クーデター三十周年 

明日3月23日はクーデターから30年なんだそうです。


30年前といえば1982年。
1982年のクーデターと言えばリオス・モント。


そう、グアテマラの歴史で最も有名な政治家であり軍人である
エフライン・リオス・モントが政権を取った日なのであります。


30年という節目の年でもあり、
少しばかりリオス・モント関係の話が出ています。
今までのところ、一番力を入れていたのはエル・ペリオディコ紙かな。
15日の日曜版で大きな特集を組んでいるのですが、これがなかなかおもしろい。


てか、このクーデター、リオス・モントが図ったわけではなくて、
本人にはなる気全然なかったのに、担ぎ出されてしまったとは!!!
全然知りませんでしたよ・・・。


日本で報道されているリオス・モント像は
虐殺の首謀者で権力に恋々とする狂気じみた独裁者ってところじゃないかと思うのですが、
グアテマラではひところのカリスマ性は落ちたものの(ポルティーヨのせいかも)
まだ支持している人もいるし、一方的な独裁者って感じでもなくて
このギャップはどこから来るのだろうと不思議に思っていました。


そういう疑問が少し解ける内容でもあり、おもしろかったので紹介したいのですが、
かなり長い記事な上に、今日はかなり眠くて根性がないので、
また日をあらためて。





[ 2012/03/22 21:52 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

映画「ヘラルディ」 

今日、小僧と一緒に「ヘラルディ(Gerardi)」という映画を見てきました。
1998年4月26日に殺害されたフアン・ホセ・ヘラルディ司教を取り上げた映画です。
制作は大司教立人権事務所。
ヘラルディ司教自身が関わったことのある事務所です。


故に、映画もカトリック教会から見たヘラルディ司教になっていまして
いろいろともう少し突っ込んで欲しい部分、物足りない部分もあるのですが
他方、ヘラルディ司教という人物、
苦しい時代のカトリック教会の苦悩については
うまく描かれていたと思います。


「貧しい人に仕え、神の言葉を説くために」司祭となり、
やがて司教に任命されたフアニート、
司教としての最初の任地はベラパスでした。1967年のことです。
先住民の言葉を覚え、先住民のコミュニティーが豊かになるよう尽力を注ぎ、
74年にはキチェー司教区の司教に任命されます。


時代は内戦が静かに進んでいた時代で、
軍の監視は段々厳しくなって行きます。
80年以降、キチェーは軍とゲリラの間で困難の時を迎えます。
神父やカテキスタ(宗教教育を担当する人)が次々と行方不明になったり
殺されたり・・・・・・。


80年1月に起こったスペイン大使館焼き討ち事件
(農民が大使館に立てこもり、当局がスペイン人外交官と農民らに対し
火をつけ、39人が亡くなった事件)で
政府・国軍を批判した司教は軍からは要注意人物と見なされます。
軍の抑圧に抗議して武器を取った人たちの中には
司教が親しくしていた人もまた多々・・・。
彼らからは是非武装闘争に参加してほしい、と懇願されますが
司教は「武器に武器で対抗してはならない」とそれを拒絶。
(この辺りの司教の苦悩がこの映画の最大の見せ場ではなかったかしらん)


軍の教会に対する迫害は激しさを増す一方となり、
「これ以上の犠牲者を出さないために」司教は教区を後にします。


同じ年、会議のためにローマに行った司教が
グアテマラの入国管理局で入国を拒否され、
やむなくコスタリカで亡命生活を送ることとなります。


クーデターにより政権が変った1982年、司教は帰国を認められ
84年にはグアテマラ大司教区の補佐司教に任命されます。


内戦が終結の兆しを見せてきた88年、
大司教立人権擁護事務所の設立準備が始まり、
96年に内戦が終結した後はこの事務所が中心となって
内戦時の記録を採取する活動が行われます。
98年4月24日、「グアテマラ:二度と再び」と題されたその報告書が発表されますが
その報告書では内戦時の人権侵害や虐殺の大部分は
国軍に責任があると指摘したものとなっていました。


映画は司教がこの報告書を発表するところまでとなっており、
その2日後に殺害されたことについては触れられていません。
もちろんそれを前提とした映画だから、ってことなんでしょうが
司教について知識のない人にとっては、なんてことのない映画でしょう。


それでも、自分が親しくしていたカテキスタがゲリラとなり
一緒に戦って欲しい、と言われて断ったら
「司教は自分達のために何もしてくれない」となじられたりして
苦悩するシーンは胸が熱くなったりしたのでありました。


この映画、多分グアテマラ以外では上映されないのではないかな?
国内でも数館のみで上映中。


ヘラルディ司教の命日がもうすぐやってきますが、
あれからもう12年も経ったのだな・・・、と時の流れの速さを感じます。


ヘラルディ司教の殺人事件の真相は未だ闇の中ですが
実行犯である軍人2人は懲役30年の刑に服役中。
この事件の真相が解明されない限り、
内戦時代の人権侵害に関する和解なんてのも所詮机上の論理、
って気がするのは私だけなのでしょうか。






[ 2010/04/11 23:35 ] 内戦 | TB(0) | CM(2)

ジェノサイドか否か (8) リオ・ネグロ虐殺事件の裁判 

しばらく内戦の話から遠ざかっていますが、
プラン・デ・サンチェスの話はちょっと置いておいて、
先日、リオ・ネグロの虐殺事件の判決が出ましたので、
かいつまんで書いておこうと思います。


リオ・ネグロの虐殺事件については以前にも書いたことがありまして、
その時既に、元PACの3人が死刑判決(後に減刑)を受けているとお伝えしております。
今度の裁判はそれ以外の6人に対するものですが、
裁かれている事件は同じ、1982年の177人の虐殺に対するものです。


この裁判、提訴されたのは2003年頃のことでした。
ところがその後被告や軍関係者がいろんな手段を講じて裁判を妨害、
公判が始まったのは5年ほど過ぎた今年の4月のことでした。
というのは、この裁判の証言が、スペインで行われている
ジェノサイド裁判の証拠ともなるというのも理由のようです。
リオス・モント及びアンヘル・アニーバルが出していた
保護請求が却下されたのを受けて公判の日程が決まったのが4月4日。


この事件の担当は刑事部第十一法廷のエドゥアルド・コフルン判事。
グアテマラシティーにある裁判所です。


最初の証人は、前回も登場したヘスス・テクー・オソリオ。
その証言の模様を伝える新聞記事はこちらです。
http://www.prensalibre.com/pl/2008/abril/18/232831.html


コフルン判事、20人の証人を召喚していますが、
中には出頭しなかった人も。
首都へ行くお金がないとか、報復を恐れていたりとか理由は様々。
故に、コフルン判事、バハ・ベラパス県の県都サラマまで出張裁判。
サラマで行われた公判の様子はこちら。
http://www.prensalibre.com/pl/2008/mayo/09/236791.html


5月の中頃には結審していたと記憶していますが、
法廷に立った証人は16人。
しかしその後判事に対する殺人予告の電話がかかるなどして、
判事の身の安全も心配されたのですが、無事に判決の日を迎えました。


5月28日。
被告6人の内、1人については証拠不十分として無罪、
残る5人については、それぞれ26人の殺害に関与したとして、
1人の殺害につき懲役30年、
26人の殺害で合計なんと懲役780年という判決が下されます。


ただし、実際に服役するのは30年だけ。
というのは1969年に制定された事件当時の刑法では、
殺人罪での最大の刑は懲役30年だからなんだとか。


また、遺族にはQ10万の賠償金を支払うようにという命令も。
・・・・・・PACのメンバーが、基本的に農民であることを考えると、
これはとてもじゃないけれど払えない金額であるような気が・・・・・・。


今回有罪判決を受けたのはいずれも当時のPACのメンバー、
マカリオ・アルバラード・ドフ、パブロ・ルイス・アルバラード、
フランシスコ・アルバラード・ラフー、トマス・ディノ・アルバラード、
ルカス・ラフー・アルバラードの5名。


無罪とされたのはボニファシオ・クシュン・ラフーで、
別途ホセ・アントニオ・ソラレス・ゴンサレス大尉(指名手配中)及び
元PACのアンブロシオ・ペレス・ラフーとドミンゴ・チェンについて
逮捕命令が出ています。


判決の報道はこちら。
http://www.prensalibre.com/pl/2008/mayo/29/241200.html


26年という歳月を経て下された判決。
この事件に係わったと見られる5人が有罪になったわけですが、
いずれも当時の状況の中で命令に従っただけでしょう。


この虐殺を命令した人物が裁かれることのないまま、
実行犯だけが裁かれる現実はあまりにも寒々しい。


それでも、こういう人たちに対する裁判でさえ、
多数の妨害が入り、
判事や検事や証人は身の安全を心配しなければならなかったのです。
それだけの覚悟をしないと進められないからこそ、
未だに内戦の罪が裁かれることがほとんどないわけです。


リゴベルタ・メンチュが国内での告発を諦めたのも、
やはり同じような理由でしたしね・・・・・・。


もうしばらくプラン・デ・サンチェスの話は脇に置いておいて、
もう一つ現在裁判が進んでいる(というか止まっているというか)、
別のケースを、近いうちに取り上げてみたいと思います。



[ 2008/05/29 21:17 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

ジェノサイドか否か (7) プラン・デ・サンチェス III 

プラン・デ・サンチェスの虐殺事件、
もう一人事件の被害者の証言を取り上げておきたいと思います。
先のベンハミン・マヌエル・ヘロニモの証言の中にも名前が出てくる
エウラリオ・グラーベ・ラミレスは、
証言当時56歳、事件当時は28歳くらいでありました。
プラン・デ・サンチェスで生まれ、現在もこの村に住む彼は、
農業を営むアチー族の住民です。





当時、10日ごとに国軍の兵士ら30人のグループが
プラン・デ・サンチェスを訪れておりました。
それとは別にラシュフト、コショハバフ、プラン・デ・サンチェスには
24時間住民を監視するPAC(自警団)もありました。
また、軍コミッショナーもいて、住民にPACのメンバーとなり、
その地域を監視するよう強要していました。
兵士らは住民のことをゲリラだと言っていました。


1982年7月18日の日曜日、この日はラビナルの市の日だったので、
証人は生活用品を買うためにラビナルに行く途中、
兵士らがあちらこちらの村の住民を集め、
プラン・デ・サンチェスに向っているのを見かけました。
午後5時頃、プラン・デ・サンチェスに戻ってくると、
兵士らが暴力を使いながら、村の住民と近隣の住民を皆、
ロサ・マヌエル・ヘロニモの家に集めているのを見ました。
15歳~20歳の女性についてはギジェルマ・グラーベ・マヌエルの家に連れて行くと、
レイプし、脚や腕を折って、その後殺しておりました。
その後、もっと多くの人々を殺し、家に火をつけました。
子供達は床に叩きつけられ、それから両親と一緒に火の中に投げ込まれました。


午後8時になって家に入ることができましたが、
そこで妻と3人の子供が死んでいるのを見つけました。
娘の1人は、兄弟2人の遺体に埋もれていたため、
生き延びることができました。
証人は彼女を連れて逃げ、その夜は山の中に潜んで過ごしました。
その後、親戚の家に隠れていて難を逃れることができた
他の2人の息子をも見つけました。


その日、約280人が亡くなりました。
この虐殺は国軍の兵士、PAC、司法警察、軍コミッショナーによって行われたものでした。


1982年7月19日の朝9時、プラン・デ・サンチェスに戻り、
火をつけられた家からまだ煙が出ているのを見ました。
フアン・マヌエル・ヘロニモと出会いましたが、彼は家族を皆失っていました。
生き延びた他の人たちとも手を合わせて遺体を焼いていた火を消しました。
真っ黒焦げになった遺体もありましたが、他のものは火傷を負った程度でした。
若い女性の遺体の多くは別のところにあり、裸で横たわっておりました。
午前11時、軍コミッショナーとPACが
2時間で遺体を埋めるようにという国軍からの命令を持ってやってきました。
そのため、マヤの慣習に則って家族の遺体を埋葬することはできませんでした。


虐殺事件の後、全てはグアテマラ国軍によって破壊され、略奪されておりました。
家も所有品も失ってしまったため、
証人は5ヶ月にわたって子供達と山中に逃げ込まざるをえなくなりました。
生存者らは夜は山に逃れ、昼はプラン・デ・サンチェスに戻り、
順番に見張りをして、
兵士らが近づいてきたら逃げるようにしました。
このような生活を送らざるを得なかった時期は、
証人の人生の中でも非常に辛い時期でした。
子らは厳しい気候と空腹のため、病気にもなりましたが、
医者の手当てを受けることはできませんでした。


軍コミッショナーが許してくれなかったので、
プラン・デ・サンチェスには戻りませんでした。
もし誰かがそんなことをしようとしたら、きっと逮捕され、
軍の駐留地に連れて行かれ、そこで処刑されていたでしょう。
山の中で2年間を過ごした頃、軍コミッショナーは
PACに加われば、コショハバフに住まわせてやると言いました。


1984年の中ごろ、軍の駐留地は
虐殺事件の生き残りである約15家族のグループに対し、
プラン・デ・サンチェスに戻ってくることを許可しました。
家族統合センターは家を再建するためのトタン板などを提供してくれました。
虐殺事件の前は、貧乏ではありましたが共同体の住民の中には
調和と団結がありました。
事件の後はすべてが変わり、皆、更に貧しくなったのでした。


プラン・デ・サンチェスへの帰還は厳しいもので、
農業活動を始めるのは大変困難でした。
1990年以降、現在は自分の土地でコーヒーを栽培し、販売しておりますが、
国は証人らの財産を返してはくれませんでした。


生涯を共にするはずであった家族を失ったことは大変辛いものでした。
住民の多くは鬱状態となり、
家族を失ったので自分も死にたいと嘆いておりました。
中には、このために亡くなった人もおりました。
これらのことは決して忘れることができません。


マヤの儀式を司る老人らは虐殺で亡くなっており、
彼らの死と共に伝統も失われました。
若者には誰も教えてくれる人がおりませんでした。
更に、軍コミッショナーやPACはあらゆる集会を監視していたため、
宗教儀式を行うことには皆恐怖を感じておりました。
この抑圧された暴力的な状況について、誰も公に話すことができませんでした。
PACと軍コミッショナーが村人を厳しくコントロールしていたからです。
1995年か96年頃から、PACの活動はなくなりましたが、
彼らの存在が住民を脅かしておりました。


国がインディヘナのことを考慮してくれたことは
かつて一度もありませんでした。
教育や、住居や、保健や、政治などへのアクセスを
容易にしてくれたこともありませんでした。
虐殺事件の前も後も、誰も自分たちのことを考えてくれたりしませんでした。
グアテマラの他の人たちにとっては、私達は存在していないからです。
プラン・デ・サンチェスの虐殺事件では、
インディヘナが死んだだけで、
誰も事件について知りたくもなかったし、知ろうともしない。
もし私達がラディーノであったならば、殺されることはなかったでしょう。
実際に、ラディーノの共同体には何も起こっていないではないですか。
証人はラジオでリオス・モントが
「インディオは皆死ぬべきだ」
と言っていたのを聞いた時のことを覚えております。



[ 2008/03/30 18:36 ] 内戦 | TB(0) | CM(0)

ジェノサイドか否か (6) プラン・デ・サンチェス II 

この裁判で提出された書類の中には、この虐殺を生き延びた人の証言もあります。


ベンハミン・マヌエル・ヘロニモはその1人で、
証言を録った2004年には50歳、事件当時には22歳くらいですか。
プラン・デ・サンチェスで生まれ、事件当時は農業と織物を生業としていた
マヤ系アチー族の人で、アチー語を話します。
少し長いですが、全文です。




1981年から軍の兵士がプラン・デ・サンチェスにやって来るようになりました。
若者や成人の男性を連れて行っては兵士になるよう強制していました。
その当時、村には10人からなる自警団(PAC)のグループが10あったのですが、
PACは村で起こったあらゆることを監視したり、捜査したりしていました。


虐殺事件のあった1982年7月18日の日曜日、
兵士らは午後2時ごろ村にやって来ました。
私はその時、姉の家から75mほど離れた山の中に隠れていました。
しばらくしてから、兵士らは私の姉の家に向かい、
そこに村人や途中で捕まえた人を連れてきましたが、
子供たちや、15歳~20歳くらいの若い女性は別にされました。
それから虐殺が始まりました。
最初に、年配の人たちをゲリラだと言って拷問し、
その後手榴弾を2発投げた後、一斉射撃をし、
最後にガソリンをかけて、家ごと燃やしました。
別のところに集められていた女性たちは、レイプされ、拷問されました。
女性、男性、老人らを殺害した後は子供たちの番でした。
1人1人、床に投げつけたり、火の中に投げ込んだりしていました。
兵士が村の出入口をふさいでいたので、誰一人として逃げることは不可能でした。


この虐殺を行ったのは国軍、PACと司法警察のメンバーでした。
プラン・デ・サンチェスやその近くに住む人たち約284人が、この日、亡くなりました。


私の母と妻、姪と3人の姉妹はこの時に亡くなりました。
姉妹たちのうちの1人はレイプされておりました。


翌日、私は潜んでいた場所から出て、何が起こったのかを見に行きました。
エウラリオ・グラーベ・ラミレスと
その兄弟のフアン、ブエナベントゥーラ、エステバンらと共に
まだ遺体を焼き続けていた火を消しました。
まだ黒焦げになっていなかった遺体には、拷問された痕が見られました。
裸のままの若い女性達の遺体もありました。


その後、PACの連中と軍コミッショナー達がやって来ました。
彼らは軍の駐屯地から、
遺体を2時間ですべて処理するようにという命令を持ってきていました。
そうしなければ、村の上を飛んでいるヘリコプターから銃撃して殺す、というのです。
それでPACと軍コミッショナーの監視下、
大きな溝を掘り、そこに遺体を全部放り込みました。
ですので、マヤの慣習にのっとった、聖なる土地への埋葬はできませんでした。


兵士らは村人の家々から物を盗み、
金目の衣装は彼らの間で分けるために持って行きました。
生き残った人たちは空家にもぐり込み、
兵士らがやってこないかどうかを交代で見張ることにしました。
日中はそうやって家に残り、夜になると山へ逃げ込みました。
私は、2年間を山の中で過ごしました。
殺されるのが怖くて、プラン・デ・サンチェスには戻れませんでした。
国軍に属する司法警察は「ブラックリスト」を持っており、
私達を見つけたら殺せという命令を受けていました。


故郷を追われた生活は非常に苦しいものでした。
希望もなければ、誰も守ってくれる人がいないように感じました。
飢えと、寒さと、渇きに苦しみ、
病気になっても、手当てを受けることができませんでした。


1984年の1月、1983年に発効となった恩赦の話を聞いて村に戻りましたが、
軍コミッショナーは私たちがプラン・デ・サンチェスに戻って家を再建することも、
仕事をすることも許してくれませんでした。
私たちは他の村に住まざるを得ませんでした。
加えて、PACに入ることも強制されました。
男達は全員、14歳の少年から老人まで、
全員がPACの一員となることを義務付けられました。


1984年11月、家族統合センターが、最低20人がいれば、
家を建設するというプロジェクトを始めました。
私と、フアンとブエナベントゥーラの兄弟はラビナルの軍コミッショナーに
プラン・デ・サンチェスに戻り、家を再建する許可を求めました。
こうして、他の生存者らと同様に村に戻ることができました。


村に戻った後は、ラシュフトの軍コミッショナーらが
それぞれ3日、8日、15日毎にやって来て、
私たちのことをゲリラだと言い、しょっちゅう脅迫しては
厳しいコントロールを敷くようになりました。
PACの役割には変わったものもありましたが、
リーダーたちは相変わらず、
私たち、生き延びた者らはゲリラで、
彼を殺しに来たのだという誤った考えを持っていました。
軍コミッショナーとPACは、大体1995年~96年頃になくなりましたが、
その後も村の住人にプレッシャーを掛け続けていました。


虐殺事件で、家族だけではなく、所有していた物をもすべて失った上、
時の経過と共に土地は痩せ、
収穫した物を売れるようになるまでには、数年が必要でした。


村に戻ってきた時、苦痛、無力感、怒りを感じましたが、
仕返しが怖くてそれを自由に表現することができませんでした。
証人らは、言われた通りにするより他になかったのです。
無理矢理仕事をさせられたりもしました。


プラン・デ・サンチェスの軍事化のため、
祖先伝来の慣習を続けることは不可能となりました。
虐殺事件以前は、個人やグループのディヴォーション(礼拝)が行われていました。
これを執り行なっていた老人らは何人かおりましたが、
その多くは事件で亡くなり、
その知識は次の世代に引き継がれないままとなってしまいました。
加えて、軍からのプレッシャーと若者を軍務につかせるようにという要求に
祖先からの信仰も、慣習も、知識も失ってしまい、続ける気持ちをも失ってしまいました。
虐殺事件は、マヤの儀式の中で時折行われていた宗教行事を行う自由を奪ってしまいました。
軍コミッショナーは、それは自分たちの敵に対する黒魔術で、
悪知恵をつけるものだからと言って許してくれなかったのです。


恩赦が出て、もっと自由に話すことができるようになった後でも、
宗教行事を行うためにはまだ軍コミッショナーの許可を求める必要がありました。
行事の際にはPACが交代でずっと見張りをしていました。
1994年6月から始まった遺体発掘以降、
私達はやっとマヤの行事を行う自由を得ることが出来たのです。


プラン・デ・サンチェスの虐殺事件以来、知識の伝達も変わってしまいました。
両親を失った子供たちには、祖先たちからの教えを
両親から受けることができなかったからです。


常に管理下におかれ、あらゆること、
特にプラン・デ・サンチェスの虐殺事件については、
話をすることができませんでした。
1996年、和平が調印されてやっと、
公に虐殺事件と誰にその責任があるかを話勇気をえることができました。


私達はインディヘナであり、
コミュニティーのリーダーであり、
村の発展を求めてきたという理由で差別されてきました。
その上、私達はゲリラで、虐殺を引き起こしたのは私達だとも言われてきました。



[ 2008/03/16 08:10 ] 内戦 | TB(0) | CM(2)