というドキュメンタリーですが、この部分は是非ご覧下さい。
1時間28分~34分の部分がそれに該当します。英語。



見ててちょっとおもしろいのは、ゴールドハーゲンを案内する
オティリア・ルス・デ・コティという国会議員が出てきますが、
この方、内戦終結後にはCEHで人権侵害事件を調査する立場にあった人でしたが、
ポルティーヨが大統領だった時は文化スポーツ大臣であり、
FRGが「マヤ系先住民を大切にしている」というイメージを作るために取り立てられた人物でした。
2007年の選挙では別の政党から国会議員に当選して
ビデオに出てくる通りリオス・モントと対峙する座席につくようになったわけです。
彼女自身が言っている通り
「政治家ってのは神とも悪魔とも取り引きをするものなのよ」ってことなのかもですが
おいおい、って感じは否めず。


ゴールドハーゲン自身は「相手は虐殺の責任者」という先入観以上のところに踏み込めていないですが
国会の片隅で気さくにこのようなインタビューに応じ
20分以上時間を取ってくれるリオス・モントを見て、
なぜ未だに支持する人がいるのか、ちらりとわかるような気になってしまいました。


「あなたがジェノサイドを命じたのですか」というゴールドハーゲンの問いは
どんな返事を期待していたのだろうと思ってしまいます。
「その通り」と答える人などいるわけない。
また、そんな簡単に答えられる質問でもない。
それをわかっていて番組用にわかりやすい質問をし
相手の反応を見たのだろうと思うのですが
もう少し違う質問をして欲しかった。。。


ちょっと長くなったので今日はここまでで。
この項、もうちょびっと続きます。



戦いを好まなかった将軍 (その5) 

5回でやっと完結となるこのリオス・モントのバイオグラフィー、
最終回は政権を追われてから現在まで。


全部をアップした後、明日以降、少しコメントしてみます。








共和戦線のリーダーとして


2度権力に手を触れた。
その内1度は504日間も我が物とした。
しかしリオス・モントのような人物にとっては、それはわずかに過ぎない。
大統領の座を追われて5年後の1990年、
彼は再び挑戦した。5つの小さな政党からなるプラットフォーム90という連立が彼を擁立した。
副大統領候補はハリス・ウィトベクであったが、
この時は憲法裁判所がクーデターに加担した者は大統領候補になれないという
1986年に制定された憲法の規定を理由にこれを阻止したため、何もできなかった。
グアテマラ共和戦線(FRG)の創立者の1人であるフアン・カジェーハスは
「もし立候補できていたら最初の投票で勝っていただろう。
 それについては疑いの余地がない」と考えた。


次の選挙では別の戦術をとった。
国会議員として立候補し、身内の人物を大統領候補するというものだ。
「彼はいかなる方法でも構わないから権力を取ろうとした。
 自分が立候補できないのなら、コントロールできる人間を代わりにしようとしたわけです」とカジェーハス。
党内では将軍の参謀であったフランシスコ・ビアンチに信望があったが、
将軍は別の計画を練っていた。
若手の国会議員でカリスマのあるアルフォンソ・ポルティーヨである。
しかしポルティーヨを取り立てたことで党の創立者の間には不満が広がった。
「権力への野心のために自分の理想や周囲の人間を裏切ったのです」とカジェーハス。
「多分、彼はビアンチをコントロールすることは不可能だとわかっていたのでしょう。
 でもポルティーヨなら大丈夫だと」。


1999年、彼はその目標を達成した。
ポルティーヨが選挙に勝ち、彼は国会議長となった。
初めて合法的に勝ち取った職である。
しかしそれだけでは満足しなかった。
その次の選挙では大統領候補として立候補することが認められ、選挙を争ったのである。
結果は3位で大統領には届かなかった。
しかし、奇妙なことに内戦が最も激しかった地域で票を得た。
ネバフでは将軍が6600票を獲得したのに対し、URNGはわずかに800票であった。
ベンハミンが住んでいたラビナルでは2704票でトップであり、URNGは314票であった。
これが最後の公的生活となった。
そしてまた再び、彼の意志とは関わりのないところで注目が集まっているのである。


被告席の老人


1982年7月19日の早朝、ベンハミンは震えながら山を降りてきた。
彼の後には甥が続いた。
鳥肌が立ち、母親と兄弟らの叫び声は耳に残ったままだった。
まだ煙の立ち上る家にたどり着いた。
生き延びた人たちが少しずつ戻って来た。
村人のほとんどが殺されたので、何が起こったのか誰にも理解できなかった。
女性は1人として生き延びられなかった。
ベンハミンは母や妻、姉妹、姪たちを探した。
しかし見つかったのは拷問された痕の残る遺体だけであった。
ほどなく軍務委員がやって来て、
ただちに遺体を埋めて後は口をとじていろと軍が命令している、
「言うとおりにしなかったら、戻ってきて今度は残った者も殺されるだろう」と言った。
ベンハミンと甥は沈黙と恐怖の内に、大急ぎで家族全員を埋めた。
11歳の子供には、どうして二度と彼の母親が眠る前に額を撫でてくれないのか、
どうして二度と兄弟たちと遊ぶことができないのか、
どうして二度とおばあちゃんからお話を聞かせてもらえないのかを理解することはできなかった。


ベンハミンと甥は近くの村に引っ越し、時間の経過とともに立ち直っていった。
ベンハミンは再婚し、3人の子供をもうけた。
子供の1人は町で民間の警備会社に勤めている。
恐怖や苦しみを忘れようとしたが、できなかった。
現在、ベンハミンはプラン・デ・サンチェスと他の11の村で起こった虐殺事件の1000人以上の虐殺について、
エフライン・リオス・モントを告発する正義と和解の協会の会長である。
裁判は既に始まっており、リオス・モントは自宅拘禁となっており、
弁護士らはこの決定を覆そうと準備をしているところである。


将軍が権力にあった504日の後、多くのことが変わった。
税金について言えば付加価値税が導入され、経済は大きく成長した。
内戦もまた変化した。ゲリラ戦力は減少した。
グアテマラ人のメンタリティーも変化した。盗みをしない、嘘をつかない、
横暴を働かないを働かないというのがスタンダードになった。
しかし恐らくもっとも変化したのはペテンの小さな土地であろう。
子供らが走り回り、女達がトルティーヤを作り、男達が働いていた、
トウモロコシ畑のあるその土地。ドス・エレスと呼ばれたその村は、
リオス・モントが権力を引き渡した時にはもう誰一人残っていなかった。
住民全員が亡くなったのである。
もしその村が消滅してしまったことが、
軍の指揮官として彼がいたことと関係があるのであれば、
裁判所がこれを判断し、その決定がこの物語の終末に書き込まれなければならないであろう。(完)



戦いを好まなかった将軍 (その4) 

リオス・モントのバイオグラフィーの4回目。
大統領に就任してから失脚するまでの1年半、
当時勢力を増していたゲリラをものすごい勢いで掃討したのがリオス・モントでした。
勢い余ってゲリラに留まらず、
一般市民まで掃討することになってしまった、などと一言で片付けてはいけないのでしょうが。






全員に武器を


権力を握った日、将軍はテレビで叫んだ。
「武器は兵士のみ、兵士のみが武器を持つのです。
 武器を持っている人は、それを捨てて下さい。
 屋根の機関銃は引き渡して下さい。
 腰のピストルを捨てて、仕事のためのマチェテをつけなさい」。
しかしこの方針は長続きしなかった。
10ヶ月も経たない内に、市民に武器を捨てろという代わりに自ら手渡すようになった。
更にはアメリカに不要な武器をくれと頼むようにまでなった。
12月5日の日曜日の演説では、レーガン大統領と会見し、
不要な小銃を譲ってほしいと依頼したことを得意気に披露した。
「市民警護団をつくるために不要な銃があったら、とお願いしました。
 最先端の武器ではなく、アメリカにとってはもう不要の武器があったら、と」。


マーク・ドロウインの研究によれば、
市民警護団は約80万人が参加したが、その大変は先住民であった。
CEHは山中に逃げ込んだ多くの農民の証言を集めたが、
彼らはもう武器がなかったので逃げたのだと言っている。
残った住民は強制的に武器を握らされた。
武器が歴史に誕生した瞬間から、発砲は避けることのできないものだとチェーホフは言った。
グアテマラの歴史でも、それは発砲された。しかも何度も。


一方、ゲリラ側にも将軍の新しい方策のニュースが届いた。
セサル・モンテスは大統領官邸に送り込んだスパイからこういう話を聞いた。


側近の一人が
「将軍、あなたが武器を与えているのは先住民です。
 ゲリラもまた先住民です。問題になるとは思われないのですか?」と尋ねた。
それに対し大統領はこう答えた。
「好都合だ、奴らの間で殺しあえば良い」。


スパイはこの会話は事実だとモンテスに保証したが、
もちろんそれを証明することは不可能である。
なんといってもテレビカメラの前では、
将軍はマヤ系先住民への尊敬と愛情以外に何もコメントしていないからである。
「グアテマラ化」について話し、住民が自分の出自を誇りに持つようと言った。
「誇りを持ちなさい。国を愛しなさい。グアテマラ人でありなさい。
 キチェー系マヤだということに満足しなさい。
 それともロシア人だった方が良かったとでもいうのですか?(・・・)
 グアテマラの住民の65%以上は今まで無視され続けて来た先住民ですが、
 私達は490年もの間、社会のこういう現実から目を背けていました」。


将軍がその演説をしていたちょうどその頃、
何十人もの先住民の農民が軍の手を逃れて山に逃げ込もうとしていた。
軍隊がネバフのペシュラー村にやって来て近所の住民を虐殺した時、
マリア・テラーサ・セディーヨの赤ん坊はわずかに2ヶ月であった。
母親は自分と娘の命を救うために逃げたが、生き延びれなかった。
空腹と寒さで亡くなったのである。
この2人はCEHの報告書にある長いリストの中の、わずか2つの名前に過ぎない。
将軍はテレビで語った。
「フランス人やイギリス人、ドイツ人ではなく、
 特にイシル、キチェー、マムの皆さんを招待しています」。
社会学者のデーヴィッド・ストールによれば、
イシルの住民15%近くがこのゲリラ対策キャンペーンにより亡くなったという。
CEHによれば、キチェー県のイシル族のコミュニティーの内、70~90%が完全破壊、
あるいは一部破壊されたという。
イシル語で話す人々が何人も殺されている状況で、イシル語を話し続けるのは容易なことではなかった。


ソフィア82作戦とビクトリア作戦が作成されたのはこの頃である。
ゲリラにとって、これは大きな脅威であった。
カルシュミットは次のように説明する。
「政府の政策は、上からは一般市民への恩赦、サービスの提供と保護でした。
 ソフィア82作戦の中にそう書かれていますし、
 戦闘地帯で民間人を捕らえた司令官らが残した多くのメッセージを解読した結果からも明らかです。
 一般市民は別の居住地へ移され、そこで面倒を見てもらっていました」。
そのメッセージの1つ、ネバフで書かれたものには
「ゲリラ勢力に協力していた39家族の男性31人、女性30人、子供81人、合計142人」を保護したとある。
司令官は、81人の子供たちは「自らの意志で」ゲリラに協力していたと思ったようである。
ソフィア82では「女性と子供の命は可能な限り尊重すること」とされている。
カルシュミットはこれに付け加えて言う。
「ゲリラは正規軍ではないのです。
 男、女、子供達からなる家族全員が戦闘員だったりしたのです。
 この文脈において、死者が出さないようにするのは無理があります。
 戦闘は残虐で、暴力的なものです。
 ゲリラ側の司令官、国軍将校のいずれの立場にあっても、
 残虐行為を行なってしまうのは完璧にあり得ることです。
 しかしそれは戦術下、戦闘という状況の中で、
 その場の感情や仕返しを動機としたものであるわけです。
 政府の政策ではありませんでした」。
ウィトベクの意見も同様である。
「戦争だったわけですから、死者がいなかったとは言いません。
 しかし、将軍の側にいた私が見た限りでは、人を殺せというのは彼の政策ではありませんでした」。


実際のところ、殺人は彼の政策ではなかったのであろう。
しかし彼の指揮下で多くの人が命を落としたのもまた事実である。
調査員のマーク・ドローウィンはビクトリア82作戦について
「西部高地、北部低地での兵力増強を予定したもので、
 30の歩兵中隊、5310人が既存の兵士の補強のために再配置されることになっていた。
 この中で更に特殊部隊3隊も展開することになっていた。
 ロバート・カーマックはキチェー県には15,000~20,000人の兵士がいたと見積もっている。
 CEHが軍によるものと記録した626件の虐殺事件の過半数がこの県で起こっているのは興味深い事実である。
 ジェニファー・シーマーの推測が正しければ、犠牲者の数は大きく跳ね上がることになる。
 ルカス・ガルシア政権末期には毎月800人の死者が発生していたが、
 リオス・モント政権下ではこれが月6,000人以上になったというのである」。


4月30日の演説で、将軍は「組合は大いに尊重する」と言った。
10月16日、ケツァルテナンゴのエル・アト農場と
ラス・アニマス農場の労働者によって結成された組織の指導者を兵士らが探していた。
最初に見つかったのは組合長のエミリオ・レオン・ゴメスで、
彼の遺体には30発以上の弾丸が残されていた。
次に副組合長の家に行ったが、当人は不在で妻と2歳の娘がいただけであった。
兵士らは娘の頭部に発砲し、小さな体は母親の腕の中に崩れ落ちた。
母親もその後殺された。
将軍の言葉と実際の出来事の間には大きな相違があることが明らかとなっていった。
リオス・モントが血なまぐさい人物であったのか、無能であったのか、
あるいは最悪の犯罪行為を命令する力があったのか、それを阻止するだけの力がなかったのか、
その辺りは定かではない。


テレビでは、将軍は多分におぼろ気な形ではあったが、
それ以上のことはできなかったと認めたことがあった。
1983年4月10日のことである。
「私には起こっているすべてのこと、
 それが起こるようにしてしまったということについては責任があり、
 その点では謝罪します。
 しかし、聞いて下さい。
 私に何ができると言うのでしょう。
 例えば、税関の職員が私の言うことを理解できるようにできなかったとしたら?
 その人物は私の命令に従わず、嘘をつき続け、盗みや横暴を働くかもしれません。
 軍曹が殺すなという私の命令を理解できなかったとしたら、私に何ができるでしょう?
 理解してもらうために私が取るべき法的手段は存在しているのでしょうか」。


「誰が指揮を取るのか」。権力を握る前、彼は3度尋ねた。
そして3度とも、答えは彼であった。


ムニョス・ピローニャの答えは明確である。
「命令したのは常に彼でした。
 もちろん私たちが圧力をかけたというのは事実ですが、ささやかなものです。
 私は大尉でしたが、将軍に対して何を言うことができるというのでしょう」。


「もし私が国軍をコントロールできないなら、
 私は一体ここで何をしているというんですか?」。
1982年6月、新聞記者のパメラ・ヤデスに将軍はそう言った。
実際のところ誰が命令していたのかは、今のところ正解のない問いである。


神は与え、神は奪う


市内の電話回線はすべて不通となった。
1983年8月8日、グアテマラでは連絡を取ることが困難になっていた。
オスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレスが軍の司令官を全員招集したというニュースがあったため、
大統領官邸では誰もが落ち着かなかった。
「将軍、彼らは名誉警護隊本部にいます。取り囲んで逮捕すべきです」、側近が進言した。
「将軍、これはクーデターになります」、
別の側近も付け加えた。しかし将軍は戦うことを好まなかった。


この日はプエルト・ケツァルに停泊しているアメリカの空母を10時に訪問する予定となっていた。
ヘリコプターで現地入りするためには9時半には空港に到着しなければならなかった。
9時になるとクーデターの噂はますます高まり、将軍は何とかしなければならないと考えた。
そこで運転手に空港に行く前に名誉警護隊本部に寄るようにと言った。
30分程でクーデターを押さえ、時刻通りその後のスケジュールをこなすつもりでいたのだ。
しかしそれは叶わなかった。
集まっていた将校らが辞任してほしいと要請する手間すら必要としなかった。
将軍はこの時もまた戦わなかった。


国際的な評判は既に落ちていた。
海外の報道は、既に将軍を告発する論調ばかりであった。
7月、ワシントン・ポストは
「リオス・モントは権力をずっと手中にするつもりだ。 (・・・)
 キチェーやウエウエテナンゴでインタビューした住民らは、
 国軍の兵士らが村を遅い、女、子供、武装していない男らを、
 ゲリラに協力していると言って殺した、と証言した」と書いた。
10月にはニュー・ヨーク・タイムズが
「グアテマラでもっとも危険な反逆勢力は軍の制服を着用している」と書いている。
村には豆よりも銃の方が多くもたらされたのである。


リオス・モントは、戦うべきだという声に耳を傾けることなく、
平和の内に権力を去った。
ムニョス・ピローニャは、クーデターの当日、
カバンを抱えた大尉が将軍に近づいていったのを見た。
「将軍、私達は皆爆死します、でも閣下は権力を手放してはいけません。
 ここを出て下さい、我々は皆閣下のために死にます」。
将軍は彼を宥めた。
「もし私がここにいることを彼らが望まないなら、私は出て行く」。そう言って立ち去った。


彼は以前にも傷を癒したことのある場所、教会に戻った。
牧師は彼を英雄のように迎えた。
「英雄は勲章で飾られているものですよ」、とリオス・モントは言った。
「私はただキリストの血にまみれたいだけです」。



戦いを好まなかった将軍 (その3) 

指揮を取る者


1982年3月23日午後9時30分、ほとんどのグアテマラ人がテレビに注目していた。
画面では軍服を身につけ、迫力のある声をした人物が、これから変化が起きるのだと保証していた。
「主であり王である神が、私を導いてくれるだろうと信頼しています。
 権力を与え、奪うことができるのは神のみです」。
「将校や国民、特に今まで尊重されていなかった人々や、
 裏切られ続けてきた人々を失望させることのないよう、神が助けてくれると信頼しています」。
その声はインスピレーションに溢れており、国民を安心させるのに十分だった。
リオス・モントは熱狂的に迎えられた。グアテマラ人がもう忘れていた希望という一筋の光とともに。


次の数日間、海外のマスコミは新政権の誕生を歓迎する記事を載せた。
ウォール・ストリート・ジャーナルは4月14日付で「死者の数は急激に減少した。
武器取締キャンペーンの結果、何人もの警官がクビになった」と書いた。


「暴力には理解、非暴力、愛情をもって戦います。
 社会に不平等があることは、誰もが知っていますからね」
とリオス・モントは大統領としての最初の頃の演説でそう言った。
「今の内に、もうあなた方を愛していると宣言しておきます。
 ゲリラ行為によって新たに理解できることもあるからです」。


リオス・モントはゲリラ行為を終結させるために新たなアイディアを持っていた。
「魚の水を奪う」というのがそれである。
毛沢東は、魚にとっての水というのはゲリラに食料を与えたり支援をする共同体のことだと言った。
誰もゲリラを手助けしなくなれば、魚は泳げなくなる。
魚のための水を取り上げるために立てられたのが
「銃と豆(Fusiles y Frijoles)」作戦である。住民にとって必要なものを提供し、
軍隊を住民の敵から友人に変化させようという、
兵士らのメンタリティーを180度転換させるものであった。
そのために14の規則を作ったが、村からは釘1本でも奪うな、
礼儀正しく行動しろ、子供や老人には「特別な敬意や愛情」を示せなどと書かれていた。
住民のために真の警備員の役割を果たすことが求められたのである。


将軍は内戦のために村の家を捨てて
山中に逃れざるを得なかった多くのグアテマラ人のことを心配しているようであった。
当時、避難民を支援するNGOで活動していたアルフレッド・カルシュミットによれば、
大統領に就任して間もない頃、リオス・モントが
紛争地域で活動していたNGOの代表と軍事基地の司令官全員を集めたことがあったという。
「彼は私の政権下では残虐行為はなくなる、嫌がらせを排除すると言っていました」。
それから司令官には兵士らが嫌がらせや暴力行為を働くことのないよう監視するよう警告し、
NGOの代表には何か問題があれば報告するようにと頼んだ。


就任後最初の演説で話した「ゲリラへの愛情」の一環として、
5月には恩赦を発表した。
ゲリラであっても武器を捨てれば無罪放免すると言ったのだ。
ゲリラ活動を支持していた何百人もがこの恩赦を受け入れ、ゲリラは弱体化した。
「恩赦によって、ゲリラを支えていた住民たちが驚くような速さで離れていきました」
とカルシュミットは話す。
「ゲリラはベトナムと同様、一般市民を利用し、巻き込んでいたからです。
 抵抗する住民が戦闘要員となり、内戦の間、多くの非戦闘員が死にました。
 そういう人たちが恩赦の噂を耳にした時、
 これが『支援』であって『殺戮ではない』ということに何の疑問も抱かなかったのです。
 これがゲリラの敗北の始まりとなりました」。
カルシュミットは難民キャンプへ助けを求めてやって来た先住民を何人も世話した。
彼らは重度の栄養失調に陥っており、
「NGOではまず健康回復に努め、その後水や最低限のインフラが整っており、
 生活を続けていける村に彼らを住まわせた。将軍はカルシュミットの仕事に大きな興味を抱いていると言っていた。


ハリス・ウィトベクはチマルテナンゴで危険にさらされている住民のために働いていたが、
将軍は彼の仕事にも興味を示した。
将軍は、紛争地域へ支援物質を送る計画の名誉コーディネーターになってほしいと彼に頼んだ。
「将軍とは1年1ヶ月と1日仕事をしましたが、いつも支援してもらいました」とウィトベクは語る。


最初の数ヶ月間の空気は異なっていた。いたるところに希望が漂っていた。
しかし、実際に行われていたことは小さな希望を食い尽くす巨大な怪物であった。
大統領に就任してわずか1ヶ月後、リオス・モントは憲法を廃止し、国会を解散させた。
6月には非常事態宣言を出し、人権が保証されなくなった。
そして特別法廷が設置された。


更に軍事評議会を支えていた2人更迭した。普段通りの朝のことであった。
フランシスコ・ルイス・ゴルディーヨ・マルティネス大佐は大統領官邸へ
ワーキング・ブレックファストに出向いた。
到着したところで、その日は自分の人生を変えることになると気づいた。
廊下にはオラシオ・マルドナド・シャアド将軍が紙を握り締めたまま、
くしゃくしゃな顔をして立っていた。
「見てみろ、辞任しろと言うんだ」。その紙を見た瞬間、
彼にとっても全てが終わったのだと察した。廊下の突き当たりにはリオス・モントがいた。
彼は躊躇う様子も見せずに「将校らが要求しているんだ」と謝った。
しばらく後、武装した男らが最後の合図をした。二人は政府から直ちに立ち去らなければならなかった。


次の日曜日、リオス・モントはこの決定について簡単にテレビで触れた。
「司令官らの会合で、一人に統一する方が良いということになったのです。
三頭政治ではなく、一人にすべきだと」。それが全てであった。